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黒い毛を逆立てた狼タイプの魔物達が、まるで雪崩のように飛びかかってくる。
「うわわわっ……!」
自分でも情けない声だと分かってはいたが、しかし、それも仕方ないことだった。それほどの迫力。そして無駄のないコンビネーション。動きを目で捉えきれない。
結果、最初の2匹までは前脚を弾いてなんとか掴まられずに済んだが、後はもう無理だった。腹や腕に突進するようにぶつかられ、そのまま押し倒される。
だが、彼らの攻撃はそこまでだった。
こちらの眼前で誇らしげに、獣特有の湿っぽい息を吐くと、そのまま一斉に去っていく。そして、少し奥の平地に座り込んでいるアリシアの元に駆け寄ると、揃って背中や首を擦り付けていた。
明らかに、甘えている。
「よしよし。偉い偉い」
対する彼女も満面の笑みで、魔獣達を撫でている。まさに慈母、或いは、ブリーダーといった様子だが、魔獣の背丈は彼女の身長を軽く越えているため、傍目には埋もれているように見えなくもなかった。
しかし、なかなか微笑ましい光景だ。
自分だけは、完全に除け者だったが。
「まだ目に頼ってる」
不意に彼女はこちらを見据えると、はっきりとした口調でそう告げた。周りの魔獣達は大人しくなり始めているが、まだ体の大半が魔獣達の黒い体毛の陰に隠れている状態。本来なら凶暴なはずの彼らを、彼女は子犬でも扱うようにコントロールしている。
それはそれとして、彼女の言いたいことは分かったので、冷たい地面に尻餅をついたまま、憮然とした表情で答える。
「そんなすぐに身に付くもんか。ていうか、そいつら調子にのってるだろ。俺に飛びかかる時の気迫が尋常じゃないぞ」
「そうね。きっと、私に褒められたくて、張り切ってるんだと思う」
「……そのお陰で力余った爪があちこち食い込んで、このザマなんだが」
着ているシャツやズボンはボロボロ。腹や腕にも生傷だらけ。耐性があるため病気は移らないはずだが、気持ちのいいものではない。
外套をローブのように纏っている彼女は、その中から左手を出して、口元に当てる。そして、可笑しそうにクスッと笑った。
「別にいいじゃないって言うのもあれだけど、回廊ルートで死にかけた人が言う台詞? あの時に比べたら、掠り傷みたいなものじゃない?」
「いや、まあ、そりゃそうだが……」
「ほらほら。休んでないで訓練訓練」
そう言って彼女が目配せするなり、傍で伏せていた獣の一団が機敏に起き上がり、一斉に駆け寄ってくる。
「──って、コラ! この!」
こちらも立ち上がって、彼らに倒されないように牽制する。この相手がただの犬だったら、そしてここが緑豊かな公園だったら、和気藹々といった光景かもしれない。しかし、相手は狼をさらに凶悪化させたような魔獣で、青白く光る洞窟が背景。地獄の番犬を死に物狂いで調教している、と言った方が近いかもしれない。
何故、こんなことをしているのか。それはもちろん、これが訓練だからだ。
まずはアリシアが洞窟内に入り、その辺をうろついていた魔獣達をあっという間に手懐けてしまった。そして、その中から手頃な相手を探して、こうして交代制で俺を襲わせているわけだ。ただし、互いに大怪我をさせない制約付き。というのも、これは俺の目を磨くための訓練だからだ。
いや。
正確には目じゃない。
彼女の言うとおり、目に頼っていては、初動のない奴の攻撃に対処できないのは分かり切っている。
よって、それ以外の感覚、具体的に言えば、気配や勘というもので、攻撃を察知して避ける訓練だ。
ただ、それが何度やってもうまくいかない。
今回もまた、魔獣達にあっという間に引きずり倒されてしまう。
結局、10秒も持ちこたえられなかった。
「いてて……」
抉られた左肩を気にしながら体を起こすと、やはり、アリシアに褒めて貰おうとしているのか、先程の一団が彼女の周りに集結しているところだった。その前にいた一団は、既に脇にどけて休憩中。どこぞの王に仕える騎士団並に規律がいい。それはやはり、リーダーの風格のせいだろうか。
アリシアは魔獣達の首や背中を撫でてやりながら、こちらを大きな瞳で見つめていた。
「今のでだいたい10秒くらいね。その前が6秒くらいだった。せめて3分くらいは立っていられないと、諦めて貰えないと思うけれど」
「……そうかよ」
どういった伝達方法かは謎だが、どうしても俺を倒すのが無理だと思ったら、疲れる前に諦めろと言ってあるらしい。そして、奴らが諦める以外に、この訓練のクリア条件はない。そのラインが180秒くらいという話だ。
まだまだ先は遠い。
「だけどな」
俺は片膝を立てた格好で休みながら、魔獣達を愛でるアリシアに尋ねる。
「こいつら、ただ単に素早いだけだろ? こう言っちゃなんだけど、奴の初動を消す能力に対抗するっていう趣旨とは、ちょっと違うんじゃないか?」
「いいえ」
アリシアは軽く微笑む。服装の違いのせいか、いつもよりも大人っぽく見えた。
「人間同士の戦闘、或いは、人型同士と言ってもいいけれど、その種の同型同士の戦闘だと、相手の初動から次の行動がある程度予測できる。実のところ、これは戦闘に限った話じゃない。多くの人間は自覚していないうちに、相手のちょっとした動作から、次に何をしてくるか予測しているわけ。たとえば表情でも同じ。予備動作のない直立不動のまま怒ったり照れたりされると、変な感じがすると思わない? それはつまり、まったく予想外の表情だから。意表を突かれたという印象が無意識の自分を支配して、あの表情はおかしい、この状況に相応しくないという違和感に変わってしまうわけ」
なにやら難しい話をされた気がするが、一応説得力はあった。それは多分、他ならぬアリシアの口から出たからだろう。彼女ほど、表情ひとつで相手の印象をコントロールできる者はなかなかいない。
「だけど、相手が人型じゃない場合、たとえ予備動作があっても、そこから何の印象も得られない。だから、突然やってきたように見える。それはつまり、初動を消して攻撃してくる人間に抱く違和感と同じ」
「うーん、だけどな……」
そうやって前置きしながら、発するべき言葉を探した。なかなか難しい話なので、ついていくのも一苦労だ。
「だけど、こうやって何度も訓練してたら、そのうち犬の挙動も理解できるようになるんじゃないか?」
そこで、アリシアの膝にもたれていた魔獣が不意にこちらを睨んで、低く唸った。
意味がよく分からず、場が膠着する。
しかし、瞳を大きくしていたアリシアが、不意に告げた。
「俺は犬じゃない、無礼な奴だ、ですって」
「……犬語が通訳できるのか?」
すると、聞こえているぞと言わんばかりに、同じ魔獣が唸る。
また場が止まる。
だが、顔を見合わせた直後、ふたりで吹き出してしまった。
「いや、悪かった。こうやって、訓練に付き合って貰ってるのにな」
右手を立てて申し訳なさそうに謝ると、魔獣は、仕方ないと言わんばかりに視線を下ろし、そのままアリシアの膝に顔を載せた。とても魔獣とは思えないほど、気持ちよさそうに目を細めていた。
何というか、平和だ。
昨日までのあの死闘が嘘みたいだ。
だけど。
そう──
こうして穏やかな表情のアリシアを見ていると、誰にも邪魔されることなく、彼女とずっと、ここでこうして暮らしていたいとさえ思える。少し前までは、家庭なんて微塵も価値がないと思い込んでいたのに、今では、それを望む人間の気持ちが少しは分かるような気がした。
しかし。
蒼白い地面を見つめて、ふと、彼女の歴史に思いを馳せた。
きっと、いくら彼女が平穏を望んでも、周りがそうさせなかったのではないか。彼女の隣に誰かいたら、そいつを殺してでも、この可憐な魔王を奪おうとしたのではないか。その結果、彼女は無事でも、彼女の周りには常に血溜まりができていたのでは。
月はひとり。
月の周りには、無数の男達が星になって浮かんでいる。
その光景が蘇る。
「話を戻すけれど……」
その言葉に視線を上げると、彼女が微笑んでいた。いつものように穏やかに。
俺も微笑んだ。
そうだ。
今は、とにかく前へ。
でも。
恐らく、そんなに長い間置いておくことはできないという予感がした。
いつだって、彼女は物事に真正面から取り組むことを望むから。
だから。
惰弱な俺が、どれだけ目を逸らしても。
剛毅な彼女は躊躇なく、それを目の前に突きつけるだろう。
この関係が壊れる日はすぐそこかもしれないという予感が、腕のない左肩から胸にかけて、痛みを刻んでくるのを感じた気がした。




