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世にも恐ろしい幻月の魔王の微笑みによって、男ふたりは客間から追い出された。着替えのついでに、マリアにはアリシアから状況を説明してくれることになった。従って、自分がわざわざ彼女の目覚めを待っていた意味は、ほとんどなくなってしまった。
「……確か、俺をここまで運んだのも、あんただとか言ってたよな」
「うむ」
「敢えて聞くが、妙な真似をしなかっただろうな」
「心配するな。全身くまなく触診して確認したが、とりたてて異常はなかった」
無言で脛を蹴りつけてやろうとしたが、軽く避けられてしまった。紛いなりには魔王ということか。
ふたりが立っているのは、シドが最初に運ばれた部屋の隣。かつてアリシアが、監獄や拷問部屋か霊安室と表現した部屋の、もう片方。この部屋のベッドを手術台代わりにして、魔王達が肉体の回復手術を行ったらしい。つまり、この中で、術後のヴェスタという少女が眠っている。目覚めた途端に錯乱する恐れがあるので、向こうの話がつくまでここで見張っていろと、アリシアから命令されたのだった。
そういうわけで、ふたりは扉の両端に背中をつけて立っている。どちらも腕組みしていて、ほとんど視線を交わすことはなかった。
「だいたい、女の裸を見て、いきなり、GだのFだの言うか?」
「うむ。そうだな」
「分かってるなら、口に出すな」
「やはり、もっと形を重視した指標が必要だ」
どうやら、全く分かっていないらしい。
果てしなく深い溜息を吐いて、もうこいつと喋るのは止めようと心から誓ったが、ジェレイドの次の一言は聞き捨てならなかった。
「いつだったか、幻月にも脱いで貰ったことがあるが……」
横目でギロリと睨むと、彼はようやくこちらを見て、僅かに口元を上げた。
「嘘だ。悪かった」
「知ってるか? 世の中には、言って良い嘘と悪い嘘があるって──」
「そうか」
ジェレイドは真面目な顔に戻るなり目を閉じて、その一言でばっさりと、こちらの言葉を遮った。何故なのかよく分からなかったが、脳の奥に響くような言葉だ。
この時初めて、この男が魔王であるという事実の一端を見た気がした。
「君は、幻月のことを愛しているんだな」
意外な一言。
さすがに驚いて、言葉が出なかった。
目を開いたジェレイドは、こちらを真っ直ぐに見据える。意外なほど鋭利な視線で、普段とのギャップのせいか、気圧されるほどだった。
「君のように幻月に言い寄ってきた男は、それこそ星の数ほどいる」
俺は黙る。
そして、睨みつけてやった。
何を。
何を今更。
そんなこと、知らないわけが──
だが、ジェレイドはそこで気を抜くように微笑み、挑発するように告げた。
「君は、その星の数ほどの男全てに、勝てるのか?」
また驚く。
そして、まるで彗星のように。
この時初めて、何かに気付いた。
そう。
そうか。
ただ単純に、彼の言葉にそのまま納得したわけじゃない。ただ、もっと深い場所で引っかかった何かが、俺が見ないようにしていた扉を開けた気がした。
だけど。
それはすんでのところで、消えてしまう。
掴めそうで掴めない。
何か。
これは、何か──
「ただ──」
気付くと、ジェレイドはもうこちらを見ていなかった。眼鏡の横から見える瞳を細め、何かを思い出している様子だ。
「──結局、月はひとりだがな」
彼は息を吐いた。
その震えるような呼吸が。
寂しそうで。
悲しそうで。
まるでそこから夜風を生み出しているような気さえするほどの、冷気を感じさせる息遣いだった。
分からない。
いったい何を言いたいのか、さっぱり分からない。
でも。
月は。
ひとり。
その言葉が、先程できたばかりの空洞に、ぴったりとはまりこんで。
そして。
唐突な理解が、俺を襲った。
頭の中に、煌めく夜空が再生される。
ぽっかりと浮かぶ美しい月。
その周りに多くの星。
でも。
ひとり。
そう。
そうか。
とても危うく不確かな理解だったけれど、でも、分かった気がした。
そして。
不意に怖くなった。
ああ。
そうか。
そうだ。
彼女は、きっと──
しかし、その時。
通路の奥から扉が開かれる音がして、淡いオレンジの光が漏れてくる。
それから慌てて思考を現実に戻した。馬鹿みたいに戸惑っていて、まるで生まれたての赤ん坊みたいな、不慣れな対応だった。
やがて足音がふたつ近付いてくる。
まず、ランプ片手に先導してきたのが、夜色のワンピースを纏うアリシア。流れる黄金の髪がその光を反射して、より煌めきを増している。慎ましい無垢な顔も、やや赤っぽく映えて、いつもよりも可愛らしい印象だった。
その奥からやってきたのが、フリルの多い白いブラウスと、柔らかそうな黒のスカートという、多少都会的なファッションに身を包んだマリア。足にも黒い靴。長い黒髪を後ろで束ねていて、やはり大人っぽい。どこにそんな服があったのかは不明だが、どこからかアリシアが用意した物に間違いない。
アリシアはいつも通りの澄まし顔だが、マリアはやや緊張した面もちに見えた。
それは無理もない。
彼女の妹がどうなるか、彼女にかかっているのだから。
「どう?」
アリシアの軽い質問に、ジェレイドはドアから背中を離して頷く。
「何も問題はない。彼女次第だ」
全員の視線がマリアに集中する。
彼女の表情はやはり固かったが、しかし、それでもすぐに頷いた。
「君だけで入った方がいい」
ジェレイドは扉の前から離れながら告げる。僅かに遅れて、俺も同じように向かいの壁へと移動した。その空いたスペースにマリアが進み出て、扉の前に立つ。
その背中に、ジェレイドは淡々と説明を続ける。
「彼女の身体欠損を補うために、ここにあった機械人形のパーツを移植した。従って、身体機能は既に問題ない。だが、知識がある君なら分かるとは思うが、精神の方はそうはいかない。基本的に、同系統の血統であれば拒絶反応は起こらないが、【造兵種】が大規模な移植手術を行った場合、脳内記憶と電磁気ネットワークに蓄積されたバックアップが強制的にリンクすることになり、その結果、記憶が部分的に欠損する場合や、実際にはない誤った記憶が形成されることもある」
「分かります」
マリアは震えるように小さく頷く。それが如何に恐ろしいことなのかを物語るように。
「アリシアさんに説明して頂いて、おおよそのことは理解できました。つまり、記憶の再構成が行われるということですよね」
「うむ。そうだ」
ジェレイドは頷かなかった。ただ平坦な視線をマリアに向けている。
「彼女の脳内の記憶と、移植したパーツに残っていた記憶。これらが組み合わさることになる。基本的には脳内の記憶の方が優先されるが、細かい分布がどうなるかまでは、私にもちょっと予測できない。しかし、再構成の過程で特定の刺激を与えれば、ある程度は記憶を誘導できる。要は、赤ん坊が産まれて初めて見た人間に親近感を持つのと同じ理屈だ」
「つまり、ヴェスタが目覚めた時に私がいれば……」
「君を中心とした記憶が形成されるはずだ。私としても、それが最もいい選択だと考えている。見ず知らずの人間では、恐怖が先立ち、混乱する可能性が高い。だが──」
「分かっています」
マリアは真っ直ぐ立って、ジェレイドを見つめる。とても強い視線だと、傍から見ている者にも感じさせる、真摯な瞳だ。
「ヴェスタが暴れても、私が止めます。今度こそ、私があの子を守ります」
「彼女の血統は『電動執務人形』から変わっていない。つまり、以前と同じように、電撃と重心移動が使えるだろう。それらをまともに食らって、君が怪我をしては元も子もない。何か対策は?」
「電撃は耐性があります。あとは、たとえ殴られても、根性で何とかします」
「根性か」
眼鏡の奥の瞳が一瞬だけ微笑んだのが見えた。ただし、気付いた時にはもう、いつもの無表情だったが。
それっきり、誰も言葉を発しなかった。
不意にマリアはこちらを見る。俺が軽く頷いてやると、彼女も同じように頷いた。それから再びジェレイドを見つめ、最後にアリシアと視線を交わす。彼女がランプを渡しながら優しい笑みを見せると、マリアもぎこちないながらも笑みを返した。
それからようやく振り返り、震える手でドアを開ける。
狭い部屋の中を、明かりが照らす。
彼女が固まったように立ち止まる。
動かない。
ここからは、部屋の奥は見えないが、しかし、彼女が何を見ているのかは明らかだ。
やがて、彼女は何かを振り払うように部屋に入り、そっと扉を閉めた。
辺りがまた暗くなる。
しばらく、全員が黙ってそこに立っていた。
しかし、やがて部屋の中から、マリアが妹の名前を震える声で呟くのが聞こえてから、誰からともなく、気を利かせるように、その場を離れていった。
あとはただ、待つのみだ。




