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魔蝕の血~幻月~  作者: 倉元裕紀
第5章 遷移
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 レギンと相対した最初の部屋まで戻ると、すっかり煙は晴れていた。灰色の床のあちこちに、迷彩服姿の男が倒れていたが、誰も動く気配はない。死んでいるのか、或いは気絶のかは不明だが、前にここに立ち寄ってから30分も経っていないわけで、まだ動ける者がいなくても不思議はない。

 そして、それ以外にさらにひとり、明らかにもう動けない者がいた。

 少女らしいほっそりとした体躯の人間が、壁にもたれかかるようにして倒れている。艶やかな黒髪を三つ編みにして、頭の両側から垂らしているのが印象的だった。ただ、色白というよりは、蒼白と言った方がいいかもしれないが。

 とにかく、そこから顔から下が酷い有様だ。

 手足が原型をとどめておらず、大量に流れ出した血液で、その一帯に赤い水溜まりができている。他にも、飛び散った肉片や鎖の残骸のようなものが、その血溜まりに沈み込んでいて、観察すればするほど、気分が悪くなることは必死だった。いずれにしても、誰がこんな悲惨なことをしたのかは明らかだ。

 さらに、そのすぐ隣。

 ローブが血に染まるのも構わず、足を横に投げ出して座り込んでいるマリアが、そこにいた。

 彼女はただ、黙って少女の顔を見つめている。

 いや。

 もう、何も見ていないのかもしれない。

 何も考えていない。

 もうどうなってもいい。

 泣き腫らして赤くなった目元と、その中で力を失った黒い瞳を見て、察しがついた。

 駄目だった。

 間に合わなかった。

 死んだ。

 死んでしまった。

 大事だった妹を、助けられなかった。

 その壊れた人形のような表情は、やはり、悪夢で見たアリシアのものとよく似ていた。

 哀れな黒髪の姉妹の姿を、しばらく目に焼き付ける。

 そして、考える。

 何が悪かったのか。

 どうして救えなかったのか。

 考える。

 いや。

 気付くと、自分は何も考えていなかった。

 そう。

 そうか。

 考えるのは、後でいい。

 それからようやく、血塗れの少女の傍に立つ男に視線を向けた。もちろん、最初からその男の存在には気付いていたが、明らかに敵意のない静かな視線をしていたため、敢えて後回しにしていた。

 全く見ず知らずの男だが、その服装から、なんとなくその素性には察しがついた。


「この遺跡の研究者ってのは、あんたか?」


 細いフレームの眼鏡を掛けた白衣姿の男。色白で淡いグレイの髪で、瞳も白色に近く、背は高いのだが、どうにも存在感の薄い男だ。ぼんやりとしていると言ってもいい。こちらを見ているようないないような、寝起き直後みたいな曖昧な視線がこちらをうっすらと捉えている。

 そんな雲みたいな男だが、どういうわけか、大量の眼鏡をネックレスみたいに首から下げていて、それだけが妙に鮮明だった。はっきりしたことは言えないが、フレームの色が全て違うらしい。だが、もちろん、なんでそんなに眼鏡が必要なのか、謎でしかなかった。

 彼はこちらの問いに答えなかった。代わりに、じわりとした視線を隣のアリシアに移す。


「君は、ここまで予測していたのか?」


 男が最初に発した言葉が、それだった。

 当然ながら、驚く。

 アリシアに対して、まるで知り合いみたいな口調だったから。

 しかし、その問いを受けたアリシアは、いともあっさりと──


「まさか。そろそろ貴方が帰ってくる頃だとは思っていたけれど、こんなことになるなんて、完全に予想外」

「……貴方?」


 唖然とした顔でアリシアを見ると、彼女はきょとんとした様子で首を傾げた。しかし、すぐに何かに納得したらしく、可笑しそうに吹き出す。


「あ、いえ、貴方っていっても、そういう意味じゃないから。私が浮気してるって思った?」

「え? あ、いや、そういう意味じゃなく」


 言われて初めて気付いたが、確かに『貴方』という言葉は夫を指す場合もある。彼女にもし旦那がいたとしたら、さすがに面白くはないが、今聞きたいのはそういうことじゃなかった。

 アリシアに耳打ちしながら、改めて尋ねた。


「じゃなくて、こいつ、知り合いなのか?」

「ええ」

「こいつとは失礼な」


 意外にも聴覚が鋭敏な血統なのか、或いは単に地獄耳なのかは不明だが、男は思ったよりも鋭利な声で割り込んでくる。


「一応、君にとって私は、命の恩人だぞ」

「……へ?」

「誰が下まで運んでやったと思ってる」

「ちょっと、その話は後。今はそれどころじゃないでしょう?」


 アリシアが呆れたような口調で割り込むと、顎を上げた威圧的な視線で、白衣男の顔を見上げた。


「猶予は?」


 男は表情ひとつ変えずに、右の手の平を開いて見せる。


「うむ……、あと5時間弱といったところか。ただし、身体機能を回復したければ、この20分だ」

「それは無理。だいたい、ここには道具もないし」

「ならば移植しかない」

「でしょうね。とりあえず、貴方は彼女を──」

「ちょっと待て」


 完全に置いてきぼりのまま、ほいほい話が進むので、とりあえず割って入る。

 そして、ひとまずはアリシアを見つめながら、真面目な顔で尋ねた。


「とりあえず、俺にも状況を分かるように説明してくれ。あと、こいつは誰だ」


 腕を組んだアリシアは、こちらを真っ直ぐに見据え、即答する。


紫檀(したん)のジェレイド」


 目が点になった。

 数秒間固まってから、白衣の男に視線を戻す。彼はこちらを見ていたが、相変わらず、金持ちのボンボンみたいに風格がない。背は相当高いくせに、威圧感どころか、存在感すら危うい。何を考えているのか分からない。いや、明らかに何も考えてないとしか思えない、アリクイみたいな覇気のない目をしている。

 だけど。

 どうやら、魔王らしい。

 そんな、どうにも薄っぺらい風格不足の魔王は、酷くあっさりと、何の重みも感じさせない空気みたいな口調で、アリシアからの説明を受け継いだ。


「人間達にはジェイドと名乗っている。その名前でかれこれ1000年近く歩き回っているから、こう見えて、人間の友人も多いぞ」

「……1000年?」

「ああ。人類の独立戦争時には、戦場医師として多大な貢献をしたということで、どこぞの王から賞を授与されたこともある。今の人類の自由があるのも、私が手を貸したからだと言ってもいい。そういう意味では、君にとっては二重の意味で、命の恩人だな」


 頭痛がしてきた。

 どこが──

 どこが、魔王は全員滅ぼした、だ。

 その辺に、普通に歩いてるじゃないか。


「……魔王ってのは、あとどれくらい残ってるんだ?」


 うんざりした目でアリシアを見ると、彼女は銀の瞳を一度瞬かせてから、白衣の男、いや、紫檀のジェレイドに視線を移した。


「誰か死んだ奴がいるって、聞いたことある?」

「いや。私が知る範囲ではいないな。たまにばったり会うこともあるが、皆楽しくやっているようだ」


 どうやら、全員ご存命らしい。

 歴史なんて、嘘っぱちだ。


「……まあ、いいや」


 追求しても疲れるだけみたいなので、さっさと思考を現在に切り替えることにした。


「で? さっきの会話は何だったんだ?」


 どちらに聞いたらいいのか分からないので、アリシアとジェレイドを交互に見ながら尋ねる。

 先に動いたのはアリシア。彼女が説明を譲るように手を差し伸べたのを見て、ジェレイドはあっさり告げた。


「一言で説明するなら、要するに、その子は完全に死亡していないということだ」

「……へ?」

「より正確に言うなら、仮死状態(セーフモード)だ。【造兵種】の精神機構は特殊で、魔性金属の電磁気ネットワークが、一種のバックアップ的な役割を果たす。よって、通常なら生命機能の復帰が不可能な場合でも──」

「ま、待て待て!」


 慌てて両手を前に出して、説明を遮る。はっきり言って、専門的過ぎて何も分からなかった。聞けば聞くほど混乱するのは必至だ。

 とにかく。

 とにかく、あのヴェスタという子は、まだ生きている?

 でも、生きてるからって、こんな遺跡の中じゃ、まともな治療は──

 いや。

 そうじゃない。

 今はそんなことを考えている場合じゃない。


「──とにかく、俺はどうすればいい?」


 そう。

 それだ。

 ほとんど無意識のうちに、視線はアリシアを捉えていた。彼女の方が頼りになると判断したのは間違いない。

 彼女は子供みたいに小さく頷く。


「とりあえず、彼女達を奥まで運ぶしかない。一応5時間あるらしいから、急げばなんとかなるはず」

「手術の時間も必要だ」

「分かってる」


 ジェレイドに素っ気ない言葉を返してから、彼女は次々に指示を出した。


「シドはその怪我で悪いけれど、そっちの彼女を運んであげて。ジェレイドの方が、怪我人の運搬には慣れているし」

「分かった」


 そう言ってる間に、ジェレイドは血溜まりの中に足を踏み入れ、少女の体を持ち上げようとしていた。こちらも遅れて、放心したまま動かないマリナに近付く。


「あとはルートの問題。多少大回りになるけれど、回廊ルートを行きましょう。私が道は把握しているから、先導しながら魔物の対処をする。それでなんとか、シドと彼女の安全を確保しながら進めるはず」

「樹海ルートの方が早くないか?」

「いえ。【造兵種】のその子に、あのルートは無理。毒はともかく、その怪我で細菌に汚染されたら厄介だし」


 確かにその通りだった。今や、健全な皮膚の方が少ないくらいなのだから。

 そうこうしているうちに、ジェレイドは少女を両手で軽々と持ち上げる。白衣が真っ赤に染まるが、それに気付いていないと言わんばかりの無表情だ。

 こちらは少し手間取ったが、アリシアに手伝って貰って、何とかマリアを肩に担ぐことに成功した。結局、彼女は気を失っているらしく、まるで反応がないままだ。

 だけど、今はとにかく、彼女の妹を助けなければ。


「行きましょう」


 颯爽と歩き出すアリシアの黄金の髪を目印に、男達も遺跡の奥へと進み始めた。



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