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魔蝕の血~幻月~  作者: 倉元裕紀
第4章 死地
33/51

8



 可憐なる幻月の予期せぬ登場で、明らかにレギンの時が止まっていた。行動を起こすなら今がチャンスだ。

 俺は床に突き立つ大鎌を見る。

 これは、アリシアが奨めてくれた武器。

 あの時、彼女は確か──


『今の貴方には、それが一番相応しいと思う』


 確か、そう言った。

 あの時は使い方が分からなかったが、今は、不思議と理解できた。

 その柄に右腕を伸ばし、しかし一旦止めて、隣に立つアリシアを見た。

 いつものように、彼女はこちらを見上げて微笑む。

 月姫の名に相応しい、慎ましく可憐な顔。

 淑やかな夜のドレス。

 その横を流れる星光の髪。

 そして、神秘の輝きを放つ、淡い銀の瞳。

 彼女が頷く。

 俺も頷く。

 そうだ。

 もう後戻りはできない。

 たとえ、彼女を失う恐怖、彼女を奪われる恐怖がつきまとっても、その代償以上の何かを得られる。その先に、ひとりで生きる強さ、何も失うものがない強さよりも、もっと尊いものを見つけられると。

 信じる。

 信じなければ。

 一生負け犬だ。

 俺は。

 かつての魔王の武器を、この手で引き抜いた。

 そして、自分の血を震わせるのと同じ要領で、その刃を震わせる。

 すると──

 その中央の空洞に眼球が張り出し、大男を睨む。

 さらに、その周囲の刃を構成する半月状のパーツが、小刻みに震えだした。

 最初は、ギィギィという、虫が鳴くような声。

 やがてそれは暴れ出し、金属が擦れ合う音がみるみるうちに激しくなり。

 そして──

 身の毛のよだつような、金切り声に変わった。


「む──」


 レギンが竦むように一歩下がる。

 それを見て、この音の正体が分かった。

 恐慌旋律。

 聞く者の恐怖心を煽り、戦わずして退かせる音の武器。魔眼よりもかなり一般的な、精神攻撃の一種。

 肉弾戦では無敵の巨人も、精神攻撃には隙があるらしい。だが、逃げ出さないところを見ると、全くの無耐性というわけでもないらしい。こちらに一歩が踏み出せないでいるようだが、戦意が消えていないことは、その鋭利な視線を見れば明らかだった。

 ただ、それで上等。


「アリシア」


 鎌を握ったまま、横を向いて囁く。彼女はこちらの視線を受け止めると、本当に従者然とした、目を伏せるような上品な礼をしてから、羨望にも似た輝くばかりの視線をこちらに送った。


「はい。シド様がお望みのことでしたら、何なりと」


 その言葉に、少し吹き出しそうになる。

 しかし、代わりに右腕で彼女の肩を抱き寄せてから、囁くように耳打ちする。


「悪い。下手な芝居はいいから、本音を聞かせてくれ」

「あら。下手な芝居って、どういう意味?」


 彼女は一瞬だけ、とびきり可愛らしいむくれた顔を作ったものの、すぐに笑みに変わった。少なくとも、気乗りしていないわけじゃないことは読みとれた。


「本音だって同じ。貴方がしてみたいことでしょう? だったら、私も見てみたい。それだけじゃない?」

「それはまあ、そうだが……」

「私に傷をつけるのが嫌なの?」


 その質問には、さすがに黙らされる。

 本当に、こちらの心は全てお見通しみたいだ。

 そこで彼女は少女のように屈託なく微笑み、しかし次の瞬間、慈母のような優しげな笑みに変わった。


「そんな貴方だから、いいの」


 彼女は微笑んだまま、僅かに首を傾ける。


「私のことを傷つけたくないと思っている貴方だから、傷つけられてもいい。だって、私が傷ついた分だけ、貴方の心にも同じだけの傷が刻まれるから。同じだけ傷ついてくれる。同じだけの苦痛が分かちあえる。だから、こんなに辛くて切なくて、熱くて狂おしい。だけど、こんなに暖かくて優しくて、心の底から通い合うものは、他にない」


 そして。

 腕の中でこちらに向き直ったアリシアは、聖女のようにそっと目を閉じて、まるで祈りを捧げるように、こちらに顔を上げる。

 或いは、キスを待つように。

 本当に曇り一つない、月光を纏っているように神秘的な、無垢の肌。

 綺麗だ。

 綺麗すぎる。

 だからこそ、傷つけたくないという思いは、より一層強くなる。

 だけど。

 俺は、ここで止まりたくない。

 こんなところで死ぬわけにはいかない。

 もっともっと先へ進みたい。

 彼女と一緒に。

 そして、彼女もまた、同じ気持ちだと、応えてくれた。

 だったら、もう。

 怖じ気づいているわけにはいかない。

 僅かに微笑みながら、俺は目を閉じる彼女に顔を近付ける。

 そして。

 その首筋に、歯を立てた。


「ん──」


 気を吐くような、艶めかしいその声と共に。

 血が。

 彼女の血が、滲み出る。

 できるだけ優しく、唇で舐めるようにしながら、俺は。

 魔王の血を取り込む。

 極上の果実のように濃厚で。

 高級な菓子のように甘い。

 しかし、まるで最高級の炭酸のように刺激的な、そんな味。

 俺はそれを、できるだけ大事に、精一杯大切に、口の中で味わった。

 彼女は、時折微かな息を吐くだけで、しかし、僅かに口元を綻ばせながら、黙ったまま、されるがままにしていた。

 それが、数分。

 いや、もっとだろうか。

 体感では限りなく長い時間、その行為を続けてから、俺はようやく、彼女の首筋から顔を離した。

 閉じた時と同じようにそっと、アリシアも目を開ける。

 そして、どちらからでもなく微笑む。

 通い合った何かを、確認するように。

 彼女の瞳はいつになく潤んでいるように見えた。その危うく揺れる銀の光を見て、嬉しさと辛さが交互に押し寄せてくる。

 或いは、それを誤魔化そうとしたのかもしれない。

 右腕しかなかったが、彼女の華奢な体を、そこでさらに抱き締めた。

 しかし、その時。


「うおおおお!」


 初めて聞く、巨人の雄叫び。

 その叫びで自分を奮い立たせ、恐慌旋律による足止めを克服したのか。

 そう認識した直後には、彼の拳がこちらの顔面に振り下ろされるところだった。

 一瞬だけ奴の顔を見る。

 今まで見たことのないような怒りの形相。

 除け者にされたのが、よほど悔しかったのか。

 それは、まあ、お気の毒様。

 しかし。

 今更攻撃したところで。

 遅い。

 奴の拳が触れる直前。

 俺とアリシアの体が、影になって消えた。

 彼女の血を飲んで励起した能力。

 幻月の力。


「なっ──」


 驚愕するレギン。

 そんな奴と背中合わせの位置で顕現した俺は、その右腕を奴の巨大な左腕に触れさせる。

 勝利も。

 敗北も。

 今や。

 俺と彼女の手の中だ。


「──ケジメは、腕1本だったな」


 そう呟いた途端。

 奴の左腕が黒炎に包まれ、消し飛んだ。


「ぐわあああああああ!」


 竜の断末魔に匹敵するような轟音の悲鳴が、その壮絶な痛みを物語る。

 巨体が倒れる。そして、痛みに震えながらのたうち回る音が聞こえる。

 俺は黙って振り返る。いつの間にか、その横にはアリシアが立っていて、同じように、惨めな巨人の姿を見下ろしていた。

 もう片方の腕でも焼いてやれば、拒絶反応の痛みでショック死するだろう。

 つまり。

 ここで終わりだ。

 ところが。

 背後の通路から、抑制された軽快な足音が響いてくる。再びそちらを向いた時には、見覚えのある迷彩服の男が、こちらに駆け寄ってくるのがはっきり見えた。

 あの時の。

 あの草原で戦った、ベテランの方。

 そいつは速度を一切落とさず、慣れた手付きで腰から金属球を掴み取ると、すぐ前の床に投げつけた。

 煙が一気に吹き出す。

 転がった金属球を飛び越え、腰だめにナイフを構えた男の姿も、全く隠れてしまう。

 足音も気配も、一瞬で隠れた。

 思わず舌打ち。

 奇襲戦に持ち込む気か。

 視界が利かない場所では、聴覚や嗅覚、或いは熱や振動探知の能力を持つ方が有利になる。相手の血統はまだ分からないが、わざわざ煙幕をばらまいた以上、何らかの能力を持っていると考えた方がいい。この状況が、彼にとって有利なのは間違いない。

 そして、こちらにはアリシアもいる。

 俺だけではなく、彼女を狙われる可能性もある。敵の動きが見えなければ、自分の身を守るのはともかく、彼女まで守るのは極端に難しくなる。

 そこまで考えての、瞬時の判断。

 やはり、手強い。

 決して侮れない。

 そうなれば、決断は一瞬でついた。


「アリシア」

「はい」


 その彼女の返事と共に、再び闇へと消える。

 数秒後、ふたりの姿は、煙の範囲からかなり離れた通路で顕現した。

 ふわりと髪の毛を下ろしてから、彼女はこちらを見上げて尋ねてくる。


「あれでよかったの?」

「……ああ」


 レギンにトドメをさせなかったのが心残りなのは確かだが、しかし仕方ない。一応、奴には手傷を負わせたし、感情に任せて踏み込み、俺かアリシアが危険に晒されては元も子もない。

 それに──

 俺は煙で覆われているのとは反対の道を見据えた。


「向こうも心配だ。今のうちに合流しておこう」

「はい」


 そのまま先を急ごうとしたが、ふと気付いたことがあって、彼女を振り返る。

 そして、その首筋を見つめた。

 血はすでに止まっているが、やはり傷ができている。

 いつか消えてなくなるといえばそうかもしれない。

 だけど。

 しかし、彼女はその視線に気付くなり、すぐに微笑んで──


「貴方の方が辛そうな顔してる」


 可笑しそうに、そう言ってくれた。

 だから、俺も笑って答える。


「アリシア」

「何?」

「ありがとな」


 いつだって彼女は、俺を見ていてくれた。その上で、俺がしたいことを尊重してくれた。

 今日もそうだ。

 俺がふらふらと逃げ出して、死にそうな目にあって、それから脱出したことも全て、彼女はどこからか見ていた。魔王の能力なら、きっとそれくらいはできたはずだ。

 その上で、俺が名前を呼ぶまで、俺の決心がつくまで待っていてくれた。


『私が傷ついた分だけ、貴方の心に同じだけの傷が刻まれるから──』


 そう言った彼女が、俺のあの凄惨な姿を見て、どれほど傷ついただろうか。

 だけど。

 それでも我慢して、俺を信じて、待ってくれた。だからこそ、今ここではっきりと、ありがとうと言わなければならなかった。

 もしかしたら、この言葉を本音で告げられたのは、生まれて初めてだったかもしれない。

 珍しく、アリシアは照れたようにはにかんだ笑みを見せた。もちろん、それでも十分に可憐で、直視できないくらいに眩しい、最高の笑顔だった。



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