8
可憐なる幻月の予期せぬ登場で、明らかにレギンの時が止まっていた。行動を起こすなら今がチャンスだ。
俺は床に突き立つ大鎌を見る。
これは、アリシアが奨めてくれた武器。
あの時、彼女は確か──
『今の貴方には、それが一番相応しいと思う』
確か、そう言った。
あの時は使い方が分からなかったが、今は、不思議と理解できた。
その柄に右腕を伸ばし、しかし一旦止めて、隣に立つアリシアを見た。
いつものように、彼女はこちらを見上げて微笑む。
月姫の名に相応しい、慎ましく可憐な顔。
淑やかな夜のドレス。
その横を流れる星光の髪。
そして、神秘の輝きを放つ、淡い銀の瞳。
彼女が頷く。
俺も頷く。
そうだ。
もう後戻りはできない。
たとえ、彼女を失う恐怖、彼女を奪われる恐怖がつきまとっても、その代償以上の何かを得られる。その先に、ひとりで生きる強さ、何も失うものがない強さよりも、もっと尊いものを見つけられると。
信じる。
信じなければ。
一生負け犬だ。
俺は。
かつての魔王の武器を、この手で引き抜いた。
そして、自分の血を震わせるのと同じ要領で、その刃を震わせる。
すると──
その中央の空洞に眼球が張り出し、大男を睨む。
さらに、その周囲の刃を構成する半月状のパーツが、小刻みに震えだした。
最初は、ギィギィという、虫が鳴くような声。
やがてそれは暴れ出し、金属が擦れ合う音がみるみるうちに激しくなり。
そして──
身の毛のよだつような、金切り声に変わった。
「む──」
レギンが竦むように一歩下がる。
それを見て、この音の正体が分かった。
恐慌旋律。
聞く者の恐怖心を煽り、戦わずして退かせる音の武器。魔眼よりもかなり一般的な、精神攻撃の一種。
肉弾戦では無敵の巨人も、精神攻撃には隙があるらしい。だが、逃げ出さないところを見ると、全くの無耐性というわけでもないらしい。こちらに一歩が踏み出せないでいるようだが、戦意が消えていないことは、その鋭利な視線を見れば明らかだった。
ただ、それで上等。
「アリシア」
鎌を握ったまま、横を向いて囁く。彼女はこちらの視線を受け止めると、本当に従者然とした、目を伏せるような上品な礼をしてから、羨望にも似た輝くばかりの視線をこちらに送った。
「はい。シド様がお望みのことでしたら、何なりと」
その言葉に、少し吹き出しそうになる。
しかし、代わりに右腕で彼女の肩を抱き寄せてから、囁くように耳打ちする。
「悪い。下手な芝居はいいから、本音を聞かせてくれ」
「あら。下手な芝居って、どういう意味?」
彼女は一瞬だけ、とびきり可愛らしいむくれた顔を作ったものの、すぐに笑みに変わった。少なくとも、気乗りしていないわけじゃないことは読みとれた。
「本音だって同じ。貴方がしてみたいことでしょう? だったら、私も見てみたい。それだけじゃない?」
「それはまあ、そうだが……」
「私に傷をつけるのが嫌なの?」
その質問には、さすがに黙らされる。
本当に、こちらの心は全てお見通しみたいだ。
そこで彼女は少女のように屈託なく微笑み、しかし次の瞬間、慈母のような優しげな笑みに変わった。
「そんな貴方だから、いいの」
彼女は微笑んだまま、僅かに首を傾ける。
「私のことを傷つけたくないと思っている貴方だから、傷つけられてもいい。だって、私が傷ついた分だけ、貴方の心にも同じだけの傷が刻まれるから。同じだけ傷ついてくれる。同じだけの苦痛が分かちあえる。だから、こんなに辛くて切なくて、熱くて狂おしい。だけど、こんなに暖かくて優しくて、心の底から通い合うものは、他にない」
そして。
腕の中でこちらに向き直ったアリシアは、聖女のようにそっと目を閉じて、まるで祈りを捧げるように、こちらに顔を上げる。
或いは、キスを待つように。
本当に曇り一つない、月光を纏っているように神秘的な、無垢の肌。
綺麗だ。
綺麗すぎる。
だからこそ、傷つけたくないという思いは、より一層強くなる。
だけど。
俺は、ここで止まりたくない。
こんなところで死ぬわけにはいかない。
もっともっと先へ進みたい。
彼女と一緒に。
そして、彼女もまた、同じ気持ちだと、応えてくれた。
だったら、もう。
怖じ気づいているわけにはいかない。
僅かに微笑みながら、俺は目を閉じる彼女に顔を近付ける。
そして。
その首筋に、歯を立てた。
「ん──」
気を吐くような、艶めかしいその声と共に。
血が。
彼女の血が、滲み出る。
できるだけ優しく、唇で舐めるようにしながら、俺は。
魔王の血を取り込む。
極上の果実のように濃厚で。
高級な菓子のように甘い。
しかし、まるで最高級の炭酸のように刺激的な、そんな味。
俺はそれを、できるだけ大事に、精一杯大切に、口の中で味わった。
彼女は、時折微かな息を吐くだけで、しかし、僅かに口元を綻ばせながら、黙ったまま、されるがままにしていた。
それが、数分。
いや、もっとだろうか。
体感では限りなく長い時間、その行為を続けてから、俺はようやく、彼女の首筋から顔を離した。
閉じた時と同じようにそっと、アリシアも目を開ける。
そして、どちらからでもなく微笑む。
通い合った何かを、確認するように。
彼女の瞳はいつになく潤んでいるように見えた。その危うく揺れる銀の光を見て、嬉しさと辛さが交互に押し寄せてくる。
或いは、それを誤魔化そうとしたのかもしれない。
右腕しかなかったが、彼女の華奢な体を、そこでさらに抱き締めた。
しかし、その時。
「うおおおお!」
初めて聞く、巨人の雄叫び。
その叫びで自分を奮い立たせ、恐慌旋律による足止めを克服したのか。
そう認識した直後には、彼の拳がこちらの顔面に振り下ろされるところだった。
一瞬だけ奴の顔を見る。
今まで見たことのないような怒りの形相。
除け者にされたのが、よほど悔しかったのか。
それは、まあ、お気の毒様。
しかし。
今更攻撃したところで。
遅い。
奴の拳が触れる直前。
俺とアリシアの体が、影になって消えた。
彼女の血を飲んで励起した能力。
幻月の力。
「なっ──」
驚愕するレギン。
そんな奴と背中合わせの位置で顕現した俺は、その右腕を奴の巨大な左腕に触れさせる。
勝利も。
敗北も。
今や。
俺と彼女の手の中だ。
「──ケジメは、腕1本だったな」
そう呟いた途端。
奴の左腕が黒炎に包まれ、消し飛んだ。
「ぐわあああああああ!」
竜の断末魔に匹敵するような轟音の悲鳴が、その壮絶な痛みを物語る。
巨体が倒れる。そして、痛みに震えながらのたうち回る音が聞こえる。
俺は黙って振り返る。いつの間にか、その横にはアリシアが立っていて、同じように、惨めな巨人の姿を見下ろしていた。
もう片方の腕でも焼いてやれば、拒絶反応の痛みでショック死するだろう。
つまり。
ここで終わりだ。
ところが。
背後の通路から、抑制された軽快な足音が響いてくる。再びそちらを向いた時には、見覚えのある迷彩服の男が、こちらに駆け寄ってくるのがはっきり見えた。
あの時の。
あの草原で戦った、ベテランの方。
そいつは速度を一切落とさず、慣れた手付きで腰から金属球を掴み取ると、すぐ前の床に投げつけた。
煙が一気に吹き出す。
転がった金属球を飛び越え、腰だめにナイフを構えた男の姿も、全く隠れてしまう。
足音も気配も、一瞬で隠れた。
思わず舌打ち。
奇襲戦に持ち込む気か。
視界が利かない場所では、聴覚や嗅覚、或いは熱や振動探知の能力を持つ方が有利になる。相手の血統はまだ分からないが、わざわざ煙幕をばらまいた以上、何らかの能力を持っていると考えた方がいい。この状況が、彼にとって有利なのは間違いない。
そして、こちらにはアリシアもいる。
俺だけではなく、彼女を狙われる可能性もある。敵の動きが見えなければ、自分の身を守るのはともかく、彼女まで守るのは極端に難しくなる。
そこまで考えての、瞬時の判断。
やはり、手強い。
決して侮れない。
そうなれば、決断は一瞬でついた。
「アリシア」
「はい」
その彼女の返事と共に、再び闇へと消える。
数秒後、ふたりの姿は、煙の範囲からかなり離れた通路で顕現した。
ふわりと髪の毛を下ろしてから、彼女はこちらを見上げて尋ねてくる。
「あれでよかったの?」
「……ああ」
レギンにトドメをさせなかったのが心残りなのは確かだが、しかし仕方ない。一応、奴には手傷を負わせたし、感情に任せて踏み込み、俺かアリシアが危険に晒されては元も子もない。
それに──
俺は煙で覆われているのとは反対の道を見据えた。
「向こうも心配だ。今のうちに合流しておこう」
「はい」
そのまま先を急ごうとしたが、ふと気付いたことがあって、彼女を振り返る。
そして、その首筋を見つめた。
血はすでに止まっているが、やはり傷ができている。
いつか消えてなくなるといえばそうかもしれない。
だけど。
しかし、彼女はその視線に気付くなり、すぐに微笑んで──
「貴方の方が辛そうな顔してる」
可笑しそうに、そう言ってくれた。
だから、俺も笑って答える。
「アリシア」
「何?」
「ありがとな」
いつだって彼女は、俺を見ていてくれた。その上で、俺がしたいことを尊重してくれた。
今日もそうだ。
俺がふらふらと逃げ出して、死にそうな目にあって、それから脱出したことも全て、彼女はどこからか見ていた。魔王の能力なら、きっとそれくらいはできたはずだ。
その上で、俺が名前を呼ぶまで、俺の決心がつくまで待っていてくれた。
『私が傷ついた分だけ、貴方の心に同じだけの傷が刻まれるから──』
そう言った彼女が、俺のあの凄惨な姿を見て、どれほど傷ついただろうか。
だけど。
それでも我慢して、俺を信じて、待ってくれた。だからこそ、今ここではっきりと、ありがとうと言わなければならなかった。
もしかしたら、この言葉を本音で告げられたのは、生まれて初めてだったかもしれない。
珍しく、アリシアは照れたようにはにかんだ笑みを見せた。もちろん、それでも十分に可憐で、直視できないくらいに眩しい、最高の笑顔だった。




