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魔蝕の血~幻月~  作者: 倉元裕紀
第4章 死地
32/51

7



 鋼鉄の床の上を、ひたひたとふたりの足音が走る。マリアはそもそも裸足。シドの知り合いらしき小柄な男も、わざわざ靴を脱いでくれていた。その男に手を引かれながら、シドが向かったのとは別のルートで煙の中心へと向かう。


「こっちだ」


 曲がり角や分岐に差し掛かっても、男は立ち止まることなく、躊躇なく先へ進んでいく。彼は【魔獣種】の血統で、しかも、聴覚や動体視力に優れた魔物の血筋らしい。その高性能の聴覚を活用すれば、通路の奥に敵がいるかいないか、すぐに分かるそうだ。

 しかし、それ以前に、結局誰にも遭遇しないまま、煙幕が霞む通路が見えてきた。


「あの中ですか?」

「ああ」


 それを聞いたら、居ても立ってもいられなくなる。

 ヴェスタが。

 あの子が、ここに──

 男の手を離して、煙の奥に一目散に飛び込んだ。


「あ、おい!」


 一旦様子を見ようと立ち止まった男が、こちらの背中に慌てて声をかける。彼の言いたいことはもちろん分かった。まだシドの引きつけが済んでいないかもしれない。もしそうだったら、『壊し屋』と呼ばれる大男と鉢合わせしてしまう。

 だけど、待ってなんていられない。

 視界が悪いため、時折転びそうになったり、壁に肩をぶつけたりしたものの、すぐに広い部屋に入ったのが分かった。

 そして──

 勢い込んで踏み出した足が、何か水気の多い物を踏んでしまった。素足を通して伝わる、僅かに熱が残った柔らかい質感。それ以前に、部屋に充満する血の匂いに気付いていたので、それが何なのか想像がついた。

 人。

 動かない、人。

 まさか。

 まさか──

 胸が締め付けられる。

 それでも、自分が踏んづけたものを、ようやく見下ろした。

 人の腕。

 さらに、その近くに倒れていた頭を見て、思わず口を抑えた。

 酷い。

 酷すぎる。

 顔が判別できない程に頭を潰された男の死体。

 人間業とは思えない。

 だけど。

 マリアはすぐに視線を逸らした。この人はもう、明らかに助けられない。

 それに、自分が助けに来たのは──

 そこでようやく、その音に気付く。

 今にも消えそうな、か細い息遣い。

 それでも、分かった。

 あの子だ。


「ヴェスタ!」


 名前を呼んでも、返事はなかった。ただ、弱々しい息遣いが返ってくるだけ。

 早く。

 早くしないと。

 その息が消えてしまう。


「ヴェスタ!」


 もう一度叫ぶ。とにかく、あの子の意識を連れて行かせないために。

 それから、呼吸が聞こえる方へ大雑把に、煙の中を闇雲に進んだ。優れた聴覚も嗅覚もないので、正確な位置は分からない。だけど、幸いにも、それほど広い部屋ではなかったようで、それほど歩かないうちに、すぐに、彼女の倒れている場所に辿り着けた。

 だけど。

 最初に見えた彼女の足を見て、息が止まった。

 いや。

 一瞬、あの子の足だと信じられなかった。

 何か、鉄塊の下敷きになったのではと思えるほどの──

 でも。

 すぐに意を決して、さらに彼女に近付く。

 次々に明らかになる凄惨な現状。

 膝も肘も。

 腹も胸も。

 全てが惨たらしいまでに潰されていて。

 それでも。

 彼女の顔にそれほど傷がなかったのを見て、ほっとしている自分がいた。


「ヴェスタ!」


 壁にもたれながら、力なく横に倒れていたその首を支えるように、抱きしめる。

 うつろな瞳。

 今にも消えそうな呼吸。

 だけど。

 生きてる。

 まだ。

 まだ。

 ヴェスタ。

 ヴェスタだ。

 よかった。

 よかった。

 全然喜べる状態じゃないことは、もちろん分かっていた。

 でも。

 歓喜の涙が出ていることに、驚きはなかった。


「ヴェスタ! ヴェスタ!」


 彼女の耳元で、押し殺すように叫ぶ。

 子猫みたいに可愛らしい顔。頭を撫でると、子供扱いされて不機嫌そうな顔をしたけど、満更でもなさそうだったこの顔。今朝結ってあげた三つ編みが解けずに残っている。お互い、そっくりな黒髪をしていて、よく姉妹みたいだと言われた。

 その時は、揃って嬉しい顔をしてくれた。

 ヴェスタ。

 ヴェスタ。

 いかないで。


「マ、リア……」


 彼女の小さな唇が震える。

 それに気付き、すぐにその顔を覗き込む。

 すると。

 まだ焦点の合っていない黒い瞳が、少しだけ、こちらを向いていた。

 そして。

 その横から、涙が溢れた。


「ヴェスタ! しっかりして!」

「ご、め……、ん、ね──」


 びっくりした。

 なんで。

 なんで、この子が。

 私に、謝るの──


「ま、も……、て──」


 そこでようやく気付く。

 そう。

 そうだ。

 何かあったら守ってあげるって。

 いつも。

 いつもこの子は──

 だけど。


「──ヴェスタが謝ることないの」


 私は微笑んだ。

 溢れる涙は止められなかったけれど。

 でも。

 精一杯微笑んで、できるだけ優しく告げる。


「私がお姉さんなんだから。本当なら、私が守ってあげなくちゃいけなかったの。だから、ヴェスタ、ごめんね」


 ヴェスタは少し微笑んだみたいだった。それから、首を振ろうとしたみたいだ。

 うまく力が入らなかったみたいだけど。

 それでも。

 確かに、心が通じた。

 だから。

 彼女の代わりに、彼女の分まで、精一杯微笑んであげた。


「ありがとう。私を助けようとしてくれたんだよね? だから、こんなに頑張って──」


 そこで崩れそうになった笑顔を、一度涙を拭って、何とか持ち直す。


「──こんなに、頑張ってくれたんだね。とっても嬉しい。だから、次は、私が頑張らないと」


 そうだ。

 泣いている場合じゃない。

 私が。

 私しか、助けられない。

 この子を助けられるのは。

 私だけなんだから。

 でも。

 薬も何もない。持っていた物は全て、捕まった時に奪われてしまった。応急治療くらいはできても、この大怪我では焼け石に水だ。病院に運ぶ当てもないのだから、せめて秘薬がないと、決定的な治療にはならない。

 どうする。

 どうすれば──

 だけど、その時。

 ヴェスタの顔から力が抜け、瞳の光が消えそうになる。

 心臓を掴まれたような悪寒が走る。 


「ヴェスタ! ダメ! もうちょっと……、もう少しだけ、頑張って!」


 だけど、もう彼女の目は何も見ていない。本当に、人形になってしまったみたいに。

 いや。

 いやだ。

 いかないで。

 いかないで!

 彼女の小さな体を必死で抱き締める。その熱を、命を逃がさないように。もっと他にしなければならないことがあるはずだと、心のどこかでは分かっていたのに、体はもう言うことを聞かなかった。駄々をこねる子供に戻ってしまったみたいに。

 ダメだ。

 ダメなお姉ちゃんだ。

 ごめん。

 本当にごめん。

 しかし。

 その時。

 私の肩を、大きな男の手が掴んだ。

 思考が止まる。

 まさか。

 まさか。

 目まぐるしく思考が錯綜して、ヴェスタと同じ人形のように固まったマリアには、逃げることはおろか、振り返ることさえできなかった。










 その数分前のこと──

 シドは右手で脇腹を押さえながら、床を転がっていた。左腕がないというだけで、ここまでバランスが取りにくいものかと、自分の身体能力の低さにうんざりしていたが、しかし、今更文句を言ってもどうしようもないことだ。それに、あの回し蹴りを避け損ねた脇腹もそうだが、少し前まで骨が砕けていた両足も、本調子じゃない。

 だが、休んでいる暇はなさそうだ。

 薄い煙の奥から巨人が姿を見せる。

 それを見るなり、距離をとるべく後退していく。とにかく、ヴェスタが倒れている地点から、こいつを引き離す必要がある。そして、マリアが応急治療を行う時間を稼ぐ。それが自分の果たすべき最低のライン。

 そこまでは、何とかなるかもしれない。

 狭い通路を抜けて、新たな部屋に飛び込む。

 ところが、その部屋は行き止まりだった。何かの資材置き場だったのか、細長い鋼材が置いてあるだけで、広さはそれほどなかった。

 完全に袋の鼠だ。


「おいおい」


 部屋の奥で振り返った時、ちょうどレギンがその言葉を吐き出したところだった。

 ここまでくれば、もう煙はほとんどない。

 逃げも隠れもできない。

 唯一の通路を塞ぐように仁王立ちしてから、男は告げた。


「デカい口叩いた割には、これで終わりか? 雑魚が小賢しく、罠のひとつでも仕掛けてるのかと思ったが、そんな知恵もなかったか」

「まあな」


 あっさりと肯定すると、グレムは片眉を上げる。

 そして、戦闘態勢を解く。

 一度目を閉じる。

 さらに、深呼吸した。


「何だ?」


 再び目を開けると、レギンが口元だけで笑っていた。


「いよいよ切羽詰まって、死ぬ覚悟でも決まったか?」


 なるほど。

 そう言われればそうかもしれないと認識する。 

 ここで死ぬかもしれないと、他人事のように認識している自分がいた。

 だけど。

 死なんて。

 命なんて。

 それ自体には、特に、俺の命なんかに大した意味なんてないことは、とっくの昔に分かっていた。

 だったら、本当に価値のあるものは、いったいどこにあるのか。

 それをやっと。

 思い出した。

 思い出せた。

 素直に。

 純粋に。

 心に聞けば、すぐに答えは出たのに。

 よくもまあ。

 逃げて。

 逃げて。

 逃げ回ったもんだ。

 しかし。

 運良く俺は生きている。

 まだ戦える。

 なら。

 試してみるしかないか。

 

「──見せてやろうか?」


 そう言いながら笑いかける。

 巨人は薄ら笑いを止めて、怪訝な顔になった。

 そう。

 そうだ。

 お前には決して見えないもの。

 俺と彼女だから見えるもの。

 今まで同じ時間を過ごし、本音で話をして、だからこそ培えたものを。

 見せてやる。

 俺は。

 シドは。

 彼女の名を呼んだ。


「アリシア!」


 すると。

 何の前触れもなく、金属が跳ねる音が響く。

 巨人が背後を振り返った時には、その漆黒の影は彼の頭上で弧を描き、鋭い残影を刻みながら、俺の目の前にその刃を突き立てた。

 それは、長大な黒の柄と、同じ色の鱗状の刃がパズルのように組み合わさった、特殊な大鎌。


「何が──」


 こちらを再び見たレギンの動きが止まった。

 奴の驚愕の表情。

 それだけで十分。

 それだけで、俺には十分理解できた。

 やはり。

 やはりそうか。

 彼女は。

 彼女はずっと。

 待っていてくれた。

 俺を待ってくれていたんだ。

 その背後から。

 夜風のように淑やかに。

 しかし、流星のように煌びやかに。

 彼女は、誰よりも優雅に歩き出て、俺の隣で可憐に微笑む。

 世界で最も美しい月。

 その幻月の威光を前にして、さすがの巨人も思考を止めていた。


「──はじめまして」


 アリシアはスカートの裾を僅かに持ち上げ、上品に膝を折る。

 そして、無垢と妖艶が綯い交ぜになったような、彼女の特有の微笑みを浮かべ、自らを名乗った。


「シド様の従者で、アリシアと申します。以後、お見知りおきを」



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