7
鋼鉄の床の上を、ひたひたとふたりの足音が走る。マリアはそもそも裸足。シドの知り合いらしき小柄な男も、わざわざ靴を脱いでくれていた。その男に手を引かれながら、シドが向かったのとは別のルートで煙の中心へと向かう。
「こっちだ」
曲がり角や分岐に差し掛かっても、男は立ち止まることなく、躊躇なく先へ進んでいく。彼は【魔獣種】の血統で、しかも、聴覚や動体視力に優れた魔物の血筋らしい。その高性能の聴覚を活用すれば、通路の奥に敵がいるかいないか、すぐに分かるそうだ。
しかし、それ以前に、結局誰にも遭遇しないまま、煙幕が霞む通路が見えてきた。
「あの中ですか?」
「ああ」
それを聞いたら、居ても立ってもいられなくなる。
ヴェスタが。
あの子が、ここに──
男の手を離して、煙の奥に一目散に飛び込んだ。
「あ、おい!」
一旦様子を見ようと立ち止まった男が、こちらの背中に慌てて声をかける。彼の言いたいことはもちろん分かった。まだシドの引きつけが済んでいないかもしれない。もしそうだったら、『壊し屋』と呼ばれる大男と鉢合わせしてしまう。
だけど、待ってなんていられない。
視界が悪いため、時折転びそうになったり、壁に肩をぶつけたりしたものの、すぐに広い部屋に入ったのが分かった。
そして──
勢い込んで踏み出した足が、何か水気の多い物を踏んでしまった。素足を通して伝わる、僅かに熱が残った柔らかい質感。それ以前に、部屋に充満する血の匂いに気付いていたので、それが何なのか想像がついた。
人。
動かない、人。
まさか。
まさか──
胸が締め付けられる。
それでも、自分が踏んづけたものを、ようやく見下ろした。
人の腕。
さらに、その近くに倒れていた頭を見て、思わず口を抑えた。
酷い。
酷すぎる。
顔が判別できない程に頭を潰された男の死体。
人間業とは思えない。
だけど。
マリアはすぐに視線を逸らした。この人はもう、明らかに助けられない。
それに、自分が助けに来たのは──
そこでようやく、その音に気付く。
今にも消えそうな、か細い息遣い。
それでも、分かった。
あの子だ。
「ヴェスタ!」
名前を呼んでも、返事はなかった。ただ、弱々しい息遣いが返ってくるだけ。
早く。
早くしないと。
その息が消えてしまう。
「ヴェスタ!」
もう一度叫ぶ。とにかく、あの子の意識を連れて行かせないために。
それから、呼吸が聞こえる方へ大雑把に、煙の中を闇雲に進んだ。優れた聴覚も嗅覚もないので、正確な位置は分からない。だけど、幸いにも、それほど広い部屋ではなかったようで、それほど歩かないうちに、すぐに、彼女の倒れている場所に辿り着けた。
だけど。
最初に見えた彼女の足を見て、息が止まった。
いや。
一瞬、あの子の足だと信じられなかった。
何か、鉄塊の下敷きになったのではと思えるほどの──
でも。
すぐに意を決して、さらに彼女に近付く。
次々に明らかになる凄惨な現状。
膝も肘も。
腹も胸も。
全てが惨たらしいまでに潰されていて。
それでも。
彼女の顔にそれほど傷がなかったのを見て、ほっとしている自分がいた。
「ヴェスタ!」
壁にもたれながら、力なく横に倒れていたその首を支えるように、抱きしめる。
うつろな瞳。
今にも消えそうな呼吸。
だけど。
生きてる。
まだ。
まだ。
ヴェスタ。
ヴェスタだ。
よかった。
よかった。
全然喜べる状態じゃないことは、もちろん分かっていた。
でも。
歓喜の涙が出ていることに、驚きはなかった。
「ヴェスタ! ヴェスタ!」
彼女の耳元で、押し殺すように叫ぶ。
子猫みたいに可愛らしい顔。頭を撫でると、子供扱いされて不機嫌そうな顔をしたけど、満更でもなさそうだったこの顔。今朝結ってあげた三つ編みが解けずに残っている。お互い、そっくりな黒髪をしていて、よく姉妹みたいだと言われた。
その時は、揃って嬉しい顔をしてくれた。
ヴェスタ。
ヴェスタ。
いかないで。
「マ、リア……」
彼女の小さな唇が震える。
それに気付き、すぐにその顔を覗き込む。
すると。
まだ焦点の合っていない黒い瞳が、少しだけ、こちらを向いていた。
そして。
その横から、涙が溢れた。
「ヴェスタ! しっかりして!」
「ご、め……、ん、ね──」
びっくりした。
なんで。
なんで、この子が。
私に、謝るの──
「ま、も……、て──」
そこでようやく気付く。
そう。
そうだ。
何かあったら守ってあげるって。
いつも。
いつもこの子は──
だけど。
「──ヴェスタが謝ることないの」
私は微笑んだ。
溢れる涙は止められなかったけれど。
でも。
精一杯微笑んで、できるだけ優しく告げる。
「私がお姉さんなんだから。本当なら、私が守ってあげなくちゃいけなかったの。だから、ヴェスタ、ごめんね」
ヴェスタは少し微笑んだみたいだった。それから、首を振ろうとしたみたいだ。
うまく力が入らなかったみたいだけど。
それでも。
確かに、心が通じた。
だから。
彼女の代わりに、彼女の分まで、精一杯微笑んであげた。
「ありがとう。私を助けようとしてくれたんだよね? だから、こんなに頑張って──」
そこで崩れそうになった笑顔を、一度涙を拭って、何とか持ち直す。
「──こんなに、頑張ってくれたんだね。とっても嬉しい。だから、次は、私が頑張らないと」
そうだ。
泣いている場合じゃない。
私が。
私しか、助けられない。
この子を助けられるのは。
私だけなんだから。
でも。
薬も何もない。持っていた物は全て、捕まった時に奪われてしまった。応急治療くらいはできても、この大怪我では焼け石に水だ。病院に運ぶ当てもないのだから、せめて秘薬がないと、決定的な治療にはならない。
どうする。
どうすれば──
だけど、その時。
ヴェスタの顔から力が抜け、瞳の光が消えそうになる。
心臓を掴まれたような悪寒が走る。
「ヴェスタ! ダメ! もうちょっと……、もう少しだけ、頑張って!」
だけど、もう彼女の目は何も見ていない。本当に、人形になってしまったみたいに。
いや。
いやだ。
いかないで。
いかないで!
彼女の小さな体を必死で抱き締める。その熱を、命を逃がさないように。もっと他にしなければならないことがあるはずだと、心のどこかでは分かっていたのに、体はもう言うことを聞かなかった。駄々をこねる子供に戻ってしまったみたいに。
ダメだ。
ダメなお姉ちゃんだ。
ごめん。
本当にごめん。
しかし。
その時。
私の肩を、大きな男の手が掴んだ。
思考が止まる。
まさか。
まさか。
目まぐるしく思考が錯綜して、ヴェスタと同じ人形のように固まったマリアには、逃げることはおろか、振り返ることさえできなかった。
その数分前のこと──
シドは右手で脇腹を押さえながら、床を転がっていた。左腕がないというだけで、ここまでバランスが取りにくいものかと、自分の身体能力の低さにうんざりしていたが、しかし、今更文句を言ってもどうしようもないことだ。それに、あの回し蹴りを避け損ねた脇腹もそうだが、少し前まで骨が砕けていた両足も、本調子じゃない。
だが、休んでいる暇はなさそうだ。
薄い煙の奥から巨人が姿を見せる。
それを見るなり、距離をとるべく後退していく。とにかく、ヴェスタが倒れている地点から、こいつを引き離す必要がある。そして、マリアが応急治療を行う時間を稼ぐ。それが自分の果たすべき最低のライン。
そこまでは、何とかなるかもしれない。
狭い通路を抜けて、新たな部屋に飛び込む。
ところが、その部屋は行き止まりだった。何かの資材置き場だったのか、細長い鋼材が置いてあるだけで、広さはそれほどなかった。
完全に袋の鼠だ。
「おいおい」
部屋の奥で振り返った時、ちょうどレギンがその言葉を吐き出したところだった。
ここまでくれば、もう煙はほとんどない。
逃げも隠れもできない。
唯一の通路を塞ぐように仁王立ちしてから、男は告げた。
「デカい口叩いた割には、これで終わりか? 雑魚が小賢しく、罠のひとつでも仕掛けてるのかと思ったが、そんな知恵もなかったか」
「まあな」
あっさりと肯定すると、グレムは片眉を上げる。
そして、戦闘態勢を解く。
一度目を閉じる。
さらに、深呼吸した。
「何だ?」
再び目を開けると、レギンが口元だけで笑っていた。
「いよいよ切羽詰まって、死ぬ覚悟でも決まったか?」
なるほど。
そう言われればそうかもしれないと認識する。
ここで死ぬかもしれないと、他人事のように認識している自分がいた。
だけど。
死なんて。
命なんて。
それ自体には、特に、俺の命なんかに大した意味なんてないことは、とっくの昔に分かっていた。
だったら、本当に価値のあるものは、いったいどこにあるのか。
それをやっと。
思い出した。
思い出せた。
素直に。
純粋に。
心に聞けば、すぐに答えは出たのに。
よくもまあ。
逃げて。
逃げて。
逃げ回ったもんだ。
しかし。
運良く俺は生きている。
まだ戦える。
なら。
試してみるしかないか。
「──見せてやろうか?」
そう言いながら笑いかける。
巨人は薄ら笑いを止めて、怪訝な顔になった。
そう。
そうだ。
お前には決して見えないもの。
俺と彼女だから見えるもの。
今まで同じ時間を過ごし、本音で話をして、だからこそ培えたものを。
見せてやる。
俺は。
シドは。
彼女の名を呼んだ。
「アリシア!」
すると。
何の前触れもなく、金属が跳ねる音が響く。
巨人が背後を振り返った時には、その漆黒の影は彼の頭上で弧を描き、鋭い残影を刻みながら、俺の目の前にその刃を突き立てた。
それは、長大な黒の柄と、同じ色の鱗状の刃がパズルのように組み合わさった、特殊な大鎌。
「何が──」
こちらを再び見たレギンの動きが止まった。
奴の驚愕の表情。
それだけで十分。
それだけで、俺には十分理解できた。
やはり。
やはりそうか。
彼女は。
彼女はずっと。
待っていてくれた。
俺を待ってくれていたんだ。
その背後から。
夜風のように淑やかに。
しかし、流星のように煌びやかに。
彼女は、誰よりも優雅に歩き出て、俺の隣で可憐に微笑む。
世界で最も美しい月。
その幻月の威光を前にして、さすがの巨人も思考を止めていた。
「──はじめまして」
アリシアはスカートの裾を僅かに持ち上げ、上品に膝を折る。
そして、無垢と妖艶が綯い交ぜになったような、彼女の特有の微笑みを浮かべ、自らを名乗った。
「シド様の従者で、アリシアと申します。以後、お見知りおきを」




