6
その日はなかなか寝付けなかった。寝室の悪趣味な雰囲気のせいもあるし、単に休もうという気分になれなかったというのもある。しかし、それ以上に、ひとつの予感を抱えていたからだ。
今寝たら、きっと夢を見る。
悪夢を。
宇宙で塗り固めたような漆黒のベッドの上で、大の字に手足を投げ出している。折れた左腕にはアリシアが包帯を巻いてくれた。その上で治療用の秘薬を打つと、1時間もしないうちに元に戻った。そこまで強力な治癒力を引き出すには、普通は【異形種】の血統でもないと無理だが、自分の血統は、事実上全ての血統を併せ持つ。つまり、どの血統の秘薬でも使えるということになり、これは明らかにメリットのひとつだ。
だけど、その発見の感動も、どこか薄いものだった。
そう。
もっと気になることがあったから。
彼女の、あの、優しいのに、どこか寂しそうな表情。
あれは。
あれは、いったい、どうして──
ベッドから体を起こし、薄いレースのカーテン越しに、漆黒の壁を見つめる。
そして。
不意に決心して、その巨大なベッドから抜け出すと靴を履き、そのまま部屋から出た。
通路を左に進むと、やがていくつも小さな扉が並ぶ場所に着く。さらに奥には行き止まりが見えるが、その少し手前のドアを開けて中に入る。場所はもちろん覚えていたし、何度か開けた扉の質感を、まだ手が覚えていた。
薄暗く狭い部屋には、寝心地の悪そうなベッドがひとつ。そして、背もたれのない小さな椅子がひとつと、やはり小さな台がひとつ。
そう。
つい先日まで、自分が使っていた部屋。
当たり前だが、何も変わっていない。
その変わらない空気を確かめてから、前と同じようにベッドの縁に腰掛ける。
ここで。
ここで俺は、彼女に、いろいろなことを──
当たり散らすだけの俺に、彼女は一切の同情をしなかった。ただ淡々と、当たり前のことを答えてくれただけだ。
殺してくれと言った俺に、彼女は「勝手に死んだら?」と答えた。「貴方が本気で自殺しようと思ったら、誰にも止められない」とも言ってくれた。それはつまり、俺の命が、結局は俺のモノだと教えてくれたのだろう。他の誰のモノでもない。他の誰かが面倒をみてくれるわけでも、責任をとってくれるわけでもない。俺の自由に、俺の為に使えばいいと、今考えてみれば当たり前のことを教えてくれただけだ。
かつての自分は、魔狩という一種の称号が欲しくて、そのために人に媚びへつらうことばかり考えていた。魔狩になれれば、今まで自分を見下してきた連中を見返してやれる。そんなことのために、俺は自分の命を捨てようとした。本来なら、自分が本当に望むものが何なのか、それこそ、命を懸けてでも考えなければならなかったのに。
何故って。
俺の人生だから。
他の誰でもない、俺の人生だから。
俺がそれを考えないで、誰が考えてくれる?
親兄弟や友達が、或いは見も知らぬどこかのカリスマが、それを与えてくれるとでも?
馬鹿だ。
そんなことを信じている奴がいたら、本物の馬鹿だ。
ある意味では、俺だって、アリシアが導いてくれたと言えないこともない。だけど、彼女は俺の人生の答えを教えてくれたわけじゃない。ただ「何がしてみたい?」と聞いてくれただけだ。俺に考えろと言ってくれただけだ。そうしなければ、俺は一生クズのまま。どんなテストでも、その都度答えを教えて貰っていては成長しない。常に100点がとれても、自分で考えたものでないと意味がない。それが本当の「力」というものだ。
そう。
そうだ。
これは、俺の命。
これは、俺の生。
だから、俺は戦える。
他の誰でもない自分の命だから、それを懸けてでも戦える。
だけど。
どうして。
どうして。
彼女は、あんな──
まるで。
まるで、それが。
俺の命が。
俺だけのものじゃないと、そう言っているような──
そして。
その疑惑を。
その疑念を。
俺は。
どう受け止めればいいのか。
いくら見つめても、いや、むしろ、見つめれば見つめるほど、絵の具が水に溶けるように心が渦を巻き、次第に判別がつかなくなっていく。
まさか、彼女は俺のことを、俺の命を、そこまで大事に想ってくれているのだろうか。だからあんな心配そうな目をしたのか。彼女の3時間よりは価値があると言ってくれたことはあるが、それ以上だったのだろうか。
でも。
俺はそれを喜んでいない気がする。
むしろ、恐れていないだろうか。
いや。
そうか。
嬉しいのは嬉しい。
しかし、だからこそ、怖いのかもしれない。
俺は、アリシアのことを好意的に思っている。それは間違いない。俺のことを、俺の話を初めて真剣に聞いてくれた。そして導いてくれた。そんな女性を嫌いになれるはずがない。
ただ、どれくらい好きなのかと言われると、あまり踏み込めない自分もいる。
はっきり言って、子供の頃からずっと女が嫌いだった。あの陰険で、打算的な生物が嫌いだ。何か用途があるとすれば、性の捌け口以外にないと信じていた。女を金で抱くことはあっても、一生添い遂げるなんてことはないと確信していた。奴らと分かり合うなんてことは論外だとさえ断言していた。
でも、アリシアは違う。
今まで出会ってきた女性達と、彼女が違うのは明らかだ。だけど、これが愛とか恋というものかと言われると、それは分からない。何せ、経験がないから。女を買ったことはあっても、女性を好きになったことはない。アリシアと添い遂げる覚悟があるのかなどと自問してみると、途端に混乱してくる。
それに。
本当に怖いのは、その先だ。
彼女とそんな仲になったとして。
俺は。
今までの自分でいられるのか。
誰よりも大事な女性ができて。
その彼女と一生添い遂げる約束をしたとして。
それでも、自分の命が自分だけのものだと言えるのか。
戦えるのか。
そう。
そうだ。
戦えない。
戦えると思えなかった。
自分だけの命だったから、あんな無茶ができた。
だけど。
それが自分だけのものじゃない、その命が消えて泣く人がいる、彼女をひとりにするのが何よりも辛いと分かってしまったら。
戦えない。
戦えるわけがない。
そして。
命を懸けられない自分は。
本当になりたいものを目指せない自分は。
その時点で、生きているとは言えないのではないか。
死んでいるのと同じじゃないだろうか。
だから。
だからこそ。
急に怖くなかった。
居ても立ってもいられなくなった。
俺は。
俺は。
どうする。
どうすれば──
消える?
消えた方がいいのか?
今、彼女の前から消えれば、そうすれば、多分。
そう。
そうすれば。
俺のままでいられるはず。
今なら、きっと彼女は俺のことをあっさり忘れてくれる。それなら、俺が無茶して死んでも、あんな悲しい表情をしなくて済む。
でも。
本当にそれがいいのか?
逃げて。
逃げていないか?
逃げるのが、本当にいいのか?
逃げないで考え続けることが、生きるということだったはずなのに。
彼女から逃げることはつまり、結局、自分からも逃げていることに──
だけど。
今逃げなければ、その後ずっと膨らみ続けるかもしれない、彼女への好意から逃げ続けることになるのかもしれない。
どちらが。
どちらが正解だ?
今、期待を裏切って逃げるのか。
それとも、この先ずっと心を裏切り続けるのか。
どっちが。
どっちが正しい?
しばらくその狭い部屋の中で、頭を抱えて考え続けた。しかし、一向に答えは出ない。そのうち、もしかしたら答えなんてないのではと思えてくる。今まであまりに怠けすぎた自分は、もはや袋小路の中にいて、どうやっても不幸から抜け出せないのかもしれないと、そんなことまで考えるようになってくる。
駄目だ。
ベッドから腰を上げ、ふらふらとした足取りで部屋から出る。そのまま元来た道を帰り、寝室まで戻ってくるが、どうしても、そのドアを開ける気にならなかった。仮にこのまま寝ても、恐らく、ろくな夢を見ない。死んだ自分の横で、彼女が泣いている光景しか思い浮かばない。だったら、寝不足の方がましだ。
そのまま通り過ぎ、客間の並ぶ廊下に辿り着く。その時までは、何の意図も思惑もなかったのだが、しかし、アリシアの部屋の扉に差し掛かった時、不意にその足が止まった。
多分、幽霊のような目つきをしていただろう。そんな虚ろな目で、鋼鉄色の扉を見つめた。
ここに。
この奥に、彼女が──
まるで死んでいるみたいに静かだ。寝息のようなものは聞こえない。そもそも、魔王に睡眠が必要なのかどうかも分からない。だが、毎日シャワーを浴びて着替えているのは知っている。すると、部屋着のような物があるのだろうか。案外、今ここを開けたら、アリシアのネグリジェ姿が見られるのかもしれない。開ける時は覚悟しろと言っていたが、その格好を余程見られたくないということか。或いは、その格好が刺激的過ぎるから気をつけろという意味か。
ここを開けて、彼女に襲いかかってみるか。
そうすれば、白黒がつくような気がした。
決定的に距離が縮まるか。
それとも、決定的に嫌われるか。
いや。
馬鹿か。
馬鹿だ。
思わず呆れた。
何を考えてるんだ、俺は。
彼女の部屋を通り過ぎ、長い廊下を進む。
やがて玉座の間へ繋がる大扉が見えてくる。そのほぼ反対側に、監視室に続く扉。その中には、つい数時間前に運び込んだばかりの、壊れた機械人形が置かれているはずだ。
さらにその向こうへ歩けば、書庫や調合室がある。本でも読んでみようかと思ったが、どう考えても没頭できる気がしなかった。調合室の奥には天然の冷凍庫があるが、頭を冷やすには寒すぎる。
結局、自分の手はいつの間にか、玉座の間へ続く扉を押し開けようとしていた。
やっぱり。
やっぱり、外に逃げるつもりか。
しかし、自分が本当にそんなことを望んでいるのかいないのか、心の中は渾然一体としたままで、はっきりと分離し始めるような気配はどこにも見当たらなかった。




