7
気が付くと、背の高い黄金の穂が広がる草原にいた。
もちろん、いくら何でも、遺跡の中から出たはずはない。よって、ここは樹海ルートのどこかだろう。何層目なのかは分からないが、少し前に対処した魔物の強さを考えれば、そろそろ入り口に近付いているのかもしれない。
まるで起きながら夢を見ているようだと、そう思う。
周囲の景色にもさっぱり現実味がない。低い金属の天井を除けば、この草原は境界が見えないほど広いため、実際のものとほとんど変わらないように見える。爽やかな風が吹き抜けるような錯覚さえする。しかし、意識して体の感覚に尋ねてみれば、実際はほとんど無風で、むしろ停滞感が鬱陶しいほどだった。
だけど、体は進み続ける。
当てもなく。
夢遊病者みたいなものかと、ぼんやりと認識している自分がいた。
そのまま、止める気も進む気も起きないくせに、体は自動操縦のように、だらしなく進み続ける。
何がしたいのか。
何がしたいんだか、俺は。
それは考えるしかない。
しかし、どうしても考える気になれなかった。
仕方ない。
仕方ない。
ところが、その時。
不意に物音を感じて、足が止まる。
自分の体が穂をかき分ける音も止まった。
だが、ほぼ両サイドから、同じ音が近付いてきているのが分かった。咄嗟に周囲を見渡すが、はっきりとした異変は見当たらない。明らかに、穂の中に隠れながら近づいてきている。
やれやれ。
また魔物か。
これまでも何度か襲われているが、この辺りのレベルでは大した障害にはならないだろう。つまり、訓練にもならなければ、楽しめるわけもない。
しかし、襲ってくる以上は仕方ない。
その場に立って耳を澄ます。
どちらも結構大きい。
大型犬くらいの大きさはあるか。
そう思っていた矢先。
一際大きな音がして、左側の敵が穂の中から顔を出す。
そちらを見る。
だが。
一瞬固まってしまった。
そいつは魔物じゃなかった。
「行け!」
そう叫んだのは、色黒で彫りの深い顔。
人間だ。
まさか。
まさか。
いや。
よく考えれば、つまり、もう3層目が近いこの位置なら、人がいてもおかしくはない。
そして、それよりも。
対処が先だ。
男が投げてきた金属球に注意を向ける。あのサングラス男が使っていたのと同じ形状。衝撃を受けると中から煙や液体が吹き出す仕掛けだ。これは魔具ではないが、魔族の発明品だと言われている。今では人類の間でもメジャーな道具だ。
その球が山なりに飛んでいる。
ここの地面はぬかるんでいて、おまけに穂がクッションになるため、着地の衝撃では起動しないはず。
ならば、こちらの体に当てる気か。
いや、それにしては遅い。
何だ?
何が狙いだ?
しかし、考える暇はない。
ひとまず避けるのが無難。
地を転がるようにして、穂の中に身を隠すようにして、右に飛び込んだ。
四肢をつく蜘蛛のような体勢で、気配を窺う。
ところが。
その背中に、何かがコツンと衝突する。
動揺が走る。
さっきの球か?
軌道を変えた?
音もなく?
馬鹿な。
いや。
そうか。
すぐに察した。
さっきとは別の球だ。あのこれ見よがしなゆったりとした投げ方は、あっちが囮だったからだ。もうひとり、反対側にいた奴が、気付かれないように本命を投げただけのこと。
くそ。
やられた。
しかし、後悔したところで遅い。既に球は起動を始めている。中からぶちまけられたのは、べったりとした重い液体だった。
それが背中に、髪に、腕に、そして、周りの穂にべたべたと絡み付く。
なるほど。
足止めか。
思わず舌打ち。
よりにもよって、一番厄介な手を。
毒や酸なら効かないので問題ない。だが、こういった拘束系は耐性で防げない。一番無難で確実な選択。
頭がいい。
戦い慣れている。
魔狩の中でも相当な熟練者かもしれない。
だが。
上等だ。
口元が歪む。
少し、燃えてきた。
その瞬間に、背後から殺気を感じる。しかし、誰かが近付いてくるような物音はしなかった。弓矢かボウガンか、遠隔武器で狙われているのだろうと予想した。
足止めした上で狙撃。動かない相手を狙う方が格段に楽なわけで、やはり理にかなっている。おまけに狙いの付け方も早い。手慣れている。
ただ──
この程度を打開できないほど、俺は雑魚じゃない。
その確信と共に。
全身を燃え上がらさせる。
そして。
へばりつく粘液を一瞬で灰に変えた。
そのまま回り込むように反転し、低い体勢で穂をかき分けながら、殺気を感じた方向へと突進する。
「な──」
そんな動揺の声と共に、慌てて穂から顔を出す襲撃者。同じ色黒だが、さっき見た奴とは対照的な、あっさりとした垢抜けない風貌をしていた。かなり若い。
何だ。
思ったより、間抜けだ。
わざわざ、自分の居場所を相手に知らせるとは。
こちらに気付いた男が、咄嗟にボウガンを向けようとする。
だが。
遅い。
突進の勢いのままその武器を掴み、揉み合いになりそうなところを引き寄せ、右の拳を腹にめり込ませる。
苦悶の表情。
相手の体から力が抜ける。
やはり。
弱い。
それを確認してから、手を離してさらに蹴り飛ばし、地面に転がしておく。本当ならさらに追い打ちするところだが、今はそんな余裕がない。すぐに振り返って身構えた。
すると、予想通り、ナイフのような物を腰だめに構えたもうひとりの男が、低い姿勢でこちらに突進してきている。
相棒があっさりやられたのが気の毒だったが、2対1の状況を作ろうといういい判断だ。
さらに、その機敏な動き。
一切の慈悲を許さない、鋭利な視線。
こいつは強い。
相手の得物が一瞬だけ、穂の中から見えた。かなり大振りのナイフだったが、刀身の色が油のようにカラフルな光を反射している。魔具か、それともただの毒ナイフか。
そうこうしているうちに、相手が穂の中から飛び出すようにして、切りつけてくる。
その攻撃に対し、一瞬退くようにフェイントしてから、逆に踏み込んで迎撃した。
ナイフが握られた右腕に、こちらも右腕を出す。
服の上から肘の辺りを傷つけられながらも、向こうの腕を掴む。
厳格な男の顔が、この時初めて弛んだ。
そう。
勝ったと思って油断した。
つまり、毒が塗ってあったのだろう。しかも、よほど信頼性のある強力な毒らしい。耐性を持つ者が極端に少ないレアものか、それとも、致死量を軽く越える強力なものか。
しかし、生憎だ。
何であれ、俺には効かない。
その油断を見逃さず、相手の腕を引き込むようにして、腹に拳をねじ込む。
男の顔の彫りが一層険しくなる。
だが。
そいつは鍛え方が違ったのか、それ一発で力が抜けたりはしなかった。すぐさまこちらの腕をふりほどくと、ナイフで牽制しながら、よろけるように数歩後退して距離をとる。その間も、鋭い眼光がこちらをじっと睨んでいた。不用意に近付けば痛い目を見るというのが、ひしひしと伝わってくるほどに。
そのまま、数メートルほど離れたところで、殴られた腹を押さえながら、こちらをじっと睨み続ける。
強い。
こいつは、やはり強い。
これは楽しめそうだ。
ところが、その時だった。
「おいおい──」
舞台役者を思わせるような、低く渋いよく通る声が、草原に響く。今まで全く気配を感じていなかっただけに、その新たな乱入者の出現に少なからず驚かされた。
だが──
目の前で荒い息を吐く男の背後から、のっそりと現れたその尋常じゃない巨体が、さらに相当な衝撃だった。
何だ。
何だ、こいつ。
本当に人間か。
2メートルどころじゃない。
天井に頭が接触しそうなほどの大男。
そいつは背後からナイフ男の頭をテニスボールみたいに掴むと、そのまま人参でも引っこ抜くように、無造作に後ろに放り投げた。その軽い動作だけで、男は数メートルほど山なりに飛んでいった。まさに、野菜の選別でもしているように。
そこで、その男の後ろに隠れていた巨体の全貌が、ようやく露わになる。
とにかく規格外にデカいことは確かだが、一応、それは人間の体をしていた。半袖のシャツとアーミーパンツという、ある意味分かり易い格好だが、腕や足は建築物の柱ばりに太く、しかも見事に鍛え上げられている。古代の石像を思わせる、やや色白で無骨な顔。刈り上げられた短髪は淡いプラチナブロンドで、獅子を思わせる色合いをしていた。
その圧倒的な巨体に唖然とするが、程なくして、別の意味でも衝撃を受けた。
こんな──
こんな大男がすぐ近くに来るまで、その気配すら感じ取れなかったというのか。
こいつ。
こいつは。
相当強い。
「お前が、幻月の血統を連れてたっていう野郎か?」
大男が腰に手を当て、静かに尋ねてくる。
しかし、その問いに答える余裕は、もはやなかった。
この途轍もない威圧感。
ひしひしと伝わってくる、圧倒的な力量差。
油断すれば。
奴が動けば。
その瞬間に。
やられる。
そう。
そうだ。
隙を探せ。
弱点は。
こいつの血統は何だ。
この巨体からすぐに想像されるのは、力自慢が多い【樹魔種】か、ゴーレムと呼ばれる巨大機械兵を含む【造兵種】か。そういえば、背中に何か機械のような物を背負っているのが見える。あれが魔具だとすれば、扱えるのは【造兵種】だ。しかし、酸や毒に強くない【造兵種】の人間が、わざわざこのルートを選ぶだろうか。だとすれば、やはり耐性に優れた【樹魔種】か。
「だんまりか?」
あれこれ考えているうちに、大男がそう言いながら前髪をかきあげ、視線を逸らしながら小さく溜息を吐いた。
マズい。
恐らく、もう猶予はない。
次の一言で、奴は動く。
だとすれば。
先手必勝か。
奴が動く前に動く。
向こうの戦闘態勢が整う前に懐に入るしかない。とにかくリーチでは圧倒的に負けている。まともに組み合えば、まず勝ち目はない。
もはや、迷っている暇はなかった。
「だったら──」
相手の言葉が言い終わるよりも前に、突進した。さらに黒く燃える拳を突き出す。この防御無効の絶対の矛で致命傷を与える。それ以外にない。
だが。
既に手遅れだった。
「がぁ──」
汚泥のような濁音と共に、大量の血液が口から吐き出される。
内蔵の潰れる音。
一瞬、意味が分からなかった。
しかし──
馬鹿な。
馬鹿な。
視線を下ろす。
いつの間にかその場所に、自分の腹に、男の腕が深々と抉り込んでいる。
全く見えなかった。
それどころか、動き出すような気配は、まるで──
しかし、それ以上考えるような間を与えられることはなく、まず直後に顎を砕かれ脳が揺れた。さらに胸ぐらを掴まれ、派手に地面に叩きつけられる。受け身がどうとかいう、そんなレベルじゃない。どちらかの鎖骨が砕けるような鈍い音がしたが、その時には既に、精神機能の大半が肉体から離れていた。それほどの、目まぐるしいほどの破壊の嵐だった。
圧倒的。
強い。
強すぎる。
こんな。
こんな奴に。
勝てる、わけが──
「おいおい。まだこれからなんだけどな。とりあえず、美人の彼女の居場所は後で吐いて貰うとして、まずは、俺の部下を可愛がってくれたケジメをつけねえとな。心配するな。そんな高いもんじゃねえから。せいぜい、腕1本ってとこだ」
その言葉を認識するや否や。
左肘の辺りを、万力のような力で圧迫される。
そして。
抵抗するような、認識するような時間さえない一瞬のうちに、嘘みたいに簡単に、関節が潰されるのが分かった。
さらに。
奴は無抵抗の左腕を、まるで大根を引き抜くみたいに引っ張る。
筋肉も、神経も。
今まさに収縮を繰り返していた血管を。
それら全てを、丸ごと引き抜くように。
そして──
弾けるような断裂が幾筋も鳴り響く。、
悪寒。
恐怖。
そして。
そこにあったものがないという、超えてはならない一線を越えたような、けたたましいほどの焦燥感。
脳の理解がすぐには追いつかなかった。
しかし。
まさか。
まさか。
嘘だろ。
だが、その後、妙に生々しい、身のつまった何かが穂の中に放り捨てられるような、水気の多い音が響いて──
嘘だ。
嘘だ。
こいつ、本当に。
やりやがった!
「これでケジメはついたな。よかったよかった。じゃあ、後は、さくっと吐いて貰おうか……って、そうかそうか。顎砕いちまったんだったな。悪い悪い。ついつい力が入っちまって──」
そんな、重苦しさとは無縁の淡々とした声は、次第に薄れていった。
肉体的な痛みとは別の、渦巻くような何かが容赦なく精神を闇の淵に引きずり込み、抵抗する術もなくただ沈んでいくだけだった。




