7
複数の人間が駆ける不規則な音が広間に響く。2人か3人くらいだろうか。しかし、悠長に分析している暇はない。
まずは姿勢を低くして、黒く燃える拳を床に叩きつける。
脆く吹き飛ぶ鋼材。
同時に、その爆風によって、辺りを覆う煙が拡散していく。
音もなく姿勢を戻しながら、煙が晴れて明らかになっていく周囲の状況を観察していく。多少息苦しい感じはするものの、特に痛みは感じない。つまり、毒や催眠ガスではなく、ただの目眩ましだったようだ。
ただ。
ほんの数秒前までアリシアが立っていた場所に、彼女の姿がなかった。
まさか。
脳裏を色々な憶測が駆け巡るが、その結論が出る前に、晴れていく煙の向こうから、解答が姿を見せた。
最初に見えたのは、黄色い蛇が這い回る、黒のストッキングに包まれた細い足。
さらに、煙が晴れていくにつれ、その蛇が彼女の腰も、腕も、肩も、髪にも巻き付いていて、その華奢な肢体を完全に拘束しているのが分かった。
そして。
後ろから抱きつくようにして、薄ら笑いを浮かべた肥えた男が、彼女の体を羽交い締めにして持ち上げていた。
巨大な右手が腰の辺りを抱き寄せ、左手が彼女の口を完全に覆い隠している。驚愕に見開かれた銀の瞳の横で、男はにやけた汚らしい頬を、彼女の耳の辺りに擦り付けている。
何を。
こいつは、何を──
少し前に感じたのとは別の、暗い感情が胸の辺りから吹き出しそうになるのを感じる。
ところが。
「動くんじゃねえぞ、コラァ!」
その怒声が、アリシアを捕らえている男の横から聞こえた。そちらに視線を動かすと、煙の奥から、新たに別の男が姿を見せる。
黒の中に所々赤が混じる髪。さらに赤いサングラスと赤いジャケット。他は黒が多いが、耳や鼻や舌についたピアスも赤いのが分かった。ただし、体型的なことを言えば、隣の蛙みたいな男とは対照的に、色黒で痩身、鋭利な風貌の男だ。ただ、背はかなり低い。
そいつはポケットに手を突っ込んだまま、どこにでもいるようなチンピラの動きを、さらに大袈裟にしたような怒り肩とがに股歩きで、蛙男とアリシアのすぐ横の壁に左手を叩きつけた。そして、時計のネジみたいに首をぐるりと回して、こちらを向く。
さらに、低い声で、呟くように言った。
「……この子、もう俺らのモンだからさ」
沈黙。
すると、突然、その男は下を向いて叫ぶ。
「くぅぅぅ! 俺、決まったァァァ!」
まるで仕事終わりの最初のビールを流し込んだ時のような、爽快感極まる発声。
意味不明。
いや。
なるほど。
よく分かった。
馬鹿だ。
馬鹿だ、こいつ。
じわっとアリシアに視線を戻すと、口を塞がれたままの彼女は、少しだけ目を細めた。その動きだけで、彼女も同じ感想を抱いていることが、だいたい伝わった。
「とにかく、分かってんだろうなァ? コラァ!」
妙な発声と共に、またぐるりと首を回してこちらを見たサングラスの男はそう尋ねてきたが、はっきり言って、何も分からない。
「……何が?」
「何が、じゃねえだろうが、ボケェ! 要するに、あんたの彼女は、今俺らの手ン中にあんだろうが、コラァ!」
「……で?」
「このボケがァ! どこまでアンポンタンなんだ、てめえは?」
あんたほどじゃないと思わず言いそうになったが、一応止めておいた。正直、しきりに回り続ける首の動きの方が気になって、言葉が頭に入ってこない。
「つまりィ! てめえが下手な真似したら、この子殺すからな。分かってんな、コラァ! 今から殴りに行ってやっけどなァ、絶対反撃すんじゃねえぞ、コラァ!」
何故か最後は声が籠もるように小さくなるサングラス男。
だけど、言いたいことは分かった。
要するに、向こうには人質があるということが言いたかったらしい。だから、抵抗せずに黙って殴られろということらしい。
ただ──
再びアリシアに視線を送る。
彼女は大人しく捕らえられたまま、黙ってこちらを見つめていた。はっきり言って、全然困っているようには見えない。それどころか、こちらの視線に気付くなり、片目を瞑ってみせる余裕すらある。
なるほど。
つまり、こういうことだ。
人質がいるくらいで、ちょうどいいハンデじゃないかしら。
まったく。
まったく、この魔王様は──
だけど、その時。
「何を目配せしてんのかなぁ?」
アリシアを捕まえている太った男が、彼女の顔のすぐ横で口元を歪めた。サングラスの男とは対照的に、色白でぶよぶよとした不健康そうな男だ。瞳も髪もライトイエローで、彼女の腰に巻き付いている手が握っているステッキから、同色の蛇がうねうねと伸びて、それが彼女の体を戒めている。すなわち、あれも魔性金属を応用した装備品、魔具の一種だ。
その男は、こちらに見せつけるように、彼女の長い後髪の中に顔を埋め、匂いを嗅ぐように大きく息を吸った。普通の女性なら、嫌悪感で身を震わせるのは必死だが、アリシアはそれでも平気な顔をしている。
しかし、それに気付く様子もなく、勝ち誇った表情で、男はこちらを見据える。
「ほんと、可愛い子だよなぁ。肌もスベスベだし、体も柔らかくて、この……、匂いも最高だしなぁ。さすが幻月の血統ってことかぁ。牛でも豚でも、血統のいいのは美味しいしなぁ。あ、そうだ……」
男は何か思い付いたように、突然、大きな舌を見せつける。
猛烈に嫌な予感がした。
だが、止める間もなく、その男は──
「味は、どうなのかなぁ。ちょっと、味見して──」
そう言いながら、その気色悪い舌を、彼女の白い頬にべったりと這わせ──
ようとした、その時。
突然、アリシアの白い顔が、まるで月が陰るように、黒い影に染まる。
そして。
全身が真っ黒な影に変わった途端、彼女の全身が煙のように霧散し、そのまま空気に溶けるように消えてしまった。
「ふぇ?」
抱きついた姿勢のまま相手が消えて、手持ち無沙汰に戸惑う蛙男だが、正直、それはこちらも同じだ。何が起きたのか、さっぱり理解できない。
首を回していたサングラス男も、壁に手をついたまま、唖然とした様子で固まっていた。
そのまま、沈黙が数秒。
しかし。
「あら、ごめんなさい」
慣れ親しんだその流麗な声が聞こえたのは、シドのすぐ背後だった。
男が全員そちらを向く。
すると。
思わせぶりな表情で唇に指を当てたアリシアが、何事もなかったかのような涼しげな姿で、可憐に微笑んでいた。
彼女はこちらに一瞬だけ目配せすると、自分を捕らえていた蛙男に向かって、微笑みかけながら涼やかに告げる。
「せっかくだから、もうちょっと捕まっていてあげようと思ってたんだけど。でも、やっぱり駄目ね。生理的に受け付けないことをされると、体が勝手に逃げてしまうの。本当に、ごめんなさいね」
捕まっていた者の口から出たとは思えない発言に、驚愕のまま、男は絶句する。
さらに、その隙を利用して、男達と彼女の間に割り込んだ。
そのまま、振り向かずに小声で尋ねる。
「さっきの、どんな能力だ?」
「秘密」
同じく小声で即答する彼女。夜の淑女が発したような、上品な発声。動揺は微塵もない。
それを確認してから、改めて、襲撃者に注意を戻す。
向こうは明らかに、まだ動揺の最中だった。何やら小声で相談しているが、その時点で、既に持ち札がないことが見え見えだ。何か打開策があるなら、あんな相談をしなくても、すぐに実行に移せるはずだ。
「で?」
ふたりは叱られた子供のように、びくっと身を震わせる。
さらに、こちらが右手に黒炎を出して見せると、明らかにビビったように体を仰け反らせた。
いや。
何と言うか。
そこまでビビらせる気はなかったんだが──
何だか、急にこいつらが哀れに思えてきた。
「まだやるのか?」
呆れ口調で尋ねると、まるで説教の最中のように、しんと静まり返る。本当に、お前ら子供かとつっこみたかったが、ここも一応我慢した。
さらに、沈黙。
沈黙。
沈黙。
お通夜みたいな空気が3分くらい続くと、さすがにもう、呆れて言葉も出ない。
だけど、ようやくそこで、サングラスの男が、怒り肩と首を回しながら、声を張り上げた。
「か、勘違いすんじゃねえぞ、コラァ! 今日はちょっと、よ、様子見に来ただけだ、コラァ! 次会ったら、そん時は皆殺しだかんな! 殺すぞ、ボケェ!」
威勢がよかったのは声量だけで、終始震えっぱなし。
もはや溜息しか出ない。
「と、とにかく、追ってくんじゃねえぞ、コラァ! 逃げてんじゃねえぞ! 逃げてんじゃねえからな、ボケがァ!」
と、散々わめき散らしながら、サングラスの男はすぐ近くの通路の奥に駆け込んでいった。さすがに、こういう時は首も肩も回さずに走るんだなと、普通に走っていく子男の赤い影を見送った。
そして、その後に蛙男が続いていった。こちらは、確かに逃げているとは思えないほど、悠長な速度だった。あれなら、小走りした子供の方が速いだろう。ある意味、殿に向いているかもしれないと、漠然と思った。まさに、格好の的。その隙に、他の大勢が逃げられるに違いない。殿というより、囮と言うべきかもしれないが。
結局、特に追撃する気も起きず、黙ってふたりを見送った。
残されたのは、黒服の男女だけ。
「あれで魔狩なの?」
「言うな……」
すぐ隣まで進み出てきたアリシアの問いに、そう返すのがやっとだった。かつての自分があれよりも格下だったのかと思うと、なかなか居たたまれないものがある。
「変なことを聞くけれど……」
彼女がそう前置きしたので、視線を向けてみると、子供のようなきょとんとした表情がそこにあった。
「さっきのは、いわゆる下っ端よね?」
「……あれで相当な実力者だったら、人類終わりだろ」
「いえ、まあ、そうだけど」
彼女は苦笑いしたものの、すぐにその笑みを引っ込めて、何か思い付いた少年のような、不敵な表情に変わる。
「実は、こういうことがあるかもって、思っていたの。そして、もしそうなったら、敢えて逃がしておくのもいいかなって、考えていたのよね」
幻月の魔王は、時折見せる嗜虐的な笑みで、こちらの背筋をなぞるように震わせた。子供が戦争を指揮しているような、アンバランス故に背徳的な香り。だけど、それがある種の希少な魅力を彼女に与えている。それは、彼女がこの世で絶対の、何もかも許される特別な存在であるという、神秘性がもたらすものなのかもしれない。
そして。
その天魔の微笑みで、彼女は怜悧で綺麗な、夜風のような声を紡いだ。
「貴方、ここの新しい主になってみない?」
「へ?」
反射的に聞き返す。
だけど、彼女の無垢な少女の、妖艶な淑女の微笑みは、変わらなかった。
じっとこちらを捉え続ける幻月の瞳と、その儚げなようで途轍もない引力を誇る銀の視線と、しばらくその場で見つめ合っていた。




