NIGHTMARE~死樹恋華~
幻月のアリステシアは目を閉じていた。比較的綺麗なはずの、金属の壁に背中を預け、ただ腕組みをして待っている。魔物の蟲の、カタカタという高い鳴き声が時折聞こえるが、それ以外は静かなものだった。
そう。
本当に静か。
静かすぎる。
彼との約束から、もう1時間は経つ。いくらゆっくり歩いていても、さすがに着いているのが普通の時間。つまり、何らかの事情で歩けなくなっている可能性が高い。その何らかの事情というものについて、いくつか心当たりがあったものの、わざわざ確かめる気にはなれなかった。
本当なら、こうやって待っているのも、面倒なくらい。
ただ。
一応、約束だから。
自分の言葉には、責任を持たないといけない。
ただ。
それだけ。
もしそのポリシーがなかったら、私は待っただろうか。
いや。
考える間でもない。
そんなわけがない。
そんな、時間の無駄に付き合うわけがない。
目を閉じたまま、自分の胸にそっと手を当てた。
ここも、静か。
静かだ。
落ち着いている。
最初の──
最初、あの沼で彼を見た時の、あの高鳴りは、もうどこにもなかった。
そう。
消えた。
消えてしまった。
少し強い力を手にしただけで、多少気があるふりをして見せただけで、あんなに傾いてしまうなんて。
全ては私の為。
私の。
私の。
ただ、私に認められたいだけ。
そして、あわよくば、私に触れられたら──
そんな矮小な望みを、大層な表現でシールドしてしているだけ。
彼は。
あの時の彼は、もう。
どこにもいない。
思わず、溜息。
きっと。
彼はもう死んでいる。
いえ。
たとえ生きてここまで来たとしても、私はどうするのがいいのかしら。
また微笑んであげるの?
馬鹿なお芝居に付き合ってあげるの?
いえ。
そうね。
いっそのこと、殺してあげた方が、彼の為かもしれない。
そして、どうせ自分の手を汚すことになるなら。
今のうちに、消えておいてあげましょう。
死ぬ思いをして。
死に物狂いでここに辿り着いて。
なのに。
待ち合わせの場所に、私がいない。
その絶望で。
殺してあげる。
その苦痛が。
私からの、最後の餞別。
「──さようなら」
目を閉じたまま、誰にも聞こえないほど小さな声で呟く。敢えてそれ以上の労力をかけようとは、どうしても思えなかった。
ああ。
でも。
ちょっと残念。
せっかく、うまくいくかもしれないと思ったのに。
あの特別な血統に加え、ここで経験を積めば。
あいつの。
あの史上最強と豪語する、自信家の魔王のお眼鏡に適うくらいには、強くなれたかもしれないのに。
でも。
やっぱり、所詮、人間は人間ということかしら。
そして。
気持ちを切り替え、歩き出そうとした、その時。
「楽しそうだな」
衝撃。
思わず目を開く。
びっくり。
びっくりして、声が出なかった。
そう。
700年ぶり。
こんなに驚いたのも、700年ぶりだ。
樹海とは反対側の、細い通路の奥の三叉路に視線を向ける。
そこに。
彼が立っていた。
「あら、お久しぶり」
壁にもたれたまま、微笑みかける。でも、いつになく顔が強ばっているのが分かった。この感覚も、本当に久しぶり。
あの男が着ていたのと同じ外套。同じ服装。
でも、精悍で逞しい体つき、そして何より、纏っている風格が、段違い。
だけど。
彼は、あの頃にはなかった、大人っぽい優しい笑みを、こちらに返した。
眠っていた心臓が、大きく鼓動を打つのを感じる。
あら。
へえ……
また少し、びっくりする。
意外だ。
本当に意外だ。
さすがに、700年も経つと、誰でも変わるみたい。
あの頃は、あんなに子供だった。腹立たしくもあったけれど、それが彼の代え難い魅力だったのも確か。
でも。
こんな彼も、なかなか素敵だ。
彼はゆっくり近づいてくる。無言のまま、その歩き姿を目で追っていると、彼は樹海の奥の方を向いたまま、こちらの正面で立ち止まった。
「誰か待っているのか?」
彼はこちらを見ない。余裕のある大人の仕草。それでいて、男らしさを感じるワイルドな横顔。
わざと目を伏せ、諦めたように答える。
「まあね。でも、フられちゃったみたい」
「何?」
もの凄い勢いでこちらを向く魔王。
子供みたいな反応。
その辺りは、変わってないんだ。
その仕草が可笑しくて、下を向いたまま、少し吹き出してしまった。
「一応断っておくけど、彼氏じゃないからね」
「じゃあ、何だ?」
「そうね。端的に表現するなら──」
悪戯っぽい視線を意識して、彼の顔を見上げる。
日に焼けた肌と黒い鋭利な視線。
久しぶりだからなのか、なかなか新鮮で、そして。
素直に言えば、格好良かった。
「──ちょっと気になる人間を拾ったから、少し世話して遊んでいただけ」
彼の黒い瞳をじっと見つめる。
それは、半分くらい嘘だった。
本当は──
いえ。
やめておこう。
残り半分が、実は、今目の前にいる魔王の為だと知ったら。
きっと、こいつ。
調子に乗るでしょうし。
だけど。
「──幻月」
700年ぶりの魔王、灰燼のクロイツはそう言うと、いつの間にか身につけていた余裕を口元に浮かべながら、悠然と近づいてくる。そのまま、逃がさないと言わんばかりに、頭の両側の壁に手を着いて顔を近づけてきた。
瞳は真剣。
綺麗で、そして真っ直ぐ。
自分の胸を熱く刺激するのが分かる。
そう。
そうか。
やっぱり、そうだった。
私、こいつのこと、きっと嫌いじゃなかった。
「今からでも、俺のモノになってみないか?」
まさに目と鼻の先で、彼が囁く。
ソフトでクール
そして優しい発声。
本当に。
本当に成長したんだ。
彼の体温を感じながら、言い訳を考える。
だけど。
すぐに、そんな理由が見当たらないことに気付いた。
「──そうね」
諦めたように目を伏せる。
そして、すぐに彼の顔を熱っぽい視線で見上げ、その精悍な頬を、右手で優しく撫でた。
「無断でいろいろ使わせて貰ったわけだし。その使用料分くらいは、付き合ってあげる」
彼は小さく吹き出す。
「そんなこと、気にする女じゃないだろ?」
「あら。私だって、変わったかもしれないでしょう?」
「そうか。それもそうだ。だが──」
彼は、頬を撫でていたこちらの腕をぎゅっと掴む。
強く。
力強く。
まるで、それだけで、こちらの全てを捕まえられると言わんばかりの、力強さ。
へえ。
思わず感心。
そして、微笑んだ。
彼も、同じように笑った。
とても心地いい。
こちらの全てを見透かしたような、お互いを知り尽くした幼なじみのような、絶妙のタイミング。
その彼が、だけど、あの頃にはなかった大人の彼が、囁くように告げる。
「──これから確かめてみれば、はっきりすることだ」
「……ええ」
互いの体がさらに近付く。
目を閉じる。
そして。
唇が触れる。
さらに、もう一度。
今度は、強く。
呼吸までも奪われるように。
熱い。
唇が。
口の中が。
そして、全身が。
まるで。
冷たい月から、燃え盛る太陽に変えられたように。
彼の。
彼の色に、私は──
あまりの熱気に目を開けると、同じようにこちらを見ていた彼の目元が弛み、さらに掴んだ腕を引き寄せた。
彼の逞しい胸の中に身を預ける。
その場所が、自分の想像以上に甘美で心地よく、それでいて、燃えさかる業火のように熱くもあって、こちらの思考を優しく、そして激しく溶かしていく。
そう。
もう、逃げられない。
私は。
捕まったんだ。
彼の檻に。
拘束されている。
彼の腕に。
私は。
もう。
もう、ずっと──
永遠に。
永遠に、彼のモノ。
そうだ。
私はずっと、この場所を探していたのかもしれない。
互いの熱を逃がすように、預けるように、或いは共有するように、ふたりの魔王は、いつまでもその場所で身を重ねていた。
そして、灰燼の魔王が作る黒い檻の中で、可憐な幻月の少女は、その絶対なる主の男だけに、未だかつて誰にも見せたことのない、淫靡でとろけるような悦びの表情を捧げ続けた。




