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傷んだウイスキーが充満したような、異様な臭気を放つ霧。
ノコギリのような巨大な葉から滴り落ちる、赤いジャムのようなどろりとした液体。
そして、ブーツが地面に着く度にまとわりついてくる、毒々しい色合いの小さな虫の群。
まさに密林と言わんばかりの光景の中を、一歩一歩慎重な足取りで進んでいく。高い湿度のせいか、思いの外蒸し暑い。たまに見かける球状の発光植物のお陰で、明かりは十分だが、視界は決して良好とは言えない。周りは高い太い木と、天井から垂れ下がる植物でいっぱいだからだ。真っ直ぐ進めばいいとは言われたが、今自分が本当に真っ直ぐ進めているのか、保証はない。
ただ──
それ以上の深刻な問題が、はっきりとした形を見せ始めていた。
玉のような汗が顎から滴り落ちる。
息は既に荒い。
そして。
「くそ……」
遂に足が止まり、地面に片膝を着いた。
その膝から虫達が体に上り始めるが、正直、気にしていられないほど辛い。
おかしい。
これは明らかにおかしい。
毒は。
毒は効かないはずだが。
しかし、明らかに体に異常が起きていた。
呼吸が乱れる。
動悸が止まらない。
だが、それ以上に深刻なのは──
「あ、ぐぁ……」
暴れ出す胸を押さえる。
そう。
心臓が。
痛い。
痛い。
痛い──?
あ。
ああ。
そうか。
ようやく、自分の身に起きていることが分かった。
心臓。
つまり、血。
血か。
その中を流れる魔性金属
励起。
拒絶反応。
そうか。
そういうことか。
毒ひとつひとつは大したことがなくても、それが何十種も一度に襲えば、抵抗するのに必要な励起も高いものが要求される。
あの、アリシアの魔眼が一撃必殺だとしたら。
この毒の嵐は、じわじわと確実に蝕む緩慢な死。
つまり。
これからさらに、酷くなる。
どんどん。
どんどん。
俺が死ぬまで。
死ぬまで、ずっと、こうやって──
まさに。
最凶の搦め手か。
「──なるほどな」
アリシアが妙に不安そうだった理由が分かった。
確かに、毒自体は大した脅威じゃない。
一番の脅威は、自分の血の抗体。
ああ、そうか──
要は、アレルギーみたいなもんだ。
ただし、あまりに激しいとアナフィラキシーと呼ばれる過剰反応となり、ショックで死に至ることもある。
そうか。
そういうことか。
このままだと、俺は──
そこで、酷い咳が出る。
今まで経験したことのないような、汚い音。
いや。
そういえば、あの時経験したような気がする。
屍の沼。
あそこで死にかけた時も、確か──
その時。
体全体が跳ねるような、強烈な鼓動が心臓を打ち。
直後に嘔吐した。
いや。
吐き出したものを見ると、それは赤い。
吐血だ。
「──くそ」
自分を奮起させようと思ったその声が、病人みたいに貧弱で、自分で衝撃を受ける。
止まらない動悸。
暴れ出すような鼓動。
全身の神経が裂けるような痛み。
まずい。
まずい。
いや。
馬鹿か。
馬鹿か、俺は。
俺は何をしている。
こんなところで休んでいる場合じゃない。むしろ、休めば休むほど、ここにいればいるほど、毒に抵抗する為に血が暴れる。死ぬ確率は高まっていく。
なのに。
まるで石のように、足が動かない。
何故だ。
どうして──
だが。
ふと自分の足を確認してみる。視界が白く曇っているような気がしたが、それでも気付けた。
いつの間にか、地中から突き出た太い根が、しっかりと絡み付いていた。
馬鹿な。
いつの間に。
驚く。
動揺する。
だが。
そんな場合じゃない。
落ち着け。
そして、振り解け。
攻撃しろ。
でないと。
でないと──
だが、
再び吐き気。
そして。
赤い血が再び、目の前の根を濡らす。
咳が止まらない。
マズい。
これは、マズい。
いくら頭で落ち着こうとしても、対照的に体の内部は祭り状態。その騒ぎが暴動に変わるのも時間の問題で、叩きつけるような心臓の鼓動が肺を揺らしている気さえする。
こんな。
こんな状態じゃ──
何も。
何も考えられない。
湿気の多い、気持ち悪い環境が。
節操なく、過剰なまでに吐き出そうとする咳が。
太鼓のように肋骨の内側を殴り続ける心臓が。
そして、ヒリヒリとする痛みが熱く燃えるようでいて、しかし、内から冷たい液体が染み渡っていくような、明らかに近づいてくる死の予感が。
俺の。
俺の思考を。
俺の全てを。
奪う。
奪う。
奪う。
ああ。
くそ。
「──くそが」
もう一度、敢えて同じ言葉を吐き出す。
馬鹿みたいに震えた、情けない声。
何で。
何でだ。
何で俺は、こんなに弱くなった。
あの時、秘薬で無理矢理血統を変えた時は、確かに耐えられたはず。あの時の痛みは、こんなもんじゃなかった。それを俺は耐え抜いたから、今ここにいるはずなのに。
なのに。
何故だ。
この程度の痛みに屈しようとしているのは、何故だ。
そうだ。
何故。
何故楽な方に、人間達と同じ方向に、逃げようとしているのか。
死のうとしている。
死を受け入れようと──
違う。
違うだろ。
俺は。
俺は、もっと。
強く。
強くなりたくて。
そう。
彼女と。
彼女が望む方に、俺は──
だけど、その時。
記憶が。
忘れていた記憶が
蘇った。
同時に。
体から抵抗が消え失せる。
地面に倒れる。
そうだ。
あの時も、こんな風に──
顔の上を虫が這い回る。しかし、目を閉じるまでもなく、意識は既に飛び始めていた。
脳裏に映るのは、夢の光景。
死よりも恐ろしい、あの悪夢の──
ああ。
くそ。
何で。
何でだ。
しかし、脳内では無慈悲に、彼女の声が再生される。
『死ぬまで実験動物にしてあげる』
『ありふれた命。大して尊くもない犠牲』
そして。
『結局、私に構って欲しかっただけ』
違う。
違う。
俺が目指したのは、そうじゃない。
だけど。
何で、俺は──
どうして、抵抗しないのか。
どうして、反論もできないほど、ここで無様に倒れ伏しているのか。
どうして、そんなに俺は──
俺は。
俺は。
何でこんなことをして──
終わりのない螺旋の思考のまま、遂に意識が消えた。
最後に僅かに感じ取れたのは、屈強な男の腕のような、首に巻き付く異様な圧迫感だった。




