第7話 昼休み
月曜日。
俺は自室にて着替えを済まし、リビングに向かった。
扉を開けた瞬間、熱気と共に、香ばしい醤油の焦げる匂いと炊き立ての米の甘い香りが鼻腔をくすぐった。退化した人間の鼻でもはっきりと認識できる、我が家の朝の匂いだ。
「おはよう」
リビングには既に朝食の準備が済んでいた。キッチンではご飯当番の姉の陽依が、三人分の弁当の準備をしている。ちなみに露出は多いが、しっかりと服は着ていた。
「おはよう、伊織」
陽依は振り返ることなく、弁当作りの作業中のまま挨拶を返す。
「いただきます」
俺はさっそく席に着き、用意された食事を食べ始める。
妹の美羽はまだ起きてきていない。基本的にギリギリに家を出るため、朝はご飯当番の時しか顔を合わせることはない。
「はい、お弁当ね」
そう言って姉は、俺の目の前に風呂敷で包まれた弁当を置いた。
「ありがとう」
俺はお礼を言いつつ、朝食を食べ進める。
「今日は卵焼き九個の内一つにワサビを入れてみたよ。一人三つずつ入れてるから誰が当たるかな?」
そう悪ガキのような笑顔で姉は言った。
「おい!食べ物で遊ぶな!」
「安心して、私もどれが当たりか分からないから」
「そういう問題じゃねえ」
姉がご飯を作る時は、こういうイタズラをやることがたまにある。子供じゃないのだから勘弁してほしい。
とはいえ、一緒に住む家族のリーダーでもある姉が作ってくれた食べ物を無下にするわけにはいかない。俺はしっかりと準備された弁当を渋々鞄にしまい、玄関を出た。
ドアを開けると、五月の朝の澄んだ空気と共に、瑞々しい若葉の匂いが鼻先をかすめた。
今日の通学もいつもと変わらない。雲一つない快晴。暖かい風が全身に優しく当たりながら、駅まで自転車で向かい電車に乗る。目の前に座る他校の女学生もいつもの光景すぎてすっかり見慣れてしまい、時には視界に入らないこともある。そうして電車を降り、俺は学校まで徒歩で向かう。
時間は進み、四限目が終わりお昼休みになった。俺は机で授業の復習を行っていた。
「相変わらず、全部の休み時間勉強してるな」
そう後ろから渡辺蓮が声を掛けてくる。
「宿題だとか試験対策だとか、学校のことは学校で完結させたいからな。家で勉強とかごめんだ」
ジムやらバイトやら家のこと、そしてあおい探しのための時間確保などやることが多いため、家で学校関係のことはしたくはなかった。
「確かに家だとやる気でなくなるもんな」
「だったらお前もしてみたらどうだ?」
「馬鹿、休み時間はお休みのためにあんだよ」
そう言って蓮は席から立ち上がる。
「というか、今は昼休みだろ?」
「あ、もう昼休みか」
今日はずっと机に目線を向けていたため、時計は確認していなかった。
「じゃあ、俺は昼飯食べてくるよ」
そう言って蓮は一足先に教室を出て行った。蓮は最近付き合い始めた彼女と昼ごはんを食べているらしい。相手は一年生で、蓮に一目惚れした彼女の方から告白されて付き合うことになったそうだ。俺はまだ会ったことはない。
昼ごはんの弁当を食べるため、俺は机の上の教材をしまい、風呂敷に包まれた弁当箱を取り出す。
「ねえ、伊織君。今日は一緒にご飯食べない?」
声がした方を見上げると、藍原結衣が立っていた。
「友達はいいのか?」
結衣はお昼ご飯は女友達と食べていることが多い。
「うん。今日は伊織君と食べてくるって言ってあるから」
「わかった。食べよう」
俺はテーブルをくっつけようと準備するが、それを阻止するように結衣が声を発する。
「今日は学食で食べない?」
「学食?」
結衣の言葉に俺は手を止める。
「そう、たまには学食食べたいなって。だから今日お弁当持ってきてないの」
「わかった。じゃあ学食行こうか」
俺は弁当を手に持ち、結衣と学食に向かうため教室を後にした。
ちょうど昼休みのためか、学食に近づくにつれ生徒たちが多くなってくる。
それと同時に、廊下にはカレーや揚げ物といった、学食特有の油っこくも食欲をそそる匂いが強く漂い始めていた。人間の鈍い嗅覚へ容赦なく訴えかけてくる、昼時の食堂の圧倒的な存在感。それだけで胃袋が勝手に鳴りそうになる。
「あ……」
そんな中、目の前からつい最近聞いた声音が聞こえてくる。
「橘先輩?」
「天野さん?」
声を発した人物の顔をよく見ると、バイトの後輩の天野碧波が立っていた。
「みなみちゃん、私たち先に行ってるよ」
「あ、うん」
友達であろう二人の女子生徒は状況を察したのか、天野さんを残しその場を去って行った。
「橘先輩はここの高校だったんですね。え、あの……びっくりしました」
視線を合わせてはすぐに外しを繰り返し、少しおどおどした様子で天野さんは話した。
「俺もびっくりだ。てっきりあの辺の高校に通ってると思ってたよ」
天野さんと俺がバイトをしているカフェは、俺が住んでいるところの近くだ。あの辺りの高校に通っているかと思ったが、まさかここだとは思わなかった。
「ここの高校は中学の友達も通っているのでここにしたんです。通うのは少し大変ですけど……」
「ん?伊織君の知り合い?」
顔見知りのように話す俺と天野さんを隣で見つめていた結衣が、声を掛ける。
「ああ、バイトの後輩だ」
「あっ……い、一年の天野碧波と言います」
天野さんは少し緊張した面持ちで自己紹介を行う。
「私は二年の藍原結衣。よろしくね」
「あの……藍原先輩は、橘先輩の彼女さん……ですか?」
先ほどから結衣のことが気になっていたのか、チラチラと見ていた天野さんは、聞きづらいことを恐る恐る尋ねるような様子で尋ねてくる。
「えっ!?あ……えっと……」
「違う。ただの幼馴染だ」
まさかの言葉に結衣は動揺し、言葉がうまく出ず、見かねた俺がすかさずそれを否定する。
「そうなんですね。すごく仲が良さそうだったので、恋人かと思いました」
昔から一緒にいるのも相まってか、距離が近いためそう思われるのは仕方がない。というか一年の始めの頃はよく付き合ってると勘違いされ、今みたいに動揺することも多かった。
「そ、そうそう。幼馴染よ。昔から仲良いの」
動揺がまだ少し残りつつ、少しニヤニヤしてるような、情緒がよくわからない表情をしながら結衣は俺の背中をバシバシと叩く。
「それはそうと、昼飯買ってたのか?」
「はい。今日はお弁当忘れてしまったので」
天野さんの両手には、おにぎりと惣菜が握られている。
「そうなんだね。あ、俺たちも今からご飯だからまたな」
「あ、はい。あの……それでは失礼します」
天野さんは軽く一礼して、先に行った友達を追いかけて行った。
「さて、俺たちも早く行こう。昼休みが終わる」
「あ、うん」
そう言って俺たちは学食に入って行った。




