第8話 学食
学食の自動ドアをくぐると、カレーのスパイスや揚げ物の油、香ばしい醤油の匂いがより一層強く鼻腔を突いた。生徒たちの熱気とがやがやとした話し声が四方から耳に入り、かなりの賑わいを見せている。
俺と結衣は、短い列が出来ている券売機の最後尾に並んだ。
「ん?伊織君はお弁当があるんだよね?一緒に並ばなくても席を取ってていいよ?」
「いや、俺も学食の料理が食べたくなったから並ぶ」
「え?じゃあ、お弁当はどうするの?」
「どっちも食べるつもりだ。正直、家の弁当だけじゃいつも物足りないと思ってたから、ちょうどいい」
「ふふ、本当によく食べるね」
前世でも今世でも、俺にとって「食べる行為」は至上の喜びだ。ただでさえ育ち盛りの高校生なのだから、弁当と学食の定食を同時に平らげるくらいは余裕でいける。
列が徐々に前に進む中、一呼吸置いてから結衣が探るように口を開いた。
「そう言えば、さっきの一年生の子……天野さんだっけ?すごく可愛い子だったね。もしかして、伊織君ってああいう子がタイプだったりする?」
「はあ?何を言ってるんだ。さっきも言っただろ、ただのバイトの後輩だ。確かに顔立ちは整っているが、それだけでタイプとか決めつけるな」
「本当かなぁ? そう言えば、伊織君の恋愛の話って全然聞かないよね。好きな人とか、気になってる人っていないの?」
「恋愛か……。そう言えば、考えたこともないな」
「本当に?まあでも、いつもの伊織君を見てると、誰かを好きになってデレデレしてる姿なんて想像できないかも」
からかうように笑う結衣を横目に、俺はふと思い立って問い返した。
「そういう結衣こそ、好きな奴はいないのか?」
「えっ!?わ、私っ?ええっと……」
途端、さっき天野さんと会話した時と同じように、結衣はわかりやすく動揺して言葉を詰まらせた。
「その慌てぶりを見るに、目当ての奴がいるのは確定だな」
「も、もうっ、私のことはいいの!ほら、前が空いたよ!」
結衣は顔を真っ赤にして慌てたように券売機の前に立ち、今日のお昼ご飯を選び始めた。
結局、結衣はドライカレーを、俺はかつ丼の食券を購入した。料理を受け取り、運よく空いていた窓際の席に二人で腰を下ろす。
俺の目の前には、湯気を立てるかつ丼と、カバンから取り出した姉貴特製の弁当が並んでいた。
甘辛いつゆとダシの匂いが、空腹の胃袋を猛烈に刺激する。我慢ができず、さっそくかつ丼から箸をつけた。
サクサク感を残したとんかつと、味が染みた卵、ほかほかの米を一緒に口の中にかき込む。その瞬間、豚肉のジューシーな脂と米の甘みが一気に広がり、脳髄が歓喜した。
それからは無心だった。
あっという間にかつ丼を平らげ、続いて弁当の蓋を開ける。
「本当に気持ちいいくらいにたくさん食べるね」
「まあ、食べるのは好きだからな」
人間の味覚になってから、この「味わう」という行為がさらに好きになった。特に肉の旨味は、前世のカリカリとは比べ物にならない。
「お肉ばっかりじゃなくて、ちゃんと野菜も食べないとダメだよ?」
「食べてるぞ。ほら」
俺は弁当の隅にあるプチトマトを箸でつまんで結衣に見せ、口の中に放り込んだ。
「それじゃあ量が少なすぎ。家ではちゃんと食べてるの?」
「作る人によって変わるけど、一応バランスよく食べてるよ」
会話をしながらも一向に箸を止めない俺を、結衣は何か愛しいものでも見守るような、優しい目で見つめていた。
「ねえ……私のドライカレー、一口食べる?」
「いいのか?」
「うん。思ったより量が多くて、もうお腹いっぱいになっちゃったし」
結衣のドライカレーは、残り三分の一ほどになっていた。
「なら、遠慮なく貰う」
俺が結衣の皿へ手を伸ばそうとした、その時だった。
「あ、待って。はい、あーん」
結衣は俺の手を制し、自身のスプーンでドライカレーをすくい上げると、俺の目の前に差し出してきたのだ。
目の前に差し出された食べ物に対し、前世の癖で俺は反射的に直接口から食いつこうとしてしまい、ハッと我に返った。危ない、手を使わずにそのまま首を伸ばして食べにいくところだった。人間の理性を総動員して、なんとか犬の習性をねじ伏せる。
「……まさか、このまま食べろと?」
「そう。はい、口開けて」
スプーンを突き出してくる結衣の顔は、必死に平常心を装おうとしているものの、どこか表情が引きつっており、耳まで真っ赤になっているのは明白だった。
「いや……普通に俺も恥ずかしいんだが」
「大丈夫だってば、今なら周りの誰も見てないから!」
そこまでして体を張る理由がわからない。ちょっとした悪ふざけのつもりなのだろうか。だが、このままスプーンを差し出された状態でフリーズしている方が、周囲の目を引いて圧倒的に恥ずかしい。
俺は意を決した。
「……わかったよ」
周囲を素早く見渡し、誰もこちらを気にしていないのを確認してから、勢いよく結衣のスプーンにのっているドライカレーを口に含んだ。
途端、本格的なスパイスの香りが鼻腔へと突き抜ける。
「うまいな。ドライカレーもいい」
口いっぱいに広がる美味という幸福感が、さっきまでの恥ずかしさを一気に消し去っていった。
「ふふ、なんか餌付けしてるみたい」
「なんだよ、餌付けって。人聞きが悪い」
結衣は自分のスプーンで素直に食べる俺の姿を見て、どこか満足げに、にまにまとした表情を浮かべている。
「だって伊織君、なんだか犬みたいなんだもん。おいしそうにガツガツ食べるところとか、特に」
「!?ごほっ、ごほっ、ごほっ……!」
突如として放たれた「犬」というワードに、ドライカレーが変な気管に入って激しくむせ返ってしまった。俺は咄嗟に手で口元を覆い、咳が結衣に飛ばないように顔を背ける。
「ちょっと大丈夫!?はい、お水!」
「ごほっ、大丈夫だ……。まさかそんな例えをされると思わなくて、びっくりしただけだ……」
心臓がドクンと大きく脈打つ。
まさか、前世の癖が表に出すぎてバレたのか……!?
一瞬、最悪の可能性が頭をよぎって心拍数が跳ね上がったが、深呼吸をしてなんとか落ち着きを取り戻す。結衣の様子を見るに、ただの純粋な例えのようだ。
咳を落ち着かせ、結衣が差し出してくれたコップの水を一気に飲み干して一息ついた。
「もしかして……犬って言われたの、嫌だった?」
結衣が少し申し訳なさそうに小首を傾げる。
「いや、そんなことはない。かと言って、別に嬉しくもないけどな。……まあ、悪い気はしてないから気にするな」
俺は努めて平静を装いながらそう言うと、何事もなかったかのように、残りの弁当へと再び箸を伸ばした。
そう言えば、姉貴が言っていた卵焼きを全部食べたが、俺のにはワサビが入っていなかったな。
ということは、美羽か姉貴のどちらかだ。ふっ、だいたいこういうのは、仕掛けた本人に返っていくんだよな。
俺は心の中で笑った。
どこか遠くから、姉がワサビの激痛に悶えるような声が聞こえた気がした。




