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【仮】前世が犬だった俺は、飼い主を探して現代を歩く  作者: 狐坂蒼


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第6話 河川敷

 日曜日。

 今日はバイトも休みだ。騒がしい姉と妹は朝から外出しており、静まり返った部屋には俺一人しかいない。


 俺は自室でパソコンを開き、液晶画面を食い入るように見つめていた。

 検索窓に入力されているのは『あおい』『河川敷』『殺人』という、あの日の惨劇をなぞる冷徹なキーワードの羅列だ。


「……くそ。やっぱり出ないか」


 思わず画面を睨みつけ、頭を抱える。

 思いつく限りの単語を組み合わせて検索をかけたが、あの事件に関するニュースや当時の記事は一切ヒットしなかった。インターネットが普及するより遥か前の出来事だったのか、あるいはローカルな事件として埋もれてしまったのか。

 かつての散歩コースだった河川敷の手がかりを得ようと、地図アプリのストリートビューで日本中のそれらしい川沿いを片っ端から探してもみたが、記憶の風景と合致する場所は見当たらない。先日も図書館へ足を運び、古い縮刷版の新聞を捲ってみたが、欲しい情報は一つとして得られなかった。


 手がかりは、完全に途絶している。

 だが、ここで立ち止まるわけにはいかない。


「……少しでも条件の似ている風景があるなら、自分の足で直接行って確かめるしかないな」


 生活費のため、そして何よりあおいを捜し出すための活動資金を稼ぐためにバイトを始めたのだ。資金はある。ならば、地道に可能性を潰していくまでだ。

 俺は改めて、脳裏に焼き付いている前世の記憶を反芻する。


 世界の輪郭が淡い蒼い光に包まれる茜色の時間。太陽が沈むのが遮るものなく見渡せる、大きく開けたあの空間。そして、近くの鉄橋を渡る電車の規則正しい地鳴りのような駆動音。

 まずは、この条件に当てはまる河川敷を物理的にすべて洗い出す。

 俺は画面に向かい、膨大な時間を費やして『捜索対象候補の河川敷リスト』を作り上げた。集中が途切れた瞬間、窓の外がすっかり夕暮れの茜色に染まっていることに気づく。


「思った以上に時間がかかったな……。次の日曜日から、このリストの場所を一つずつ当たってみるか」


 大きく伸びをして椅子から立ち上がる。

 凝り固まった身体をほぐすため、気分転換がてら少し外の空気を吸いに行くことにした。


 玄関を出て、あてどなく歩くこと約三十分。街の外れにある広大な河川敷へと辿り着いた。

 当然、前世であおいと歩いたあの場所とは、地形も匂いも全く異なる見知らぬ土地だ。周囲にはウォーキングやランニングに汗を流す人々が点在しており、この街の住民にとっては定番の健康コースなのだろう。

 雲一つない空から涼やかな夕風が吹き抜け、俺の頬を優しく撫でる。


 人間になった今でも、散歩という行為は嫌いではない。犬だった頃はただ本能の赴くままに縄張りの匂いを追うばかりで、景色そのものに情緒を感じることはなかった。だが、人間の知性と網膜で捉える夕暮れの世界は、皮肉なほどに美しく映る。

 長時間デスクワークを続けていたせいで滞っていた血液が、歩を進めるごとに身体の奥へと巡っていく。その感覚が、野生の肉体を駆動させているようで純粋に心地よかった。


 向こうから、一人の飼い主に連れられた犬が歩いてくる。

 だが、その犬は俺の姿を視界に捉えた瞬間、まるで目に見えない強大な重力に押し潰されたかのように、突如としてその場に姿勢を低くして硬直した。飼い主が怪訝そうにリードを引くが、犬は尾を完全に股の間に巻き込み、ブルブルと震えながら俺を凝視している。

 俺はその憐れな同胞を冷ややかに一瞥すると、何事もなかったかのように視線を前に戻し、歩調を緩めず通り過ぎた。


 前世の散歩中も、向こうから来る犬たちは俺に対して姿勢を低くし、絶対的な主従関係を本能で察知していた。まあ例外はいたが。


 器が人間の肉体に変わろうとも、本能に忠実な動物ほど、俺の放つ無意識の威圧感からは逃れられないらしい。


 河川敷の遊歩道をさらに三十分ほど進んだところで、俺は堤防のコンクリート階段に腰を下ろした。

 膝を抱え、遥か先へと続く土手の道をぼんやりと眺める。

 特に何も考えず、ただ流れる雲を目で追っていたその時、胸の奥から唐突に奇妙な既視感が湧き上がってきた。


(……待て、なんだこの感覚は?俺の前世の記憶に、この景色はないはずなのに……)


 もやもやとした不快なノイズが脳内を掠める。目を細め、自分の身体の現状を分析し――その違和感の正体に、ハッと気づいた。


「そうか。高さ、だ」


 納得のいく答えが脳に浮かんだ瞬間、思わず声が漏れていた。

 犬と人間では、根本的に目線の高さが違う。立った状態の人間は遥か高い位置から世界を俯瞰しているが、こうして階段の低い位置に腰を下ろすと、目線の高さはかつて四足歩行で地面を駆けていた『こた』の視界に限りなく近づく。だからこそ、脳が前世の感覚と錯覚し、既視感を覚えたのだ。


 目線の高さが違えば、たとえ同じ場所を歩いていようとも、見えている世界や感じる風景の立体感は全くの別物になる。

 そして俺は、もう一つの重大な盲点に行き着いた。


(地図アプリのストリートビューは、車の屋根に設置された高位置のカメラで撮影されている。つまり、もし俺が探している本物の景色が画面に映し出されていたとしても、地面スレスレから世界を見上げていた前世の俺の記憶とは、視点が完全にズレていて一致するはずがないんだ)


 風景の記憶における差異は、犬の青みがかった色彩感覚のせいだけだと思い込んでいた。だが、この「視線の高さ」という物理的な障壁に気づいた以上、今日苦労して作ったネット上のリストをもう一度根本から精査し直さなければならない。


「……と言っても、画面の撮影高度を犬の目線に変えられるわけじゃない。結局は、すべての場所に直接足を運び、こうして地べたにしゃがんで確かめるのが一番確実か」


 改めて自らの足で歩くことの重要性を噛み締めながら、俺は再び、太陽が沈みゆく方角を静かに見つめた。周囲からは、家路を急ぐ人々の足音や自転車のチェーンが擦れる音が途切れなく聞こえてくる。


 そんな雑音の中、一歩一歩、こちらへ近づく足音が、正確に俺の背後でピタリと止まった。


「――伊織君?」


 鼓膜を揺らしたのは、聞き馴染んだ快活な声音だった。

 反射的に振り返り、その声の主を確認する。


「ああ、結衣か」


 そこに立っていたのは、藍原結衣だった。クロスバイクのハンドルを手で押し、堤防の上から階段に座る俺を見下ろしている。


「こんなところで何してるの?黄昏れちゃって」


「ただの散歩だよ。結衣こそ、そんな大きな荷物を抱えて何をしてるんだ?」


「ふふん、見てよこれ!今日は『柴太郎』の新作限定グッズの発売日だったの!」


 結衣は嬉々として、前カゴに載せられた大きなショップ袋を掲げて見せた。柴犬をモチーフにしたそのキャラクターは、販売開始と同時にサーバーが落ち、店頭では即完売するほど若者の間で爆発的な人気を誇っている。人気過ぎてアニメにもなってるほどだ。


「休みの日にこっちのエリアで会うなんて珍しいと思ったら、そういうことか。それにしても、よくここまで自転車で来たな。お前の家からだと、一時間はかかるだろ」


 普通なら電車を使う距離だ。だが、アクティブな結衣なら、この程度の長距離移動は造作もないことなのだろう。


「だって、電車を使うとお金がかかるでしょ?自転車ならタダだし、いい運動になって一石二鳥じゃん」


 いかにも結衣らしい、健康的で合理的な思考だった。


「ねえ、隣、座ってもいい?」


「ああ、構わないぞ」


 結衣はクロスバイクを近くの柵に立てかけると、俺のすぐ隣の階段に腰を下ろした。


「休みの日にこうやって会うの、なんだかすごく久しぶりだね」


「そうだな。少し不思議な感じがする」


「昔はさ、毎日みたいに一緒に遊んでたのにね。……ねえ、昔、私が大きな犬に追いかけられて、伊織君が助けてくれたこと、覚えてる?」


「ん?いつの話だ?」


 突然振られた古い話題に、俺は記憶の引き出しを漁る。


「小学一年生の頃だよ。もしかして、忘れてる?」


「いや……あったような気がするな。公園の、砂場の近くじゃなかったか?」


「そう、それ!よかった、ちゃんと覚えててくれたんだ」


 結衣が嬉しそうに目を細める。彼女に状況を具体化されたことで、俺の脳裏にも、湧き上がるように当時の光景が鮮明に蘇ってきた。




 小学一年の頃、近所の公園の砂場で二人で遊んでいた時のことだ。


「ねえ伊織くん、見て見て! おっきいお城できたよ!」

 泥だらけの手を広げ、満面の笑みで俺の顔を覗き込んできた結衣。


 当時からの結衣は、まるで生後数ヶ月の、動くものすべてにじゃれつく子犬のようだった。意味もなく俺の後ろをちょこまかとついて回り、泥だらけの手で服を引っ張ってくる。

鬱陶しいはずなのに、不思議と邪険に扱う気にはなれなかった。彼女がすぐ隣で無防備に笑っている空間の温度は、前世であおいの足元に顎を乗せていた、あの幸福な日々の記憶とどこか重なっていたからだ。


 そんな他愛のない、静かな午後の日常が破られたのは、一瞬だった。

 どこからか迷い込んだ一頭の大型犬が突如として現れ、結衣に向かって猛然と走り始めた。激しく吠え立てる巨体を前に、当時まだ身体の小さかった結衣は完全にパニックに陥り、大声を上げて泣き叫びながら、小さな命を振り絞って必死に逃げ惑っていた。


「いやあ!助けてぇ!」


 その犬は尾を激しく振っており、適度な距離を保ちながら結衣を追っていたため、おそらく悪意はなく「遊んでほしい」という意思表示だったのだろう。だが、幼い結衣の視点からすれば、自分と同じ視線の高さの獣が迫ってくるのだ。恐怖を感じて当然だった。


「結衣、こっちに来い!」


 俺は逃げる結衣を救出するため、すぐさま犬との間に割って入るべく全力で地を蹴った。

 すれ違いざまに泣きじゃくる結衣を背後へと庇い、俺は向かってくる大型犬の正面へと立ちはだかる。


 そして――大声を出すでもなく、ただ一言も発さずに、冷徹な視線でその犬の瞳を真っ直ぐに睨み据えた。


 その瞬間、大型犬はまるで目に見えない壁に衝突したかのように猛烈な急ブレーキをかけ、俺の目の前でズザーッと砂煙を上げて停止した。犬は耳を完全に後ろに寝かせ、姿勢を極限まで低くしたまま、恐怖に目を見開いて硬直している。

 俺はそのまま無表情で見つめ続けると、犬は小さくクゥンと喉を鳴らして後退りし、ある程度距離が離れた途端、一目散に振り返ってその場から逃げ去っていった。




「懐かしいなぁ。あの時は本当に怖くて、しばらく犬が苦手になっちゃったんだよね。今は大好きだけどね」


 結衣は膝を抱え、懐かしそうに目を細める。幼少期に大型犬に追われれば、トラウマになっても無理はなかった。


「ぷっ……確かにあの頃のお前は、チワワが遠くで吠えただけでも俺の背中に隠れてビビってたよな」


「ちょっと、笑わないでよ!あれは不可抗力だってば!」


 結衣は顔を真っ赤にして抗議し、俺の肩をポカポカと軽く叩いてくる。

 そのやり取りに笑いながら、俺はふと、空の色が完全に夜の濃紺へと移り変わろうとしていることに気づいた。


「さて……そろそろ帰るか。冷えてきたしな」


 俺は階段から立ち上がり、結衣に背を向けて歩き出そうとする。


「――私は、あの時からずっと……」


 背後から、風に消え入りそうなほど小さな結衣の呟きが聞こえた。

 その声に含まれた、どこか切実で、いつになく真剣な響きに、俺は歩を止めて振り返る。


「ん?あの時から、どうしたんだ?」


 俺が問い返すと、結衣は一瞬だけ驚いたように目を見張った。だが、すぐにいつもの快活な、しかしどこか無理に作ったような笑顔を浮かべて首を振る。


「ううん!なんでもない!……ね、途中まで一緒に帰ってもいい?」


「お好きにどうぞ。お前の自転車のペースに合わせる気はないからな」


「もー、相変わらず冷たいんだから!ちゃんとお兄さんに合わせて歩いてあげるよ!」


 結衣は立ち上がり、クロスバイクを押し進めながら、当然のような顔で俺のすぐ横に並んだ。

 完全に太陽の落ち切った夕闇の中、俺たちは他愛のない談笑を再開しながら、それぞれの家へと続く帰路を並んで歩き始めた。

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