第5話 バイトの後輩
土曜日の朝。遮るもののない五月の陽光が、駅前の賑やかな通りを白く照らし出していた。
俺はいつものように、自宅から徒歩十分ほどの場所にある路地裏のカフェへと向かっていた。家賃や食費などの生活費、そして何よりあおいを探すための資金稼ぎ。高校生としての日常の裏で、休日の今日も俺の行動原理は常にあの蒼い記憶に支配されている。
カランカラン、とドアベルが涼やかな音を立てる。
「おはようございます」
バックヤードに入り、私服からサロン用の黒いシャツとエプロンで構成された店の制服へと着替えていると、店長が待ってましたとばかりに笑顔を向けてきた。
「あ、橘くん。ちょうど良かった。今日から入る新人の天野碧波さんなんだけど、橘くんの一個下で、歳が近いから指導係をお願いね。一応、面接ではホール希望って聞いてるから、まずはハンディの扱いとメニューの暗記から教えてあげて」
「わかりました」
店長に促されて振り返ると、そこに一人の小柄な少女が縮こまるようにして立っていた。
天野碧波。
肩の下まで綺麗に伸びたセミロングの髪。俺と同じく店の制服に身を包んだ彼女は、俺と目が合った瞬間、びくりと小柄な肩を跳ね上げた。少しサイズが大きいのか、だぼついた制服の上からでも、女の子らしい形の良い綺麗なシルエットが見て取れる。まだ着慣れない様子の襟元が、彼女の華奢さを余計に際立たせている。
「あ、あの……天野碧波です。不器用ですけど、一生懸命頑張りますので、よろしくお願いします……!」
消え入りそうな声で頭を下げる。小動物のように怯えた瞳、どこか頼りなげな輪郭。俺は動揺を見せることなく、静かに応じた。
「どうも、橘伊織です。よろしく。じゃあ早速教えていくね」
人に何かを指導するのはこれが初めての経験だ。俺は少し緊張しながらも、新しく入った後輩を連れ、一つずつ業務を説明していった。
一時間ほど経ち、土曜のモーニングのピークが一段落した頃だった。
俺がレジの点検のために少し目を離した、そのとき。キッチンの奥から、ベテランのパート職員の声が響いた。
「ごめん、天野ちゃん! 今手が離せなくて。そこにあるキウイとイチゴ、パンケーキ用にカットしておいてくれる?」
「え……あ、はい……」
天野さんがトレイの上の小さなペティナイフへ手を伸ばす。
何気ないキッチンの風景。しかし、ナイフを握ろうとした彼女の指先が、不自然にピクリと強張るのが見えた。
天野さんの顔から、急速に血の気が引いていく。
見開かれた瞳。カタカタと激しく震え出す小さな肩。
(――あ)
その姿を見た瞬間、俺の脳裏に、あの蒼い夕焼けの河川敷が微かに頭をよぎった。
ぎらりと光る鋭利な刃物を前にして、恐怖に目を見開き、カタカタと激しく震えていた『あおい』の姿と酷似していたからだ。ホール希望という言葉、そして彼女の様子から刃物恐怖症の可能性を考え、瞬時に足を進めた。
「天野さん」
気付けば、俺は天野さんの前に立ちはだかっていた。
怯える彼女の手からそっとペティナイフを取り上げ、自分の背中の後ろへと隠す。
「橘、先輩……?」
「ここは俺がやる。天野さんはホールのテーブル拭きをお願い。店長からも、ホール業務を中心にと指示を受けているしね」
感情を殺した声でそう告げると、天野さんは涙目のまま、縋るように俺を見上げてきた。ほっと安堵したように、彼女の小さな指先が、俺の制服のエプロンの裾をぎゅっと小さく掴む。
「あ……ありがとう、ございます……」
かすかに震える声。周囲の慌ただしい空気の中、彼女の張り詰めていた緊張が少しだけ和らいだのが伝わってきた。
バイトの時間を終え、再びバックヤードで私服に着替えを済ませて店の裏口を出ると、先に上がって待っていた天野さんの姿があった。
「橘先輩」
彼女はペコリと頭を下げると、申し訳なさそうに指先を弄んだ。
「さっきは、ありがとうございました。私……実は、刃物恐怖症んです。包丁とか、尖ったものを見ると、どうしても昔のことがフラッシュバックしちゃって、体が動かなくなっちゃって……」
「過去のトラウマ、か?」
「はい。あまり詳しくは話せないんですけど……。せっかく働かせてもらっているのに、お仕事の邪魔をしちゃってごめんなさい」
少し落ち込んだように俯く天野さんを、俺はまっすぐに見つめて言った。
「気にするな。シフトが入っている時は、俺が近くにいる。こういうことがないように、俺がちゃんと見ておくから」
「橘先輩……」
天野さんは驚いたように目を見開いた後、じわじわと頬を赤く染め、少し照れたように小さく微笑んだ。
「はい……! よろしくお願いします!」
どこかほっとしたような彼女の声と共に、ふわりと風が吹いた。
彼女の髪が揺れ、そこから漂ってきた香りが、俺の鼻腔をくすぐった。
(……っ)
甘い。かすかに、しかし確実に記憶の奥底を刺激するシャンプーの匂い。
かつて世界のすべてだった、あの懐かしい彼女の匂いが脳裏に過り、俺の心傷がどくりと大きく脈打つ。
天野さんと私服で別れ、一人になった帰り道。俺は歩を進めながら、ひたすら思考を巡らせていた。
あの子から香った匂いはあおいと同じものだった。
ここで一つ思い出す。昨日晩御飯を作っている時にふと思った、犬の嗅覚と人間の嗅覚の差異についてだ。犬の頃の圧倒的な嗅覚で覚えていた匂いと、退化した人間の鼻で嗅ぐ匂いが、本当に同じものとしてリンクしているのかは分からない。
俺が天野さんから感じた匂いは本当にあおいの匂いと一緒なのか? 人間の嗅覚で一緒だと錯覚しているだけではないのか?
記憶に残っている匂いは手がかりとしては当てにならないのかもしれない。
懐かしい記憶を少しだけ刺激されたその甘い香りが、かつてのあの匂いと同じものなのか、今の俺にはただ、判別がつかないだけだった。




