第4話 ジムと自宅
ジムの前で結衣と別れた俺は、そのまま自動ドアをくぐって館内へと足を踏み入れた。
アップテンポなBGMが流れるフロアは、仕事帰りのサラリーマンやOLたちの活気で満ちている。Tシャツとハーフパンツに着替え、マットの隅でまずは縄跳びを手に取った。
シュッ、シュッ、シュッ、シュッとリズミカルにロープが床を叩く。結衣とさっきまで話していた他愛のない会話の余韻が、ステップのテンポを上げるにつれて、徐々に薄れていく。じわりと額に汗がにじみ、意識が自分の身体の奥へと向いていく。
この人間の肉体は、あの頃の犬の器よりも遥かに大きく、強い。だけど、あの日の無力さを、俺の魂は片時も忘れてはいない。自由な時間と金を注ぎ込んでここに通っているのは、ただ一つ、二度と大切な人を理不尽に奪わせないための、圧倒的な『力』を手に入れるためだ。
縄跳びを置き、鏡に向かってシャドーを始めた。ワン、ツー、左ミドル。
鋭く息を吐きながら、自分の拳が空気を切り裂く音だけに耳を澄ます。結衣と過ごした時間の穏やかさを胸の奥にそっとしまい込み、今はただ、この身体を動かすことだけにすべての精神を集中させた。
汗とマットの消毒液が混ざり合った匂いが、鼻腔をくすぐる。
体中がじんわりと熱を帯び、野生の感覚が呼び覚まされていくような、心地よい緊張感が満ちてきたそのとき、背後からポンと肩を叩かれた。
「橘君。次スパーリングやるか?」
振り返ると、ヘッドギアを片手に持ったインストラクターの坂上さんが、茶目っ気のある笑みを浮かべてこちらを見ていた。ここはフィットネス目的のジムだ。会員の大半は健康維持が目的なので、怪我の危険があるスパーリングは基本的に行わない。
けれど、俺が時折見せる「本気の目」を、元プロである坂上だけは見抜いていた。
「はい。お願いします」
俺が頷くと、坂上は嬉しそうに目を細めた。
お互いに十六オンスの大きなグローブとレガースをつけ、マットの中央で拳を合わせる。
「ライトスパーだからね。力は三割。怪我しないように」
「わかりました」
口ではそう応えながらも、一歩足を踏み出した瞬間、俺の視界はあの蒼い夕焼けの河川敷の緊張感へと引き戻される。
坂上が放つジャブ。人間の目には速く見えるそれも、前世の野性的な本能が残る俺には、軌道が手に取るようにわかった。首をわずかに振ってかわし、懐へ踏み込む。ワン、ツー、そして低く鋭いタックル。
「おっと!」
坂上が驚いたように声を上げ、素早く腰を引いて俺のテイクダウンを防いだ。だが、その顔からは笑みが消え、格闘家としての真剣な目つきに変わっている。パンチの風切り音がさっきより一段と鋭くなった。
ガチの殴り合いではない。けれど、プロの技術に全力で食らいつくこの瞬間だけは、自分が『守るための力』を確実に積み上げている実感が持てた。
三分二ラウンドが終わり、タイマーが「プーーー」と長い電子音を響かせる。
俺たちは互いに肩を叩き合い、グローブを外した。肩を激しく上下させ、滝のような汗を拭う俺の隣で、坂上さんがペットボトルの水を飲みながら、ふと思いついたように口を開いた。
「いやぁ、橘君。やっぱり君、いいモノ持ってるよ。反射神経が普通の高校生じゃない」
「そうですか。必死なだけです」
「謙遜しなくていいって。……なぁ、橘君。来月、初心者向けのアマチュア大会があるんだけどさ。ワンマッチで、安全装備も完璧なやつ。……一回、出てみない?」
試合。
坂上さんの言葉に、俺はタオルで汗を拭う手を止めた。
一瞬、胸がざわついたのは確かだ。本物のリングで自分の力を試す。格闘技を習っている身なら、誰もが一度は憧れる舞台かもしれない。
「すいません、坂上さん。ありがたい話なんですけど……俺はいいです」
「えっ、出ないの? 絶対いい経験になると思うんだけどなぁ。何か理由でもある?」
坂上さんは意外そうな顔で小首を傾げた。
理由なら、一つしかない。
俺がこの身体を鍛えているのは、大会で勝ってメダルを獲るためでも、誰かに強さを誇示するためでもない。ただ、あおいを守るため。そして、今の俺には、試合のための過酷な追い込みや練習に費やす時間などなかった。そんなことをしていれば、放課後や休日にあの街を、あおいを探し回る時間が根こそぎ奪われてしまう。
「ちょっと、今はそこまで手が回らなくて。バイトも忙しいですし、家の事もあるので」
「あー、そっか。橘君、今兄弟三人暮らしで色々大変だもんなぁ。……よし、わかった。無理にとは言わないよ。でも、気が変わったらいつでも言ってね」
坂上さんは物分かりよく頷くと、俺の肩をポンと叩いた。
「じゃあ、もう一ラウンドだけ軽く流して終わりにしようか」
「はい。お願いします」
再びグローブを合わせ、マットの中央でステップを踏み出す。
だが、さっき断ったはずの「試合」という言葉が、俺の脳の澱に触れていた。
確かに実践経験を積むという意味ではかなり魅力的な提案だ。
あおいを探す時間を少しでも確保するのが大事なのも事実。だが、あおいを守るため強くなりたい気持ちも本物だ。
坂上さんの鋭い左ジャブが視界をよぎる。咄嗟にスウェーでかわしながら、胸の奥でどす黒い感情が鎌首をもたげるのを感じた。
いくらジムに通って人間の技術を身につけたところで、あの日の男が、今度はいきなり背後から襲ってきたら? もし、俺の気づかないところで、生まれ変わったあおいがまたあの男のような狂気に晒されていたら?
突如、脳裏にあの日の茜色の、いや、犬の俺の目に映っていた淡い蒼い光の河川敷がフラッシュバックした。
激しくカタカタと震えていたあおいの小さな肩。
突き刺さる、どす黒い殺意の匂い。
何度も、何度も肉を裂く鈍い音と、泥の上に溢れ出していく熱い血液。
動かない肉体のまま、大好きな人が壊されていくのを特等席で見つめることしかできなかった、あの絶望と、己の圧倒的な無力さ――。
「――っ!」
気付けば、俺の踏み込みはライトスパーリングのそれではなくなっていた。
野性の闘争本能が、魂の底にある呪詛が、人間の肉体を限界を超えて駆動させる。
鋭く踏み込んで放った俺の右ストレートが、坂上さんの掲げたガードを内側から弾き飛ばした。
「おわっ!? ちょっと、橘君!?」
坂上さんの焦った声すら、今の俺の耳には届かない。
目の前の男の喉笛を噛み破れ。あおいを害するすべての脅威を、この拳で叩き潰せ。
力を3割に抑えることなど、完全に忘れていた。ワン、ツー、そこから淀みのないコンビネーションで左フックを叩き込み、そのまま流れるように腰を沈めて坂上さんの両足へとタックルを仕掛ける。
マットに激しい衝撃音が響き渡る。元プロであるはずの坂上さんの身体が宙を舞い、俺はそのまま上ポジションを奪い取っていた。
拳を振り上げ、息を荒くして見下ろした先――。
「おいおいおい! ストップ! ストップ橘君!!」
坂上さんが両手を挙げて苦笑いしながらギブアップの合図をしていた。
そこでようやく、視界を覆っていた蒼い血の霧が晴れた。
ここはあの河川敷ではない。目の前にいるのは、俺を刺した殺人鬼ではなく、ただのジムのインストラクターだ。
「あ……すいません。つい、熱くなってしまって……」
俺は慌てて拳を開き、坂上さんの上から退いた。
グローブの中で、自分の手が微かに震えている。
「いや、驚いたよ……。今のタックル、完全にプロのタイミングだったぞ」
坂上さんは背中の汗を拭いながら立ち上がり、どこか呆然とした目で俺を見ていた。その目には、単なるフィットネス会員に向けるものとは違う、本物の戦いを経験した者だけが持つ凄みへの畏怖が混ざっているようだった。
「……やっぱり君、アマチュアの試合なんて言わずに、本気でプロ目指してみないか?」
冗談めかしつつも、どこか真剣な坂上さんの声を背中で聞きながら、俺は外したグローブをきつく握りしめた。
プロなんてどうでもいい。
俺が欲しいのは、ただ一つ。あの絶望を二度と繰り返さないための、絶対的な力だけだ。
ジムでの激しい練習を終え、くたくたになった身体を引きずるようにして、俺は自宅マンションの三階へと戻ってきた。
鍵を開け、重い玄関扉を押し開ける。
「ただいま……」
返事はない。静まり返った廊下を進み、自分の部屋へ向かおうとしたその時、脱衣所の引き戸が勢いよく開いた。
「あ、伊織。帰ってたんだ」
湯気と共にぬっと現れたのは、姉の陽依だった。
一糸まとわぬ姿。濡れた髪からは、床のフローリングへ容赦なくポタポタと水滴が滴り落ちている。
「おい、姉貴。水滴が落ちてる。ちゃんと中で拭いてから出てこいよ」
「そんなことより、今日は伊織がご飯当番でしょ?お腹空いたから早く作ってよー」
悪びれもせず、豊かな胸を堂々と張ってのたまう。
「わかってる。先に荷物を置かせろ」
ため息を噛み殺しながら自室に鞄を放り込み、キッチンへ向かうべくリビングの扉を開けた。――が、その瞬間に俺の思考はフリーズした。
床一面に、脱ぎ捨てられた女性物の衣服が、まるで脱皮の跡のように散乱していた。
この世の惨状を目にした瞬間、こめかみの血管がピキリと鳴り、怒りがわなわなと込み上げてくる。
「姉貴!美羽!ちょっとこっち来い!」
声を張り上げ、姉と、部屋の奥にいるはずの妹の美羽を呼びつけた。
「もー、お兄ちゃんどうしたの?」
トタトタと気の抜けた足音を立てて、妹の美羽がやってくる。
「あんまり大声出すと近所迷惑だよー」
続いて廊下から陽依ものんきな声を揃えて現れた。
二人の姿を視界に収めた瞬間、俺は激しい頭痛を覚えた。
姉の陽依は、相変わらず一糸まとわぬ全裸のまま。妹の美羽はといえば、全裸こそ免れているものの、上下下着姿という極めてはしたない格好で、二人揃って堂々と胸を張っている。
「おい。脱いだ服はちゃんと片付けろって、いつも言ってるよな」
散らばったブラウスを爪先で小突きながら睨みつけるが、二人はどこ吹く風だ。
「ああ、これ? 後でちゃんと片付けるつもりだったんだってば」
陽依は濡れた髪を豪快に振りながら、実にあっけらかんと言い放つ。
「そうそう。だからお兄ちゃんは気にしなくていいの」
下着姿の美羽にいたっては、早くもリビングのソファに寝転がり、スマホをいじり始める始末だ。
「そう言って片付けるのを忘れて、次の日まで放置されてるのが日常茶飯事だろうが!それと、なんでお前らは毎回、服をちゃんと着ないんだ!」
俺が声を荒らげても、彼女たちにはまるで緊張感がない。
普通の男子高校生なら、実の姉妹とはいえこの露出度の高さに目のやり場をなくすのだろう。だが、前世が犬だった俺にとって、人間の裸体は「毛皮を着ていない状態」に過ぎない。性的な動揺よりも、ただただ『だらしない野生動物』を見ているような不快感と頭痛が勝っていた。
「家くらい楽な格好でいたっていいじゃない。減るもんじゃなし」
陽依が両手を広げて、一糸まとわぬ見事なプロポーションを堂々と誇示する。
「そうだよお兄ちゃん。家族しか見てないんだから、何も問題ないって」
「問題ありまくりだ!万が一、来客が来たらどうするんだ!」
「その時はちゃんと服を着るよ」
美羽がスマホから目を離さずに、気のない返事をする。
「嘘をつけ!こないだその状態で宅配の荷物を受け取ろうとしただろ!お前らの信用はゼロだ。どうするんだ、『三〇三号室には家の中を全裸でうろつく変態姉妹がいる』って噂が広まったら!」
この姉妹は昔からこれだ。顔立ちやスタイルは抜群に良いのだが、肝心の中身が救いようがないほどにだらしない。いわゆる、典型的な『残念美人』というやつだった。
「はいはい、わかりましたー。とりあえず片付けるから、あんたは早く飯を作りなさい」
陽依が面倒くさそうに腰を上げ、床の服を拾い集め始める。
「……わかったよ」
俺は不承不承ながらも口を閉ざし、キッチンへと向かった。
どれほどズボラでだらしがなかろうと、この姉は今一緒に暮らすコミュニティにおける、いわば「群れのリーダー」だ。犬としての本能が残る俺にとって、上位者からの命令には逆らいきれないという悲しい習性があった。
時計の針は二十一時前を指している。遅い夕食になるため、手際よく作業を進めることにした。今夜のメニューはハンバーグだ。
ボウルに合い挽き肉とみじん切りの玉ねぎ、調味料を入れ、素手で力強くこねていく。その拍子に、肉特有の生臭い匂いが、ふわりと鼻腔をくすぐった。
(……うっ)
不快感に、わずかに眉をひそめる。
前世の「こた」だった頃なら、この生の挽き肉の匂いは極上のご馳走の香りでしかなく、見ただけで涎をだらだらと流していたはずだった。しかし、人間の肉体と味覚を手に入れた今では、ただの生臭い、顔を背けたくなるような異臭にしか感じられない。日常生活の中で、犬だった頃の記憶と、人間の五感との『差異』に戸惑うことは、今でも信じられないほど多かった。
そういえば以前、前世で毎日食べていたカリカリのドッグフードが今の味覚でどう感じるのか、どうしても気になって自分で買い、試してみたことがある。
犬だった頃は、あれほど美味しくて毎日のようにおかわりをねだっていたのだ。口を開ければ、懐かしい思い出と共に唾液が溢れてきた。匂いこそ「おや?」と思うほどに不味そうだったが、口に入れれば案外美味いかもしれないと、期待を込めて一粒、舌の上に放り込んだ。
結果は――想像を絶する不味さだった。
砂と粘土を凝縮して油を塗ったくったような、えぐみと生臭さ。激しくむせ返り、俺はそれを洗面所に吐き出した。
まさか、種族が変わるだけで、これほどまでに味覚のギャップがあるとは思ってもみなかった。
だが、ふと思う。
(……なら、あの『缶詰』のドッグフードはどうだろうか)
前世で、特別な日にだけ食べさせてもらっていた高級なウェットフード。あれは確かに、犬の脳を狂わせるほど美味かった記憶がある。人間に生まれ変わった今見ても、パッケージの写真やとろりとした見た目は、どこか食欲をそそるものがある。まだそちらは試していない。今度、機会があればこっそり買って、一人の時に食べてみようか。
そんな馬鹿げた思考を巡らせながら、俺は淡々と、しかし確実に、人間としての晩御飯の支度を進めていった。




