第3話 放課後
それから時間が過ぎ、帰りのホームルームが終わり放課後になった。
「ねえ伊織君。今日はジムの日だっけ?」
帰ろうと鞄に手をかけた瞬間、隣の席から結衣が声を掛けてきた。
「そうだけど、どうかしたか?」
「だったら、少し一緒に帰らない?」
どこか改まったような、少し不安げな声音だった。
俺が中学二年の頃から総合格闘技のジムに通っている。理由は簡単だ。前世の飼い主であるあおいを守ることが出来なかったあの頃とは違い、今は人間の肉体がある。体を鍛え、強者の教えを請うことができる。もし次、同じような危機が起こっても、今度は確実に守り切る。あおいが生まれ変わっているかはまだ分からないが、強くなっておくに越したことはない。
「いいよ。帰ろうか」
俺が承諾すると、結衣はパッと満面の笑みを浮かべた。昔は一緒に帰ることも多かったが、高校に入ってからはめっきり減っていた。断る理由もないし、たまにはいいだろう。
「蓮も一緒に帰るか?」
後ろの席で荷物をまとめている蓮にも声を掛ける。小学校の頃は、いつもこの三人で帰っていた。
「いや、俺は今日は用事があってさ。お前らとは別方向なんだ」
「そうか。わかった」
蓮は申し訳なさそうに手を振ると、急ぐように教室を出て行った。
「じゃあ、行こうか」
「うん!」
校門を過ぎ、並んで歩道を歩き出す。一緒にいられるのは、俺が通っているジムの手前までだ。寄り道せずに行けば、徒歩二十分ほどの距離。
「こうやって一緒に帰るの、久しぶりだね」
「そうだな。昔は毎日三人で帰っていたのにな」
「たまにはこうやって帰るのも悪くないでしょ?」
「ああ。いい気分転換になるよ。ここ最近はジムやバイト、家のことで忙しくて、一人でせっせと往復するだけだったからな」
休日もバイトや前世の街の捜索に充てているため、こうして学友と話せるのは学校内だけだ。他愛のない会話をしていると、胸の奥に凝り固まっていたものが、すうっと軽くなっていくような気がした。こういう時間も、悪くはない。
「あ!猫!」
会話の途中、結衣が前方を横切る野良猫を見つけ、反射的に駆けだした。
「おい、危ないぞ!」
茂みの中に消えていく猫をなおも追おうとして、歩道の柵を乗り越えようとする結衣。俺は咄嗟にその手首を掴み、強引に引き留めた。
「あ……ごめん。そうだよね、危ないよね」
結衣はバツの悪そうな顔をしながら、柵にかけた足を下ろす。
「いくつになっても、そういう危なっかしいところは変わらないな」
昔から、結衣と一緒にいるとこういう場面が何度もあった。そしてそのたびに、奇妙な既視感が脳裏をよぎる。
――突如、前世の記憶が鮮明にフラッシュバックした。
あおいと夕方の散歩をしていたときのことだ。
「あ!猫ちゃん!」
当時、犬の俺にとってビル街のように巨大に見えていた住宅街の路地。突然前を横切った野良猫を見つけ、あおいはいつもの散歩コースを外れて走り出した。
俺は持前の瞬発力で、リードを引くあおいのスピードにピタリと合わせて並走する。
「猫ちゃん、おいでぇ」
すぐに足を止めてその場にしゃがみ込んだあおいは、デレデレの笑顔で二メートルほど先の猫に声をかけていた。
当然、人間の言葉を理解していない野良猫は、一瞬だけ振り返ったのち、すぐに鬱蒼とした茂みの中へと飛び込んでいった。
「あ、待って!」
何も考えずにその茂みへ突っ込もうとするあおい。俺はあおいよりも小さな体で、彼女の進路とは反対方向へと四肢を踏ん張り、全力でリードを引っ張った。
「あ、どうしたの?こた」
俺の踏ん張りによって、あおいの体が茂みの手前で静止する。
「もしかして、茂みに入りたくないの?確かに草がぼうぼうだし、虫に噛まれちゃうもんね」
人間の言葉を理解していなかったこの時の俺は、何を言っているのか分からなかったが、少し見当はずれのことを言われているのは何となくわかった。
あおいはショートパンツから足の素肌を丸出しにしたまま、特に気にせず茂みへ入ろうとしていた。だから、俺がリードを引いたのは、単に「犬の俺自身が、虫に噛まれたり汚れたりするのが嫌で拒否している」とでも思ったのだろう。
けれど違う。俺はただ、そんな無防備な姿のあおいが虫に刺されたり怪我をしたりしないよう、彼女の身を守るために必死に引っ張っていただけなのだ。
「わん!(危ないよ)」
俺はあおいの目をまっすぐに見つめ、力強く吠えた。
「わかったよ。行かないから。そんな目で見ないで」
俺の意思が伝わったのか、あおいは苦笑いしながら、一緒にいつもの散歩コースへと戻っていった――。
結衣のあの元気で明るい性格と、突発的で危なっかしい行動パターンは、前世の飼い主であるあおいに酷いほどそっくりだ。あおいが生まれ変わったとしたら、きっとこんな風になるのだろう。そんな取り留めのない思考が頭をよぎる。
しばらく歩くうちに、ジムの入るビルが見えてきた。
「ねえ、まだ時間に余裕ある?」
「ん?練習は六時からだから、少しならあるぞ」
「だったら、ちょっとコンビニ寄らない?何か軽く食べようよ」
結衣がすぐそこにあるコンビニを指さして提案してきた。
「わかった。じゃあ寄ろう」
運動前に軽く胃に何かを入れておくのも悪くない。
俺たちはコンビニでフライドチキンを買い、店の外に出た。
「学校帰りに買い食いなんて、すごく久しぶりな気がする」
「俺もだ。いつもは寄り道することがないからな」
フライドチキンの紙袋をピリピリと引き裂いた瞬間、閉じ込められていた香ばしい油とスパイスの匂いが一気に空気中へと放たれた。嗅覚を強烈に刺激され、たまらずチキンに歯を立てる。
薄い衣が小気味よく弾け、柔らかい肉から熱々の肉汁が溢れ出した。計算され尽くしたジャンキーな旨味が口いっぱいに広がり、胃袋が歓喜の声を上げる。
「学校帰りだからか、余計においしく感じるね」
「ああ、うまいな」
至福のまま次の一口へ向かおうとした、その時だった。
指先から、ずるりと温かい重みが滑り落ちた。
「あ、」と思ったときにはもう遅い。きつね色の塊は放物線を描き、無情な音を立ててアスファルトへと激突した。
砂埃をまぶしたチキンが、ゴロゴロと転がって静止する。さっきまであれほど愛おしかったスパイスの香りが、今はただ、手の届かない絶望の残り香として鼻腔を虚しくくすぐっていた。
前世では、たまに拾い食いをしてはその都度あおいに烈火のごとく怒られていたものだ。
その前世の習慣のせいで、俺は地面に落ちたチキンを食うことに全く抵抗がなかった。しかし、今の俺は人間だ。隣には結衣もいる。社会的な倫理観がそれを許さない。
俺は、落ちた瞬間に反射的に伸ばしかけた手を、内心の葛藤を押し殺して引き戻した。
「あーあ、落ちちゃったね」
「……」
分かりやすく肩を落とす俺を見て、結衣が可笑しそうにクスリと笑った。
「私の、食べかけだけど食べる?」
「え?ありが……いや、ダメだ。さすがにそれは悪い」
差し出されたチキンに本能的に手を伸ばしかけたが、かろうじて理性が本能を抑え込む。
ちなみに、他人の食べかけを口にするということは『間接キス』というやつに該当するのだろうが、犬時代の感覚(あおいの食べ残しをよく貰っていた)が残る俺にとって、そんなことは今更気にするまでもない。おそらく結衣も、幼馴染ゆえにその辺の垣根が低いのだろう。
「そんなこと気にしなくていいのに。はい、どうぞ」
「うぐっ」
結衣は有無を言わさず、俺の口にフライドチキンを突っ込んできた。
口内に広がる濃密な旨味に思考を麻痺させられながら、俺は結衣のチキンを有難く平らげた。
「……ごめん。ありがとう」
「どういたしまして」
結衣はなぜか、非常に満足そうな笑みを浮かべていた。
「じゃあ、そろそろ行くわ」
「はーい。また明日ね」
ジムの時間が迫っているため、俺はそのまま歩き出す。結衣は足を止め、遠ざかる俺の背中をじっと見つめていた。
「今日も可愛かった」
ボソッと、風に消えそうな音量で独り言のようにつぶやかれた言葉。
「ん?何か言ったか?」
まださほど距離が離れていなかったため、何か音を発した気配だけを察知した俺は、立ち止まって振り返った。
「なんでもないよ! いってらっしゃい!」
結衣はいつもの元気な笑顔で大きく手を振った。俺はそれに応えるように小さく手を挙げ、再びジムへと向かって歩き出した。




