第2話 元犬普通の高校生として過ごす
電車のホームで待って数分。ブレーキが発する線路の激しい金属音と共に、俺が乗る電車がやって来た。
電車が止まり、扉が開くと、通勤や通学の人たちが雪崩のように一斉に降り出す。彼らの波が落ち着いた頃合いを見計らって、俺――橘伊織は、車内へと足を踏み入れた。
先ほどまでパンパンに人が入っていたせいだろう。車内には、もわっとした嫌な熱気が残っている。
俺は右手の奥にある、向かい合わせのボックス席を目指して足を進めた。電車が進む方向を向いた窓側の席。ここが、俺のいつもの席だ。四方を他人に囲まれる窮屈さを、少しだけ忘れられる唯一の場所だった。
電車が走り出し、次の駅で再び停止する。
窓の外をぼんやりと眺めていると、対面に誰かが座ってきた。
我が校とは違う制服を着た女子学生だ。この駅では、必ず彼女がこの席に座ってくる。俺はわざわざ顔を上げることもなく、ただの「いつもの光景」として視線を外の景色へと戻した。毎朝の、退屈な日常の記号に過ぎない。彼女の存在は、すぐに俺の意識から消えていった。
それから十分ほど、電車に揺られる時間は淡々と過ぎていった。
俺が降りる駅が近づき、電車が速度を落とした瞬間、俺は横に置いていた鞄を持って出口へと動き出す。電車が完全に止まる前に扉の前で待機するのは、人混みに押しつぶされないための、身体に染み付いた習性のようなものだった。
扉が開くと同時にホームへ出る。吹き抜ける心地よい風が髪を揺らし、俺はその足で学校へと向かった。
「よう、おはよう、伊織」
教室の扉を開けた瞬間、男子生徒が俺の顔を見て声をかけてくる。幼馴染で友人の渡辺蓮だ。
朝はテンションが低い生徒が多い中、こいつはいつも朝から満面の笑みで元気だ。朝に弱い俺としては、正直に言えば少しだけ耳に響く。
「おはよう、蓮。お前はいつも元気だな」
「おう!当たり前よ!」
朝からそのテンションで来られるときついな、と思いながら俺がこめかみを押さえていると、背中を両手でポンと叩かれた。
「伊織君、おはよう!」
背後から響く、弾けるような元気な声。
振り向くと、ショートヘアの女生徒――藍原結衣が立っていた。かつて実家が隣同士で、よく一緒に遊んでいた幼馴染だ。
少し癖のある栗色の髪が、窓から吹き込んできた朝の強い風に煽られてリズミカルに躍る。
女子の平均的な背丈ながら、無駄な肉のない引き締まった手足と、制服の上からでもわかる綺麗なシルエット。いたずらっぽい垂れ目には小動物のような愛嬌があるが、全体的なスタイルの良さが、彼女の快活な佇まいをどこか大人びて見せていた。
彼女が距離を詰めてくるたびに、甘いシトラスの香りが俺の鼻を撫でる。
「おはよう、結衣。お前もいつも元気だな」
オセロのルールなら、テンションの高い二人に挟まれた俺もひっくり返って元気になるべきなんだろうが、あいにく朝の俺にはそんな元気はない。だが、そんな朝も嫌いではない。そういえば前世の飼い主のあおいも二人と同じように朝から元気で、寝ている俺に抱き着いたり、お腹に顔を突っ込んだりいわゆるうざがらみを良くしていたなぁとふと思い出した。
「さあさあ、早く教室に入ろう。入り口で立ってたら邪魔だよ」
結衣に背中を押され、自分の机に鞄を置いて椅子に座る。
隣の席に座った結衣が、スカートの砂をパタパタと手で払いながら、少し身を乗り出して話しかけてきた。
「ねえ、もう新しいお家はマンションだっけ?もう慣れた?」
「ああ、最初はなかなか寝付けなくて大変だったけど、何だかんだ一ヵ月経ったからね。もう慣れたよ」
「放課後の遊びに行くのがさらに難しくなったな」
結衣との会話に、後ろの席の蓮も入ってくる。
「もともとあんまり遊びに行かないからそんなに変わらないだろ」
「そうだもんな。お前は昔から付き合い悪いもんなぁ」
「やることが多いんだよ。今は姉と妹の三人暮らしだからな。飯の支度も順番で回ってくるし、食費のためにバイトもしないといけないしな」
俺はため息を吐きながらそう答える。
「それにしても伊織君も大変だよね。親の教育方針で、兄弟だけで生活させるなんて」
「本当にそうだよな。結構変わった教育方針だよな」
二人の言葉を聞きながら、俺は鞄を机の横のフックにかける。
「まあ、うちの親は結構特殊だからな」
大人に頼らず自分たちの力で生活しろ、という両親の意図はわからない。初期費用と家賃の半分こそ出して貰っているものの、残りの家賃や食費、光熱費は学生の身で稼がなければならない。けれど、俺がこれをすんなり受け入れたのは、決して自立心からではなかった。
――自由になる『時間』と『金』が欲しかったからだ。
実家に縛られていては、この広い日本からあおいを探し出すことなどできない。様々な場所に足を運ぶためにも、バイトで資金を貯める必要があった。
チャイムが鳴り、担任の教師が教室に入ってくる。俺たちは会話を止め、朝のホームルームが始まった。
目の前の教師が淡々とホームルームを進める。
――連絡事項だけの短いホームルームが終わり、一限目が始まるまでの十分間の休み時間。
担任が教室を出て行った途端、静寂に包まれていた教室が再びがやがやと騒がしくなる。
「なあ、今日はいつもより騒がしくないか?」
俺は後ろの席の蓮に振り向き、そう尋ねる。
「ん?ああ、新入生が入ってもう五月だろ? 一年に可愛い子が何人かいるみたいでさ、それで盛り上がってるんだよ。例えばあそことかな」
そう言って蓮は教室の入り口付近で固まる男子たちを指さす。
盛り上がるあまり声量が大きくなっており、会話の内容はある程度筒抜けだった。
「一年は確かに豊作だけど、やっぱり俺は生徒会長だな。あの綺麗な顔立ちと、凛とした佇まい、ドストライクだよ」
グループの中の一人の男子生徒がそう言っているのが聞こえてくる。
「なるほどね」
「伊織は興味ないのか?彼女欲しいとかそういうの」
「残念だが忙しくてそういったことを考える暇がないな」
その後も蓮と雑談を続け、一限目の開始のチャイムと共に教師が入ってくる。
授業が始まり、思考が一人の世界に戻った途端、俺の脳内は再び『あおい』のことで埋め尽くされる。何もしていない時間は、いつもこうなる。
本当はあおいは生まれ変わってないのかもしれない。例えそうでも以前住んでいた家にはたどり着きたい。せめて、あおいの家族には会いたい。
だが、人間の肉体には、あの頃のような鋭い鼻も耳もない。地名も住所もわからない俺にとって、鋭い五感を失ったこの身体はあまりにも不便だった。覚えているのは、あの蒼い夕焼けのいつもの散歩コース、家周辺の風景。
そして――『あおい』という、大好きな人の名前だけ。
頭の中でずっとそんな考えがグルグルと回っていた。
どんなに手がかりがなかったとしても、それでも諦めるという言葉が浮かび上がることはなかった。
人間に生まれ変わり、あおいを守れるだけの大きな身体を手に入れたんだ。
俺は筆箱のシャープペンシルを強く握りしめ、この街であおいを必ず探し出すことを、静かに誓い直した。




