第1話 飼い犬だった頃の記憶
今でも、あの匂いだけは鮮明に思い出す。
乾いた砂の混じる川風、かすかに甘いシャンプーの香りと、彼女の優しい声音。幸せだった日々のすべてと――そして、肉をむしり取るような、悲惨な最期の瞬間を。
「こた、おいで」
鼓膜を震わせる、大好きだった響き。
夕方の部屋で俺を撫でてくれた、あの柔らかく、心地良い手のひらの感触が、まるで昨日のことのようだ。
俺の飼い主だった「あおい」は、肩まで伸ばした髪がよく似合う、笑顔の温かい少女だった。昼間は家を空け、夕方に紺色の制服姿で帰ってきたから、今思えば人間の学生だったのだろう。玄関の扉が開いた瞬間、彼女はまっすぐに駆け寄って俺を抱きしめた。その後、決まって奥の部屋から彼女の母親の小言が聞こえてくるまでが、俺たちの幸福な儀式だった。
あおいと過ごす時間は、世界のすべてだった。
あおいの家の玄関を出ると、俺の鼻と耳は、いつもの縄張りの匂いと音を捉えた。
お隣の庭からは、いつも低くて不機嫌そうな黒犬の唸り声が響いていた。角の古い建物の下を通り抜けるときは、決まって焦げたような香ばしい珈琲の匂いが鼻腔をくすぐる。地名や住所なんて言葉は知らなかったけれど、その五感の記憶だけが、俺にとっての『家』の目印だった。
その大好きな角を曲がり、少し走れば、あの開けた河川敷へと繋がっていた。
あの日の夕方。太陽が傾き、世界の輪郭がじわじわと滲み始める頃、俺はあおいに連れられて歩いていた。
人間のいう茜色の時間。けれど、犬だった俺の目には、世界はただ淡い蒼い光に包まれて映っていた。
いくつもの話し声が交差し、夕飯の香ばしい匂いが鼻腔を突き抜ける住宅路。それを抜けると、視界が開けた河川敷へと出る。この時間になると、鉄橋の向こうから規則正しい電車の駆動音が地響きのように伝わってきた。
いつも通りの、静かな散歩のはずだった。
河川敷の定位置まで歩みを進めたとき、リードを握るあおいの手が、不自然にピクリと強張った。
見上げると、彼女は目を見開き、肩をすくませて、カタカタと激しく震えていた。
視線の先に、男が立っていた。その手に、ぎらりと光る鋭利な刃物を握りしめて。
見た瞬間、男の全身から立ち上る、どす黒い「殺意の匂い」が鼻を刺した。本能的な異常を察した俺は、あおいの前に立ちはだかり、歯茎を剥き出しにして、腹の底から唸り声を上げた。
だが、男は怯まない。こちらへ向かって、突進してくる。
狂ったように何かを喚いていたが、当時の俺には人間の言葉など理解できなかった。
あおいは俺を連れて逃げようと、悲鳴を上げながらリードを引っ張った。けれど、それよりも早く、俺の身体は標的に向かって跳躍していた。
あおいを、絶対に守る。
恐怖などなかった。沸き立つ闘争本能のまま、牙を剥いて男の喉笛へと飛びかかる。
「こた――っ!!」
あおいの絶叫が響く。男は咄嗟に左腕を突き出して防ごうとした。
構わない。俺はその腕に深く牙を突き立てた。じわりと、鉄の錆びたような血の味が口いっぱいに広がる。
男は痛みに狂ったような声を上げ、右手の刃物を、俺の脇腹へと容赦なく突き刺した。
けれど、あおいを守る一念に支配された肉体は、痛みなど感知しない。俺はさらに深く、男の肉を噛み破ろうと顎に力を込めた。
肉を裂く、鈍い音が何度も響く。男は狂乱し、俺の全身を何度も、何度も刃物で突き刺した。
急速に視界がかすみ、顎の力が緩んだ瞬間、俺は腕ごと強引に振り払われ、地面へと叩きつけられた。
何回転も泥の上を転がる。
人間の身体に比べ、犬の器はあまりにも小さく、脆い。無数に穿たれた傷口から、熱い血液がドクドクと溢れ出し、草地を濡らしていく。全身から、急速に力が抜けていく。
重くなる生命の瞼をこじ開け、必死であおいの方を見た。
彼女は、絶望に顔を歪めていた。男はすでに俺に興味を失い、あおいに向かって突進していた。
鋭利な刃が、彼女の胸元に深く突き刺さる。
そのまま押し倒され、何度も、何度も銀光が振り下ろされた。最初は抵抗していた彼女の手足が、次第に、力を失っていく。やがて、指先ひとつ動かなくなった。
(俺に、もっと力があれば……っ!)
動かない肉体のまま、ただ大好きな人が壊されていくのを特等席で見つめることしかできなかった。己の無力さと、男への呪詛、そして激しい絶望に脳髄を焼かれながら、俺の意識は深い闇へと沈んでいった。
「――まもなく、2番線に、電車がまいります」
機械的なアナウンスと、激しい風。
視界に飛び込んできたのは、蒼い夕焼けではなく、眩しい朝の光と、制服を着た大勢の人間が行き交う駅のホームだった。
橘伊織。それが今の俺の名前だ。
あの凄惨な事件から、なぜか俺は記憶を持ったまま人間に生まれ変わり、気がつけば高校2年生になっていた。
人々が激しく行き交う朝のホーム。俺は通学の電車を待ちながら、あの鮮明すぎる犬の記憶をいつものように反芻していた。
地名も住所もわからない。覚えているのは、あの蒼い夕焼けの河川敷の風景と、電車の音。そして、家の近くでいつも吠えていた黒犬や、あの珈琲の匂い。 何より「あおい」という、俺のすべてだった人の下の名前だけ。
あまりにも手がかりは少ない。だけど、俺がこうして人間の言葉を話し、人間として生まれ変わっているなら。
「あおいだって、もしかしたら……」
同じように、この世界のどこかに生まれ変わっているかもしれない。
今度こそ、あの人を守れるだけの力を持った、人間として。
線路の向こうから、鉄橋を渡るあの時と同じ電車の駆動音が近づいてくる。
俺はわずかな可能性にすべてを賭けて、この街であおいを探し出すことを、強く心に誓った。




