第6話 花嫁専門と、書いてください
「うちで書いた看板は、百二十枚だ」
ヨストさんは、削り屑の中から板を三枚選んで、こちらへ並べました。
「二十年で百二十枚。全部この街に掛かってる。宴、承ります。婚礼一式。花・卓・楽師。……そのうち、花嫁って書いた看板は、一枚もない」
「一枚も」
「一枚もだ」
ヨストさんは板を指で弾いて、音の違いを聞かせてくださいました。真ん中の一枚が、いちばん低い音でございました。
「で、あんた、座は」
「ございません」
削り屑を払う手が、止まりました。
「じゃあ駄目だ」
「駄目、でございますか」
「商いの看板は、座の者しか掛けられない。宴、承りますって書いた板を掛けたら、三日で剥がされる。剥がしに来るのは商会の下働きで、あいつらは板ごと持っていく。銅貨八枚が消える」
「ほらね」
ニナさんが、筒を担いだまま仰いました。
「だから先に座取れって言ったじゃん。取れないんだけど。——で?」
わたくしは、商会でいただきました紙を思い出しておりました。四つの要件が書いてある紙でございます。あの紙の一行目に、こうございました。宴の商いを営む者は、と。
宴の商い。
「ヨストさん。宴を売らないのでしたら、いかがでございますか」
「……は?」
「宴の商いを営む者は、と書いてございました。わたくしは、宴を売りません」
「売らないで何するんだ」
「花嫁のほうを、承ります」
ヨストさんは、しばらく口を開けていらっしゃいました。それから、墨壺の蓋を開けました。開けてから、まだ何も決めていないという顔で、こちらをご覧になりました。
「……で、結局、何て書くんだ」
「花嫁専門の祝宴師、と」
「はな、よめ、せんもん」
「はい」
「の、なんだって」
「祝宴師でございます」
「聞いたことねえな、それは」
「ございませんでしょう。今、作りましたので」
ヨストさんは筆を持ったまま、天井を見ました。
「祝宴師ってのは、何屋だ」
「宴を作る者は、この街にたくさんいらっしゃいます。花嫁の一日を作る者は、まだいらっしゃいません」
「……同じじゃねえのか」
「別でございます」
わたくしは、板の真ん中を指で示しました。
「宴は、来た方々のためのものでございます。花嫁のためのものではございません。ですので、宴を売る方は花嫁を見ません。誰も意地悪をしておりませんのに、あの方々は式次第から名前が消えます」
ヨストさんは、墨を含ませました。
「屁理屈だな」
背中から声がいたしました。クレメンス様が、腕を組んで立っていらっしゃいました。いつからいらしたのか存じません。この方は、いつも足音がいたしません。
「はい」
「否定しないのか」
「屁理屈でございます。ただ、規則の外にあることは、確かでございますので」
「……剥がしに来たら、規則を読み上げるつもりか」
「読み上げていただくつもりでございます。あちらに」
クレメンス様は、しばらく黙っておられました。
「まあ、いい。剥がしに来たら俺が止める」
「よろしいのですか」
「通りで揉め事が起きたら止めるのが仕事だ。看板の中身は知らん」
筆が板に下りました。
ヨストさんの手は速うございました。二十年ぶんの速さでございます。
花嫁専門の祝宴師。八文字でございました。
「言っとくが、客は減るぞ」
ヨストさんは、板を立てて墨の乾き具合をご覧になりました。
「この街で銭を出すのは婚家だ。花嫁って書いた看板を見て、婚家の使いが入ってくると思うか」
「思いません」
「思わないのに書くのか」
「花嫁の方は、たいてい一人で通りを歩いておいでです」
ヨストさんは、板をもう一度立て直しました。
「……なるほどな。読ませたい相手が違うのか」
「はい」
「銅貨八枚だ」
わたくしは、銅貨を九枚置きました。板の音がいちばん低い一枚を選んでいただきましたので、その分でございます。ヨストさんは一枚だけ、指で押し戻されました。
◇
看板は、銀の梯子亭の壁に掛けました。宿の梯子の看板の、すぐ下でございます。釘を打ってくださったのは、マルタさんでございました。嫁いだ先から、三日に一度は宿へ戻ってこられます。ヘンドリク様は帳面をつけるのに忙しく、あまりお構いにならないのだそうでございます。
「ちょっと曲がってる」
「そうでございますか」
「うん。右が下がってる。……このままでいいや。うちの梯子も曲がってるし」
マルタさんは釘を三本打って、袖で額を拭いて、帰っていかれました。
その日、看板の前を通った方が十九人。足を止めた方が、三人でございました。
一人は読めずに行かれました。一人は読んで、笑って行かれました。もう一人は、読んで、それから宿の中を覗いて、また看板を読んで、それから行かれました。三人目の方が、いちばん長うございました。
「ねえ」
ニナさんは、看板を見上げたまま仰いました。筒を下ろして、壁に立てかけております。この方が筒を下ろすのは、珍しゅうございます。
「はい」
「花嫁専門って、書いたじゃん」
「はい」
「じゃあさ」
ニナさんは、看板から目を離しませんでした。
「あんたのときは、誰がやるの」
通りで、鐘が鳴りました。低いのが二つ、高いのが三つ。わたくしは、鞄のことを考えておりました。二階の客間の、寝台の下に置いてございます。旅装のまま、まだ棚へも櫃へも移しておりません。留め金は片方だけが固く、開けますと二度目に音がいたします。この街へ参りましてから、開けたことは一度もございません。
「……本日は、板を掛けておりました」
「うん」
「明日は、届け物がございます」
「うん」
ニナさんは、それきり何も仰いませんでした。この方が「——で?」の先を仰らなかったのは、初めてでございました。
◇
夜、卓の上に手紙がございました。南街道の花市の商人からでございます。二通目でございました。
——ヴェルスハイム様。ぶしつけを承知でお尋ねいたします。大聖堂の当日、白の薔薇を押さえておられる家が、もう一軒ございます。
——聖堂の帳面に、同じ日が二度書かれております。片方は殿下の御名で、もう片方はどこかの家の御名で。どちらが先の書き入れかは、帳面の書き方では分かりかねます。
——温室のほうへ伺いましたところ、九百は殿下の分だと聞いております、と申します。もう一軒のほうへ伺いましたところ、九百は当家の分だと聞いております、と申します。
——大聖堂まで、あと二十九日でございます。
わたくしは、宿の紙を一枚もらいまして、書き出してみました。一二〇〇。温室から九百。花市から三百。今年は雨が遅く、市は例年の七掛けで、二百十。
それから、その下に、もう一行書きました。温室の実の産は、七年のあいだ、一度も九百に届いたことがございません。いちばん多い年で八百二十。その年は夏が乾いておりまして、あとにも先にもその一度きりでございます。
九百という数は、押さえた数ではございませんでした。約束させた数でございます。その八百二十を、いま、二軒で。
——最初から、足りていない。
七年、毎年これを書いてまいりました。書いたものは、控えとして帳面に綴じてございます。年に二冊。七年で十四冊。王都の屋敷の棚に、背を東に向けて置いてまいりました。東に向けますのは、朝いちばんに日が当たるからでございます。誰かが朝に棚の前を通れば、背表紙の年が読めます。
どなたも、まだ通っておられないのでしょう。
窓の下で、鐘が鳴りました。低いのが二つ、高いのが三つ。この街のどこかで、また一組が誓ったのでございます。王都の大聖堂では、殿下の結婚式と、どなたかの婚礼が、同じ日に組まれております。
どちらの一組も、まだご存じないのでございましょう。
花嫁専門の祝宴師。八文字でございます。この街の看板はどれも「宴を売ります」と書いてありますので、この八文字だけが、花嫁の側に立っております。
第一章「返上」は、ここまで。次回、黒を着られない喪中の花嫁がまいります。表から見えるところは、一つも変えられません。
看板の板代(銅貨八枚)は、ブックマークと評価で賄っております。




