第5話 花嫁のほうへ
染物屋は、港の側の水路のそばにございました。水の上に板を渡して、その上に竿が並んでおります。藍の反物が干してございました。竿は二十二本。うち十九本が藍で、三本が空でございます。空の三本は、明後日の分でございましょう。婚礼のある家は、前の日から仕事を止めます。
「うちに何か」
帳場から、娘さんが顔を出しました。十九ほどでしょうか。髪を布で巻いて、袖をきつく縛っております。指の爪の際に藍が残っておりました。落ちない色でございます。
「アデルと申します。明後日の婚礼のことで伺いました」
「ベルネ様のほうから?」
「いいえ。花嫁様のほうへ、と思って参りました」
娘さんは、少しのあいだ黙りました。
「……ロレッタです」
そう仰って、帳場の板を持ち上げて、通してくださいました。帳場には帳面が積んでございました。日付と、反物の数と、染めの回数。字が小さく、行が真っ直ぐでございます。七年ぶんはございましょう。
「宴方の方ですか」
「座は、ございません。一日だけ、警固の名簿に名を書いていただきました」
「じゃあ、何ができるんですか」
よい問いでございます。皆様、たいてい後になってからお尋ねになります。
「一点でしたら」
「一点」
「式は変えられません。けれど、一点だけは変えられます」
ロレッタ様は、帳面の角を指で揃えました。
「変えるところ、ないと思いますけど。全部あちらが決めたので」
「拝見いたしました。ベルネ家の婚礼、と書いてございました」
「はい。それでいいんです」
「花は白と青、卓は十四、楽師は四名」
「はい」
「新婦、と十九ございました」
ロレッタ様の指が、止まりました。
「お名前は、一度もございませんでした」
「……書かないんですって。うちみたいな家の名は、出さないの。格が合わないから」
ロレッタ様は、笑いました。
「いいんです。名前なんて、いらないでしょう。式に」
わたくしは、竿を数えておりました。二十二本。十九が藍で、三本が空。
「姉が去年、同じ染物の家に嫁いだんです。そっちの式次第には、名前、載ってました」
ロレッタ様は、笑ったままそう仰いました。
「格の合う家に行くと、名前が載るんですよ。おかしいでしょう。上に行くほど消えるの」
◇
婚家の代理人は、ファルク様と仰いました。四十ほどの、物腰の柔らかい方でございます。聖堂で卓の下見をしていらっしゃるところへ、ご挨拶に伺いました。十四卓。上座が奥。窓は東でございますので、昼の式でしたら日は差し込みません。よく組んでございます。
「花嫁様の側の者でございます」
「ああ、そう伺いました」
ファルク様は、感じよくお辞儀をなさいました。
「名を出さないのは、意地悪ではありませんよ。格の話です。ご実家の名を式次第に載せますと、ベルネ家の縁者が数えますので」
「何を、数えますか」
「銭を」
率直な方でございました。
「持参の額と、家の身代と、その差を。数えて、宴のあいだ中それを話します。花嫁は正面に座って、それを二刻半聞くことになる。載せないほうが、あの娘さんのためです」
それは、そのとおりでございました。この方は、ロレッタ様のことを考えていらっしゃいます。考えたうえで、名前を消しております。世の中の消し方は、たいていこの形でございます。
「一つ、伺ってもよろしゅうございますか」
「どうぞ」
「誓約の写しは、何通お作りになりますか」
「三通です。聖堂に一通、婚家に一通、それから実家に一通」
「実家の一通は、仕来りでございますか」
「いえ、あれは……礼のようなものですね。形だけのものです。棚に置くだけの」
「形だけのものに、決まりはございますか」
ファルク様は、少し首をかしげました。
「無いでしょうね。写しの様式は、司祭様がお決めになる」
——決まりが無い。つまり、こちらのものだ。
「ありがとうございます」
「……あなた、なかなか手際がよろしい」
ファルク様は、卓の札を並べ直しながら仰いました。
「どうです。うちの側で働きませんか。日当は倍出します。ベルネ家はこの先も縁組が続きますので、仕事も続きます」
「ありがたいお話でございます」
「では」
「花嫁の側にしか、つきません」
ファルク様の手が、札の上で止まりました。
「……儲かりませんよ、それは」
「はい」
「花嫁に銭は無い。銭を出すのは婚家です。この街で十年もすれば分かります」
「四日で分かりました」
ファルク様は、しばらくわたくしを見て、それから声を立てて笑いました。悪い方ではございません。悪い方でなくても、名前は消えるのでございます。
その晩、司祭様のところへ伺いました。写しの様式は、司祭様がお決めになるとのことでしたので。お願いいたしましたのは、一つでございます。
◇
式は、仕来りどおりに進みました。白と青の花。卓は十四。楽師は四名。誓いのあとに杯を三度。ベルネ家の婚礼、と読み上げられました。署名の卓が出てまいります。
花婿が書き、花婿の父が書き、ファルク様が書き、司祭様が書きました。四つの欄が埋まって、羽根ペンが置かれます。ロレッタ様は、半歩下がったところに立っていらっしゃいました。それが決まりでございますので。
司祭様が、二通目の紙を出しました。実家へ渡す一通でございます。その一通にだけ、欄が五つございました。
司祭様が、羽根ペンをロレッタ様のほうへ向けました。ロレッタ様は、動きませんでした。
「……わたし、ですか」
「その一通は、ご実家へ参りますので」
わたくしは、それだけ申し上げました。ロレッタ様が、羽根ペンをお取りになりました。帳場で七年、日付と反物の数を書いてきた手でございます。書くことに慣れた手が、そこで一度だけ止まりました。それから、書きました。
紙の上で、最後の一画だけが、少し長うございました。爪の際の藍が、羽根の軸に薄くつきました。
ファルク様は、そのとき卓のほうをご覧になっておりました。花婿は司祭様と日取りの話をしております。花婿の父は、もう椅子におかけになっておりました。どなたも、ご覧になっておりません。
戸口のところで、ニナさんが筒を担いだまま立っておりました。宴が終わりましたのは、日の落ちる前でございました。婚家の格に合わせた式は、終わるのが早うございます。ロレッタ様は、水路のそばまで歩いて、紙の筒を胸に抱えていらっしゃいました。
「これ、どこに置けばいいですか」
「ご実家の帳場に」
「棚のどこ」
「東に向けてお置きくださいませ」
「なんで東」
「朝、いちばん先に日が当たりますので」
ロレッタ様は、筒を持ち替えました。
「変な人ですね」
「よく言われます」
「……名前、いらないと思ってたんですけど」
ロレッタ様は、水路をご覧になっておりました。藍の匂いは、水にも移ります。
「書いたら、手が変でした。それだけです」
それから、帳場のほうへ歩いていかれました。
◇
「ねえ」
坂を上がりながら、ニナさんが筒を担ぎ直しました。
「あんたさ、名前ないでしょ」
「アデルでございます」
「そっちじゃなくて。店の名前。あたし、人に聞かれるんだけど、あんたのこと何て言えばいいの」
「……何と、お答えになっておいでですか」
「宿の二階の人」
「よろしいかと存じます」
「よくないよ」
ニナさんは、坂の途中で立ち止まりました。
「今日、染物屋のとこの手代が三人、あんたのこと聞いてきたんだから。二階の人、で三回言った。三回目に自分でも変だと思った。——で? 看板作りなよ。ヨストさんとこ、板一枚で銅貨八枚」
看板屋は、坂の下から二軒目にございました。通りの看板を、来た日に読んでまいりました。「宴、承ります」。「婚礼一式、三日より」。「花・卓・楽師、まとめて」。どれも、宴を売っております。わたくしは、削りかけの板の前に立ちました。
ヨストさんが、削り屑を膝から払って、顔を上げました。
「で、何て書くんだ」
ご自分の名前を書く欄のない書類に、署名なさったことはございますか。ロレッタ様は「書いたら、手が変でした」と仰いました。慣れておられないだけでございます。
次回、看板を作ります。板一枚、銅貨八枚。そこに何と書くかで、この先の筋がだいたい決まります。




