第4話 宴方の座
宴商会の建物は、坂を上がって三つ目の角にございました。石造りの二階建てで、扉に鉄の輪が二つ。中は思ったより広うございます。帳場が三つ、待ちの椅子が九脚。壁に組数の札が掛かっており、今年に入って組まれた婚礼の数が墨で書き足されてまいります。
わたくしは八番目でございました。待っておりますあいだに、鐘が四度鳴りました。低いのが二つ、高いのが三つ。四度でございますから、この半日で四組が誓ったのでございましょう。この街の人は、やはり誰も顔を上げません。順が回りまして、真ん中の帳場へ参りました。
「宴方の座を、いただきに伺いました」
帳場の男は三十半ばで、指の腹に墨がついておりました。名は札に出ております。マイエル、とございます。
「登録ね。じゃあ、四つ言うから聞いて」
男は紙を一枚、指で滑らせてまいりました。
「一、公国の民籍。二、この街に三年住んでいること。三、座を持ってる宴方が二人、裏書きすること。四、見習いの年季が五年」
「民籍は、ございません」
「うん」
「三年も、ございません。四日でございます」
「うん」
「裏書きも、年季も、ございません」
「じゃあ、無理だね」
早うございました。話が速いのは、悪いことではございません。
「実績を、ご覧いただくことはできますか」
「実績」
わたくしは巻紙を一本、卓に置きました。二年目の秋の、王城の宴のものでございます。厚みは指一本ぶん。この束のなかでは薄いほうでございます。
マイエル様は、片手で広げました。広げて、それから、もう片方の手も添えました。卓の端から紙が垂れて、床につく前に、手が止まりました。
「……これ、あんたが書いたの」
「はい」
「一人で?」
「はい」
「客は」
「その年は、九百二十名でございます」
男はしばらく黙って、指で一行をなぞりました。返礼の届いていない家の印のところでございます。ちょうど、国境の関で同じ場所を見た方がいらっしゃいました。それから、巻紙をゆっくり巻き戻して、こちらへ押し戻しました。
「——三年住んで、裏書き二枚な」
「では、裏書きをくださる方を、ご紹介いただけますか」
「……それは、うちの仕事じゃない」
「どちらの仕事でございましょう」
「上が、決めることだ」
男は次の札を手に取りました。九番の方が椅子から立ち上がっております。——要件の話では、ない。
わたくしは頭を下げて、外へ出ました。階段は十一段。上がるときは数えておりませんでしたので、下りながら数えました。
◇
「あのさ」
扉を出て三歩目で、袖を掴まれました。背丈はわたくしの胸のあたりまで。前髪が目にかかっております。肩に式次第の巻紙を、筒ごと担いでおりました。細い肩に、筒だけが立派でございます。
「あの人たち、あんたが女だからじゃなくて上手いから断ったんだよ。分かってる?——で? 次どうすんの」
一息でございました。
「……どちら様でいらっしゃいますか」
「ニナ。見習い。四年目」
「宴方の、でございますか」
「そう。使いっ走り。巻紙運ぶの。あたし、字は読めないけど、卓の数なら数えられるから。——で?」
ニナさんは筒を担ぎ直しました。担ぎ直すたび、前髪が跳ねます。
「あんたが巻紙出したとき、マイエルさん、手ぇ止まったでしょ。あたし、そこの階段から見てたもん。あの人、手が止まったら困ってるときなの。困ってないときは止まんないの。あと三年って言われたでしょ。あれ嘘だからね。去年、川向こうから来た男の人、半年で座もらってたし。だからあれは、住んでる年の話じゃないの。——で? 次どうすんの」
「ずいぶん、お詳しゅうございますね」
「四年いるもん」
ニナさんの筒には、紐が二重に巻いてございました。運び慣れた結び方でございます。
「先に、伺ってもよろしゅうございますか。なぜ、わたくしに教えてくださいますか」
「マルタの婚礼、あんたでしょ」
ニナさんは、こともなげに仰いました。
「昨日、坂の上の聖堂。噂になってるよ、あの子ずいぶん機嫌よかったって。宿の裏で靴脱いで座ってたって。あの家、あんまりいい話じゃなかったからさ、みんな、あれ何、って言ってる」
「機嫌のよい花嫁は、珍しゅうございますか」
「珍しいよ」
言い切られました。
「……いいなあ。あたしのときは、そういう噂、たぶん立たないんだろうな」
「ご予定が」
「うん、来年。親父が借りた金の形。相手はまだ見てない。名前も聞いてない。まあ、見なくても嫁ぐんだけどね」
ニナさんは、そこだけ早口に、笑いながら仰いました。笑い方が上手でございました。この街には、笑い方の上手な娘さんが多うございます。
「——で? 次どうすんの」
◇
「宴警固頭のとこ行こ。あの人なら口きける」
ニナさんは、わたくしの返事を待たずに坂を下りてまいりました。港の倉の前に、その方はいらっしゃいました。革の胴着に公国の紋。荷の札を検めております。
「登録は無理だ」
まだ何も申し上げておりません。
「……お耳が早うございますね」
「商会に朝から他所者の女が座を取りに来たって話は、昼には港まで来る」
クレメンス様は札を検め続けたまま、こちらを見ずに仰いました。
「で、なんで俺のところに来た」
「あたしが連れてきたの」
「聞いてないぞ、ニナ」
「言ってないもん」
クレメンス様は札を束ねて、脇へ寄せました。
「言っとくが、俺は宴方じゃない。裏書きはできん」
「はい」
「座もやれん」
「はい」
「……」
しばらく、荷の匂いだけがしておりました。港の荷は、この街ではたいてい花か酒か布でございます。
「一件ごとの届なら、警固の名簿に立会人の欄がある」
クレメンス様が、面倒くさそうに仰いました。
「当日、卓に近づけていい人間を書く欄だ。座じゃない。札でもない。式が終われば消える。一日ぶんだ」
「充分でございます」
「充分じゃねえよ。金にならん」
「一日ございましたら、一点は変えられます」
クレメンス様が、そこで初めてこちらを向きました。
「……分かってると思うが、俺がその欄に人を書くってのは、その人間が何をしても俺の責任になるってことだ」
「はい」
「めでたい席ってのは、一番人が死ぬ席だ。刃物は卓の上に並んでるし、酒は入るし、恨みのある家同士が同じ部屋にいる。だから警固がいる」
それから、腰の帳面を取り出しました。
「名は」
「アデルでございます」
「家名の欄がある」
「では、空けておいてくださいませ」
クレメンス様は、そこを空けたまま筆を止めて、二度ほど指で叩いて、結局そのままにいたしました。
◇
その夜、銀の梯子亭の卓に、巻紙の筒が一本置かれました。
「はい、これ」
ニナさんが、担いできた筒をそのまま卓へ寝かせました。宿の食堂には、まだ婚礼の名残の卓布がかかっております。
「明後日の式の。届け先の人が留守でさ、明日でいいって言われたんだけど、あたし持って帰ると親父が中身売るから」
「売る、でございますか」
「よそに。式次第って、けっこう売れるの。同じ日に別の式やってる人が、卓の数と楽師の名前だけ知りたいから」
この街の商いの機微を、一つ教えていただきました。
「……ねえ、これ何が書いてあるの」
「お読みしてよろしいのですか」
「あたし読めないもん。読んで」
わたくしは、巻紙を広げました。短うございました。指一本ぶんもございません。
ベルネ家の婚礼。日は明後日。聖堂は港の側の大きいほう。花は白と青、卓は十四、楽師は四名。誓いのあとに杯を三度。署名の欄が、四つございました。花婿。花婿の父。婚家の代理人。司祭。
わたくしは、頭からもう一度読みました。新婦。新婦。新婦。
十九ございました。名前は、一度もございませんでした。
「どうしたの。——で?」
「ニナさん。この方のお名前を、ご存じですか」
「知らない。染物屋の下の娘、としか聞いてないよ」
わたくしは巻紙を巻き戻しながら、もう一度だけ数えました。新婦、十九。
名前、零。
二人目の花嫁は、式次第から名前が消えておりました。
式次第が売り物になる街です。卓の数と楽師の名前だけでも、同じ日に式を挙げる家には値がつきますので。ニナが「持って帰ると親父が売るから」と担いできたのは、そういう紙でございました。
次回、その紙をもう一度読みます。新婦の名前が、一度も書かれておりません。アデルは、花嫁のほうへまいります。




