第3話 一点だけ、変えられます
朝の食堂に、人が七人おりました。マルタの父上が、貸主のヘンドリク様に頭を下げております。ヘンドリク様は帳面を開いて、証文の日付を確かめていらっしゃいました。婚礼の朝に確かめる話ではございませんが、確かめておられます。
仕立て屋の使いが白の絹を届けにまいりました。台所ではマルタの叔母様が鍋を掻き回しております。楽師が二人、階段に腰かけて弦を合わせております。七人おりまして、誰一人、マルタを見ておりませんでした。
マルタは帳場の椅子に座って、膝の上で手を組んでおりました。すでに白の絹を着ております。着せられたまま、動くと皺が寄ると言われて、そのまま座っているのでございましょう。
「おはようございます」
「あ。おはよう」
マルタが笑いました。昨日と同じ笑い方でございました。
「式次第は、どなたがお持ちでいらっしゃいますか」
「しき、じだい?」
「本日の段取りを書いたものでございます」
「そんなの、ないよ」
マルタは首をかしげました。
「司祭様が言うとおりにするだけだもの。ずっとそうだって」
◇
聖堂は坂の上の小さなものでございました。石が古うございます。司祭様は白髪の、痩せたお方でした。わたくしが仕来りを一つずつ伺いますと、律儀に一つずつ答えてくださいます。
「衣装は白の絹。これは変えられません」
「はい」
「入場は、花嫁の父が右手を取って、通路を歩く。これも変えられません」
「はい」
「誓いの言葉は、新郎から。花は白のみ。指輪は新郎の家のものを。卓の席は、貸した側が上座」
「はい」
「順序も、変えられません」
「はい」
「鐘は三つ。花は摘んだその日のもの。灯は蝋の白。誓いのあと、新婦は三歩下がる」
「三歩」
「三歩だ。昔からそうなっている」
わたくしは、聞きながら数えておりました。変えられないものが、二十二ございました。変えられるものは、ございませんでした。
——ここまでは、想定のうちでございます。
こういうとき、式そのものを動かそうといたしますと、必ず失敗いたします。動かないものを動かそうとすると、周りが身構えて、かえって隙間がなくなりますので。探すのは、隙間でございます。
誰も決めていない場所。誰も見ていない場所。仕来りの外側にあるので、仕来りが守られていることに変わりはない場所。
「司祭様。控えの間は、どちらでございますか」
「裏の、あの部屋だが」
「控えの間から、通路の入口まで。あそこは、どなたが決めておいでですか」
司祭様が、まばたきをなさいました。
「あそこは……歩いてくるだけだが」
「では、決まりはございませんね」
「決まりも何も、通ってくるだけの場所だ」
「何歩ございますか」
「……知らんよ、そんなものは」
わたくしは測ってまいりました。控えの間の戸口から、通路の入口の敷石まで。
十二歩でございました。
宿へ戻りましたのは、昼を過ぎてからでございます。
「靴を、お借りしてもよろしゅうございますか」
マルタが妙な顔をいたしました。
「靴?」
「昨日、卓の下にございました」
「母さんの? あれ、履けないって言ったじゃない」
「白の絹は、裾が床に届きます」
「……うん」
「歩いていらっしゃるあいだ、足元はどなたにも見えません」
マルタが、口を開けました。わたくしは、続けました。
「それから、控えの間から通路の入口までの十二歩。あそこは、仕来りに入っておりません。司祭様も、そんなものは決まっていないと仰いました」
「それって」
「お父上が右手をお取りになるのは、通路からでございます。その十二歩は、どなたのものでもございません」
マルタの手が、膝の上で動きました。
「……あたしが、一人で歩いていいの」
「歩かなくてもよろしゅうございます。ただ、そこだけは、決まりがございません」
◇
式は、仕来りどおりに進みました。白の絹。白の花のみ。新郎から誓いの言葉。上座に貸した側。二十二の決まりは、一つも破られておりません。
控えの間の戸が開きます。マルタが出てまいりました。父上はまだ通路の入口でお待ちです。手を差し出して、待っていらっしゃいます。
マルタは、そこまでの十二歩を、一人で歩きました。
誰も、何も申しません。誰も気づきません。それは道でしかなく、道を歩くのは当たり前でございますので。ただ、石の床に、こつ、こつ、と音がいたしました。踵の低い、古い型の、母上の靴の音でございます。
七歩目のあたりで、マルタの顎が上がりました。十歩目で、歩幅が広くなりました。十二歩目で、父上の手を取りました。そこからは、仕来りどおりでございます。
誓いのあと、マルタは三歩下がりました。昔からそうなっているのだそうでございます。下がりながら、一度だけ足元を見ました。
宴は、上座に貸した側。二十二の決まりのうち、最後の一つでございます。ヘンドリク様は帳面をお持ちになりませんでした。朝はお持ちでしたが、宴にはお持ちになりませんでした。わたくしは、それだけ確かめて、外へ出ました。
宴が終わりましたのは、日が落ちてからでございました。マルタは白の絹のまま、宿の裏の井戸端に座っておりました。裾を持ち上げて、足を投げ出しております。皺のことは、もうどうでもよくなったのでございましょう。
「お客さん」
「はい」
「あのさ」
マルタが、靴を片方だけ脱いで、膝に載せました。
「あたし、今日ずっと、誰かの都合で動いてたんだけど」
「はい」
「十二歩だけ、自分で歩いた」
マルタは靴の縫い目を、指でなぞりました。
「なんかさ、変なんだけど。今日は、わたしの日でした」
わたくしは、頭を下げました。
「……ねえ」
「はい」
「あの十二歩さ。誰も見てなかったよね」
「はい。どなたも」
「父さんも、ヘンドリク様も、叔母さんも。誰も、あたしが一人で歩いたって気づいてない」
「気づかれないほうが、よろしゅうございます」
マルタは靴を履き直して、立ち上がりました。裾に井戸端の砂がついておりましたが、払いませんでした。
「あたしは知ってるからいいや」
そう申しまして、それから、戸口のところで振り返りました。
「お客さん。この街、そういうの、けっこう要ると思う」
わたくしは、坂の下のほうを見ました。灯が、まだいくつも点いております。
◇
部屋に戻りますと、卓の上に手紙が置いてございました。王都の、南街道の花市の商人からでございます。七年、白薔薇を頼んでまいりました相手でございます。文面は短うございました。
——ヴェルスハイム様。北廊の意匠、三案のどれで通りましたでしょうか。温室ぶんの九百は押さえてございますが、残りの三百について、王城にお伺いを立てましたところ、どなたも図案をご存じないと仰います。
——大聖堂まで、あと三十四日でございます。
わたくしは、その手紙を二度読みました。三案の図案は、白の間の卓に置いてまいりました巻紙の、六十一枚目から六十三枚目でございます。
どこから読むか、とお尋ねになった方がいらっしゃいました。まだお読みになっていないのでしょう。
窓の下で、鐘が鳴りました。低いのが二つ、高いのが三つ。
今日も、この街のどこかで、誰かの婚礼が始まったのでございます。
十二歩を歩いたのはマルタ様お一人で、それに気づいたのもマルタ様お一人でした。祝宴師の仕事は、たいてい誰にも気づかれません。気づかれましたら、それは変えすぎでございます。
次回、この街で店を開こうといたしますが、宴方の座に空きがございません。代わりに押しかけてくるのは、字の読めない荷運びの娘です。
ブックマークと評価をいただけますと、この街の鐘が一つ多く鳴ります。




