第2話 馬車は、南へ
国境の関で、荷を開けられました。
「これは何だ」
背の高い男が、巻紙の束を持ち上げております。年は二十代の後半でしょうか。革の胴着に、公国の紋。腰の剣は飾りではございません。柄の巻きが、右手のかたちに擦れております。
「式次第でございます」
「暗号じゃないのか」
「暗号でしたら、もう少し短く書きます」
男は巻紙を一本、その場で広げました。関の卓に、端が垂れて床まで届きます。
「……三百十二、三百十三、三百十四。何だこの数は」
「客の番号でございます」
「客に番号を振るのか」
「振らないほうが珍しゅうございます」
男は次の一本を開きました。それから、次の一本も。開けるたびに、卓の上が埋まってまいります。関の兵が二人、遠巻きに見ておりました。
「衣装、料理、警備……警備?」
「そちらは南門の交代表でございます。四刻ごとに三名ずつ。雨が降りますと、二刻ごとに四名へ増やします」
「なぜ雨で増える」
「傘の陰で、顔が見えなくなりますので」
男の手が止まりました。それから、もう一度だけ紙面へ目を落として、指で一行をなぞりました。
「……この、赤い印は」
「返礼の品が届いていない家でございます」
「届いていない家を、なぜ数える」
「席順を決めますので」
男が顔を上げました。
「品が来ていない家は、下座にするのか」
「いいえ。上座にいたします」
「なぜだ」
「品が届かない家は、たいてい、内輪に何かございます。上座におりますと、周りが気を遣いますので、揉めません」
男は、しばらくわたくしを見ておりました。それから、巻紙をゆっくり巻き戻して、わたくしのほうへ押し戻しました。
「……あんた、何と戦ってきたんだ」
「結婚式でございます」
「そりゃ、戦だな」
男は通行の札に印を押しました。押しながら、こちらを見もせずに申します。
「クレメンス・ドラゴー。この国の宴警固頭だ」
「宴の、警固でございますか」
「祝いの席で人を止めるのが仕事だ。……悪いことは言わん。この国で式次第の束を担いで歩くな。目をつけられる」
「どなたに」
「宴で食ってる連中に」
男は通行の札を差し出して、それから、思い出したように申しました。
「あんた、名は」
わたくしは、一度だけ言い淀みました。ヴェルスハイム侯爵家のアデライド、と七年名乗ってまいりました。名乗りますと、家と、婚約と、式典の一切がついてまいります。名乗る前から相手が知っていることも、たびたびございました。もう、ついてまいりません。
「アデルでございます」
「それだけか」
「それだけでございます」
男は札をこちらへ押しつけるように寄越しました。
「そうかい。じゃあ、アデル」
初めて、こちらを正面から見ました。
「式次第は、鞄の底に入れとけ」
◇
カルヴァンの街は、坂でございました。港から丘まで、白い石の道が幾筋も上がっております。その道の両側に、花屋と仕立て屋と菓子屋と楽師の宿。それから、婚礼の受付の看板が、数えただけで十四。
鐘が鳴りました。低いのが二つ、高いのが三つ。通りの人は誰も足を止めません。ここでは、婚礼の鐘は日に何度も鳴るものなのでございましょう。年に四百組と聞いてまいりました。各国の政略の婚礼が、ここで組まれます。どの国にも属さない公国は、どの国の顔も立てられますので。
坂を上がりながら、看板を読んでまいりました。「宴、承ります」。「婚礼一式、三日より」。「花・卓・楽師、まとめて」。どれも、宴を売っております。
花嫁を、と書いた看板は、一つもございませんでした。
途中の広場で、卓を組んでいる者たちを見ました。十六卓。上座が北。日は西から入ります。——上座の客が、日没から半刻、正面から陽を受けることになる。卓を九度だけ回せば済むことでございました。誰も回しませんでした。
母が生まれた街でございます。母もここで、宴を作る仕事をしておりました。輿入れしてからは一度も申しませんでしたが、亡くなったあと、荷の底から式次第が一枚出てまいりました。最後まで書き上がっていない一枚でございます。その話は、また今度にいたします。
◇
宿は坂の中ほどの「銀の梯子亭」にいたしました。一階が食堂で、二階が客間。看板の梯子は塗り直したばかりで、まだ塗料の匂いがいたします。ただ、卓布は三月ほど替えていないご様子でした。
「お一人? 何泊?」
帳場の娘が、こちらを見ずに申しました。十七、八でしょうか。髪をひとつに束ねて、袖をまくっております。
「三泊でお願いいたします」
「三泊ね。……あ」
娘の手が止まりました。
「ごめんなさい。明日、使えないの。食堂」
「なにか、ございますか」
「あたしの婚礼」
娘はそう申しまして、それから、笑いました。笑い方が上手でございました。ずいぶん練習なさったのだろうと思いました。
「マルタっていいます。父さんが借りたお金の、貸したほうの人と。ヘンドリク様。六十二」
わたくしは、帳場の卓を見ておりました。卓の下に、革の靴が片方だけ出ております。女物の、踵の低いもの。爪先の縫いが古い型でございました。今のカルヴァンでは、もう作っておりません。
「その靴は」
「え? ああ、母さんの。物置にしまってたのが出てきちゃって」
マルタは屈んで、靴を蹴るようにして卓の奥へ入れました。
「明日、履けないんです。花嫁は白の絹って決まってるから。ヘンドリク様のとこの仕来りで」
「さようでございますか」
「靴まで白の絹って、どうやって歩くんだって思うんですけど」
マルタは笑いました。
「まあ、歩くのは通路だけだし。三十歩くらい? 父さんが手ぇ引いてくれるから、転ばないし」
「お父上が」
「そう。それが決まりなんだって」
娘は帳面を閉じて、指で表紙を叩きました。
「その父さんが、あたしをヘンドリク様んとこに出すんですけどね」
そう申しまして、また笑いました。同じ笑い方でございました。
「……変なこと聞いていい?」
マルタが顔を上げました。
「お客さん、なんか、そういうの詳しそうな顔してる」
「顔でございますか」
「なんていうか、うち入ってきたとき、天井の梁を数えてたでしょ」
数えておりました。八本でございます。卓を並べ替えれば、十六人まで座れます。
「……あの」
マルタが、袖の端を握りました。
「明日、あたしの式、変えられないですよね」
わたくしは、しばらく黙っておりました。変えられません。仕来りは変えられません。相手も、日取りも、白の絹も、六十二という年も、父上の借財も、何一つ変わりません。わたくしにできることは、ございません。
——ただ。
「一点でしたら」
「え」
「式は、変えられません。けれど、一点だけは、変えられます」
マルタが、わたくしを見ました。
「一点」
「はい。一点でございます。二点は無理でございます」
「……なんで二点は無理なの」
「二点変えますと、変えたことに気づかれますので」
娘は、口を半分開けたまま、しばらく黙っておりました。それから、袖の端をもう一度握りました。
「お客さん、何してた人なの」
「結婚式を作っておりました」
「どこの」
「よそでございます」
「ふうん」
マルタは、それ以上お尋ねになりませんでした。この街には、よそから来る人が多いのでございましょう。
◇
その夜、通りで宴がございました。どこかの婚礼の三日目だそうで、卓が道まで出ております。楽師が三人。人が三十人ほど。その端の壁際に、あの男が立っておりました。クレメンス・ドラゴーでございます。誰とも喋らず、杯も持たず、ただ卓のほうを見ております。人が笑うたびに、少しだけ首を動かして、笑った者の手元を見ておりました。
わたくしは通り過ぎながら、卓の端に椅子が一つ余っているのを見ました。誰も座っておりません。誰も、そこへ寄せようともいたしません。
明日、マルタの婚礼でございます。
白の絹は、変えられません。
初対面で口喧嘩をした相手と、この先ずっと同じ卓を囲むことになります。クレメンス・ドラゴー、通称クレム。喋らない、笑わない、宴が嫌い。婚礼の街の警固としては、たいへん向いておりません。
次回、宿の娘マルタの婚礼です。白の絹も、入場の順も、誓いの文句も変えられません。変えられるのは、一点だけでございます。




