第1話 式次第は、こちらに
「アデライド。私は、真実の愛と結婚することにした」
セドリック殿下がそう仰ったとき、わたくしは大聖堂の白薔薇のことを考えておりました。一二〇〇本。うち温室から上がるのが九百、残りは南街道の花市から。ただし今年は雨が遅く、市の入荷は例年の七掛けと聞いております。——つまり、最初から足りていない。
足りないぶんは北廊の意匠を変えて蔓の緑を増やすつもりで、図案は先週、三案まで詰めてございました。
「聞いているのか」
「はい。おめでとうございます」
白の間には、宰相閣下と、儀典長のヘルヴィク侯爵と、王妃陛下の女官長が控えていらっしゃいます。四人。誰も座っておりません。座らせない場だということでございましょう。殿下は少し、拍子抜けなさったようでした。
「……相手を、聞かないのか」
「オルセン男爵家のミレーユ様でいらっしゃいますね」
殿下の眉が動きました。
「知っていたのか」
「三月の園遊会で、席をお移しになりましたので」
あのとき、殿下の卓と男爵家の卓のあいだに、生垣の切れ目がございました。切れ目の位置を決めたのはわたくしでございます。庭師は反対いたしました。風が抜けすぎると。それでもわたくしは通しました。殿下がその日、生垣越しに二度、同じほうをご覧になったからでございます。
「アデライド」
「はい」
「お前は、七年よくやってくれた。だが、式などすぐ誰かが引き継ぐ」
わたくしは膝の上で、指を折りました。一本目、客名簿。二本目、衣装。三本目、料理。四本目、警備。五本目、外交席次。折る指がなくなりましたので、もう一方の手に移りました。
「殿下。それでは、申し送りをいたします」
「……いま、ここでか」
「はい。ここで」
◇
「客名簿は千二百四十名でございます。うち、正面から入っていただける方が四百八十名。残りは南門から時間差でお通しいたします。同じ門で鉢合わせてはならない組が十一組ございまして、名簿の頁の端を折ってございますので、折り目でお分けください」
「アデライド」
「衣装は三度目の寸法直しが済んでおります。殿下の礼装は肩が二分ほど落ちておりましたので、直させました。仕立て屋のバルクは腕がよろしゅうございますが、期日を一度は必ず破ります。ですから期日を十日早くお伝えしてございます。本当の期日は、わたくしの手帳のほうに書いてございました」
「待て」
「料理は、鶏を四百羽。ただし今年は南で疫病が出ておりますので、二割は鴨に振り替えるよう手配済みでございます。厨房頭には申しておりませんので、当日の朝、殿下からお伝えくださいませ」
「なぜ言っていない」
「先に申しますと、抗議に半日かかりますので」
「……半日」
「はい。三度やりましたので、三度とも半日でございました」
殿下は何か仰りかけて、おやめになりました。
「警備は南門に四刻ごと三名。雨天は二刻ごと四名。楽師は聖歌隊とは別に、宴のほうへ六名。うち二人は兄弟でございまして、去年、卓を挟んで殴り合いをいたしました。同じ卓に入れないでくださいませ。名簿の欄外に印がございます」
「印」
「三角でございます」
「……三角の意味を、誰か知っているのか」
わたくしは、少し考えました。
「今は、わたくしだけでございます」
ヘルヴィク侯爵が咳払いをなさいました。
「アデライド嬢。引き継ぎは、追って文書で」
「侯爵閣下。外交席次の綴じが、一枚ずれてございます」
侯爵が黙りました。
「北方の使節の卓と、東方の使節の卓が、綴じの順では隣り合います。ですが、綴じを一枚戻していただきますと、あいだに聖堂参事会の卓が入ります。ずれたままお使いになりますと、当日、あの二卓が同じ通路で向かい合うことになります」
「……それは」
「先月、閣下が決裁なさった図でございます」
わたくしは、そこで言葉を止めました。それ以上は申し上げておりません。申し上げると、話が長くなりますので。
◇
殿下が、少しだけ声を落とされました。
「……お前は、悔しくないのか」
わたくしは立ち上がりました。卓の上に、抱えてまいりました巻紙を置きます。七年ぶんの式次第を綴じたものでございます。厚みは、指四本ぶん。
「殿下」
「なんだ」
「真実の愛と結婚なさるのでしたら、王太子殿下の結婚式は、ご自分でどうぞ」
白の間が、少し広くなったように感じられました。誰も、巻紙に手を伸ばしません。宰相閣下は目を伏せていらっしゃいます。ヘルヴィク侯爵は窓のほうをご覧になりました。女官長は、そもそも巻紙が何であるかをご存じないご様子でした。
殿下だけが、じっとそれを見ておられます。
「これは」
「式次第でございます」
「……どこから読む」
わたくしは、頭を下げました。
「それを最初にお尋ねになるのでしたら、まだ間に合うかもしれません」
◇
屋敷に戻りますと、卓の上に控え帳が積んでございました。七年ぶん。年に二冊。十四冊でございます。式次第の写しと、誰の印でどの変更が通ったかを、日付とともに書いてまいりました。書き始めましたのは、十六の年でございます。
最初の年に、大聖堂の鐘の順を一つ変えたことがございました。わたくしが言い出したのではございません。ある閣下が「そのほうが荘厳だ」と仰って、そのとおりにいたしました。ところが当日、鐘が鳴り終わる前に扉が開いてしまいまして、行列が半分ほど、鐘の下を通ることになりました。あとで、その閣下が仰いました。
——誰の指図でこうなった。
それから、書くようになりました。誰が、いつ、何を通したか。
十四冊ございます。これは持ってまいりません。
持ってまいりますと、いつか誰かが「あの女が持ち出した」と申します。ここに置いておけば、記録は王家のものでございます。わたくしは十四冊を揃えて、背を東に向けて棚へ戻しました。七年、そうしてまいりましたので、手が勝手にそう置きます。
いちばん下の段に、薄い紙が一枚だけ落ちておりました。拾い上げます。
式次第でございました。ただし、客が十二名しかおりません。花は野の花。卓は一つきり。楽師は入れず、姉の弾く古い弦だけ。右上に、十五のわたくしの字で「わたくしの分」と書いてございます。
婚約が調った年に、一度だけ書いたものでございました。書いてすぐ、恥ずかしくなって挟んだのを憶えております。それきり、七年、開いておりません。
十二名の欄には、名前まで書いてございました。父。姉。乳母。庭師のヨナス。厨房のグレタ。あとは母の縁者が七名。
このうち五名は、もう亡くなっております。
それでもわたくしは、十五のときに、十二名ぶんの席の図まで引いておりました。卓が一つきりですので、図というほどのものではございません。丸を十二、書いただけでございます。
丸の一つに、線が引いてございました。消したのでございましょう。
誰の丸だったかは、憶えておりません。
暖炉に火は入っておりました。わたくしはその紙を火のそばまで持ってまいりまして、それから、持って帰りました。旅装の鞄の、いちばん底でございます。明日の朝、南へ発つ馬車が出ます。国境を越えれば、カルヴァン公国。各国の政略の婚礼が、年に四百は組まれるという街でございます。その街には、誰の一日を作る人がいるのでしょう。
そして——わたくしの一日は、いったい誰が作るのでしょうか。
婚約を解消された令嬢が、七年ぶんの式次第を全部置いて出ていく話です。アデルは泣きません。代わりに、白薔薇が三百本足りません。
次回、南へ発つ馬車が出ます。国境の向こうで待っているのは、宴の卓ばかり睨んでいる、たいへん無愛想な男でございます。
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