第40話 六十八の花嫁
ヴィルマ様は六十八、ブルーノ様は七十二におなりでございます。
「四十年、いっしょにおりまして」
「はい」
「式を、挙げてないんです」
ヴィルマ様は、卓の上に手を置かれました。指の関節が太うございます。長く手を使ってこられた方の手でございます。
「挙げなかった理由を、伺ってもよろしゅうございますか」
「金が無かったんです。あのころ」
「はい」
「そのうちにと思ってるうちに、四十年」
ブルーノ様が、初めて口を開かれました。
「そのうち、が長かった」
それだけ仰って、また黙られました。それきり、ヴィルマ様の手のあたりをご覧になっております。
カルヴァン公国では、婚礼を挙げますと、聖堂の帳面に二人の名が並びます。並びますと、街の帳面にも並びます。二人が一つの家として数えられるのは、そこからでございます。
挙げませんと、並びません。
「わたしが先に死んだら」
ヴィルマ様は、そう仰いました。
「この人は、わたしの身内じゃないんです。家も、店の道具も、わたしの姪のところに行くんです。姪は、去年、一度も来ませんでしたけど」
「はい」
「この人は、四十年、毎朝、火を熾してくれてるんですけどね」
わたくしは、書き取りました。
——目的。帳面に、二人の名を並べること。
書き取りましてから、二度読み返しました。婚礼の目的の欄に、こう書きます仕事は、七年で初めてでございます。たいていの方は、ここに何もお書きになりません。書かなくても、みなご存じだからでございます。
「客は、何名お呼びになりますか」
ヴィルマ様が、ブルーノ様のほうをご覧になりました。ブルーノ様は、天井をご覧になりました。
「……呼べないんです」
「ご身内が」
「身内はいません。二人とも」
「ご友人は」
「いますけど。あの、六十八の花嫁ですよ。呼んだら、みんな困るでしょう」
ヴィルマ様は、そこで少し笑われました。笑い方が、慣れておられました。四十年、この話をするときに、この笑い方をしてこられたのだと思います。
「街の人は、たぶん笑います。もう笑ってると思います。うちの前を通るときに、みんな、ちょっと速く歩くんです」
「速く」
「見ないようにしてくれてるんです。親切なんですよ、みんな」
——親切というのは、ときどき、いちばん重うございます。
わたくしは、条を数えました。婚礼の日に守るものは、この街に二十二ございます。
その七つ目に、こうございます。
——婚礼の日、家の戸は閉ざすものとする。
「ヴィルマ様。この条は、なぜあるのでございましょう」
「そういうものだからでしょう」
「はい。理由は書いてございません」
二十二を最後まで読みましたが、戸を閉ざす理由はどこにもございませんでした。理由が書いてございませんものは、変えられません。ただ、閉ざす者の名も、書いてございませんでした。
◇
一点は、それでございました。
「戸を、開けます」
「……開ける」
「はい。婚礼の日、戸を開け放ちます。招待状はお出しになりません。お呼びにもなりません。ただ、開けておきます」
ヴィルマ様は、しばらく何も仰いませんでした。
「それ、みんな入ってきちゃいますよ」
「はい」
「困ります」
「困りましたら、閉めます」
ヴィルマ様が、目を丸くされました。
「閉めていいんですか」
「戸でございますので」
ブルーノ様が、初めて笑われました。笑われますと、目のあたりが深うございました。
「四十年、あの戸は開けっぱなしだった」
「さようでございますか」
「店だったからな。閉めたのは、去年、店をたたんでからだ」
ヴィルマ様が、ブルーノ様のほうをご覧になりました。
「閉めたら、誰も来なくなったのよ」
「そりゃ、店じゃないからだろう」
「そうだけど」
わたくしは、書き取りました。
——戸。四十年開き、一年閉じている。
◇
式は、聖堂で四半刻。二人だけでございます。誓いは、二人とも間違えられました。読み上げる方が二度、言い直させておられました。三度目に、ブルーノ様が「言い直させんでくれ」と仰いまして、そこで通りました。
帳面に、二つの名が並びました。ヴィルマ、ブルーノ。四十年ぶんの、二行でございます。
それから、家へ戻られました。
戸は、朝から開けてございました。
わたくしは、通りの向かいに立って数えておりました。ニナが横で、指を折っております。
最初に入ってこられたのは、隣の桶屋のご主人でございました。手ぶらでございます。入ってきて、卓の上のものを見て、「なんだこれは」と仰いました。ヴィルマ様が「婚礼です」と仰いました。桶屋のご主人は、いったん外へ出て、半刻して樽を一つ担いで戻ってこられました。
二人目は、坂の上の八百屋のご主人。
三人目と四人目は、通りかかった行商の方でございます。ご存じない方でございました。開いている戸から中を覗いて、卓に人が座っておりますのを見て、そのまま入ってこられました。この街では、開いた戸は入ってよい戸でございます。
五人目は、坂の下の靴屋のご主人。六人目と七人目は、そのお子さん。八人目は、名を伺いそびれました。
ヴィルマ様は、入ってこられる方に、一人ずつ同じことを仰いました。婚礼です、と。八人目までは、こちらにも聞こえておりました。
「十一」
ニナが申しました。
「二十四」
昼を過ぎまして、
「五十二」
夕方になりまして、
「……もう数えらんない」
ニナは、指を全部折ってしまってから、こちらを見ました。
「あんた、これ分かってた?」
「分かっておりません」
「うそ」
「戸を開けますと、何人入るかは分かりません。分かりますのは、閉めておりますと零だということだけでございます」
ヴィルマ様は、日が落ちても戸をお閉めになりませんでした。
通りの向かいに、いつのまにかマイセ様が立っておられました。
「これ、あんたの仕事?」
「はい」
「いくら取るの」
「一点でございますので、銀貨五枚でございます」
「戸を開けただけで五枚」
「戸を開けただけで五枚でございます」
マイセ様は、腕を組んで家のほうをご覧になっておりました。中では、桶屋のご主人が樽を叩いて拍子を取っておられます。誰も上手ではございません。
「……あたしはね」
「はい」
「四十年前、この街に宴方が三十人いた。いまは十九人。減った十一人は、みんな腕が悪かったわけじゃない。安く受けて、続かなくなった」
「はい」
「あんたのやってることは正しい。正しいから、真似する奴が出る。真似した奴は、あんたほど数えられないから、潰れる」
マイセ様は、そこで初めてこちらをご覧になりました。
「十九条は、取り下げないよ」
「はい」
「でも、今日のは、いい仕事だった」
そう仰って、坂を上がっていかれました。上がりながら、一度だけ戸のほうを振り返っておられました。
◇
翌日、公宮の記録の間へ呼ばれました。
ラウフ様は、綴りを三冊、机の上に並べておられました。三冊とも、背の年号が違います。
「ヴェルスハイム殿。昨日、街の帳面に二行増えましたな」
「はい」
「四十年、その二人は帳面のどこにもございませんでした」
「はい」
「帳面にございませんものは、この国では、無かったことになります。四十年ぶんの朝も、火も、全部でございます」
ラウフ様は、いちばん上の綴りをお開きになりました。
わたくしの受任の書面の、写しでございます。
「では、伺います。家名の欄が空いたままのあなたが記した条は、四十年後に、どこに残っておりますかな」
戸を閉じるのが決まりでございました。なぜ閉じるのかは、どこにも書いてございませんでした。書いていない決まりは、たいてい、誰かが困ったときにだけ意味を持ちます。あの日、困っておられたのは、戸の内側の二人ではございませんでした。
次回、記録の話でございます。帳面に無いものは、この国では無かったことになる——そう仰る方に、こちらから一つだけ、お尋ねすることがございます。




