第41話 記録に残らない者
「残りませんでしたら、残らなかったと書きます」
ラウフ様は、綴りから目を上げられました。
「……なんと」
「わたくしの記した条が四十年後に残っておりませんでしたら、残らなかったということを、どこかに書きます。書きますのは、たぶんわたくしではございません。書ける方が書きます」
「それは、答えになっておりませんな」
「はい。ご質問が、答えの無いものでございましたので」
ラウフ様は眼鏡をお外しになりました。外して袖で拭いて、またお掛けになりました。この方は間を作りたいときに眼鏡をお外しになります。拭いておられるあいだは、こちらの顔が見えておりません。見えておりませんので、何を考えておられるかも分かりません。
「話を戻します。家名の欄でございます」
「はい」
「お書きになればよろしい。ヴェルスハイム、と六字でございます」
「書きません」
「なぜ」
「あの日、ございませんと申し上げました。申し上げまして、空欄のまま印を押しました。いま書き足しますと、あの日の書面が嘘になります」
ラウフ様は、しばらくこちらをご覧になっておりました。
「……嘘」
「はい」
「たかが欄一つでございましょう」
「欄一つでございます。ですので、埋めても埋めなくても、たいしたことはございません。たいしたことがございませんので、嘘だけが残ります」
ラウフ様が指で机の縁を一度叩かれました。
「あなたは、あの家名を捨てられたのでしょう」
「捨てておりません」
「では」
「置いてまいりました。捨てましたのなら、無いと申し上げます。置いてまいりましたので、ございませんと申し上げております」
「……同じでございましょう」
「違います。置いてまいりましたものは、どこにあるかが分かっております」
「どこに」
「王都の屋敷の、東向きの棚でございます。控え帳を十四冊、背を東に向けて置いてまいりました。家名は、その十四冊の背に入っております」
ラウフ様は、しばらくこちらをご覧になっておりました。
「……並びまで憶えておいでか」
「置いてまいりましたので」
◇
記録の間は、静こうございます。
壁の三面が綴りでございます。背表紙に年号が入っておりまして、上から下へ古くなってまいります。手の届く高さの段は、背が擦れて年号が読めません。いちばん下の段は埃が積もっておりました。
「ラウフ様。書式の条を、拝見してもよろしゅうございますか」
「どうぞ」
公宮の書式は、四十七条ございました。
受任の書面について書いてございますのは、第十二条でございます。
——受任の書面は、名、職掌、年月日、印を要す。附記の欄は、これある者に限り記す。
「附記の欄、とございます」
「さようでございます」
「家名は、附記でございますか」
ラウフ様の指が、条の上で止まりました。止まりましたまま、少し長うございました。
「……家名の欄は、附記の欄でございます」
「これある者に限り記す、と書いてございます」
「はい」
「わたくしには、ございません」
ラウフ様は綴りをお閉じになりました。閉じてから、しばらく手を置いておられました。
「ヴェルスハイム殿」
「アデルでございます」
「……アデル殿。あなたのお読みになる速さは、少々、腹が立ちますな」
「申し訳ございません」
「褒めております」
◇
「不備は、ございませんでした」
ラウフ様は、そう仰いました。
「ただし、不備が無いことと、記録に残ることは、別でございます」
「はい」
「公宮の記録に他所の生まれの者が入りますのは、四十年ぶりでございます。四十年ぶりというのは、前例がほとんど無いということでございます。前例の無いものは、後の者が扱いかねます。扱いかねますと、綴りの端に寄せられ、そのうち、別の箱に移されます」
「別の箱」
「参考、という札の付いた箱でございます」
「その札は、どなたがお貼りになりますか」
「後の者でございます。扱いかねた者が貼ります」
「では、貼った者の名は」
「札には書きません。書く欄がございませんので」
——欄の無いところに、人は名を残しません。
わたくしは、書き取りました。——参考の箱。
「その箱は、どこにございますか」
「記録の間の、いちばん下の段でございます」
「拝見しても」
「なりません」
ラウフ様はそう仰ってから、少し間をお置きになりました。
「……いまは、なりません」
いまは、と仰いました。いまは、と仰る方は、いつかは、と考えておられます。
それから、伺いました。
「ラウフ様。四十年ぶり、と仰いました」
「申しました」
「四十年前に、お一人おられたのでございますね」
記録の間が、静かになりました。
ラウフ様は、動かれませんでした。指も、眼鏡も、綴りも。窓の外で荷車が一つ通りましたが、それも動かれませんでした。
「……先例はございません」
「先例が無いのでしたら、四十年ぶりとは仰いません。何年ぶりでもなく、初めて、と仰います」
「言葉のあやでございます」
「はい」
わたくしは、頭を下げました。
「では、言葉のあやを、控えておきます」
帳面を開きまして、日付と、伺った刻と、仰った言葉をそのまま書きました。
「……何を書いておられる」
「いま伺いましたことを」
「私は、何も申しておりません」
「はい。何も仰らなかった、と書いております」
ラウフ様は、しばらく綴りの背をご覧になっておりました。
「アデル殿。それは、意地の悪い書き方でございますな」
「意地は悪うございません。ただ、正確でございます」
「……正確なものは、たいてい意地が悪い」
その日、記録の間を出ますまでに、ラウフ様は三度、いちばん下の段のほうをご覧になりました。三度とも、こちらが目を向けますと、綴りへ戻られました。
◇
坂を下りますと、ニナが宿の階段に座っておりました。筒を膝に抱えております。
この五日、この子は筒を肩から降ろしておりません。降ろすのは寝るときだけで、寝るときは枕元でございます。
「ニナさん」
「ん」
「今月の分でございます」
わたくしは、銀貨を三枚、卓に置きました。
ニナは、卓を見ませんでした。
「いらない」
「今月で四度目でございます」
「いらないってば」
「理由を、伺ってもよろしゅうございますか」
「理由なんかないよ」
ニナは立ち上がりました。立ち上がるときに筒の底が階段に当たりました。硬い音でございます。この音は、これで七度目でございました。数えておりましたのは、音が毎回同じだからでございます。中身が動いておりません。動かないほど小さいものが、底に貼りついております。
「あんたさ、人のことばっかり数えるよね」
「はい」
「あたしのことは数えなくていいから」
「数えております」
ニナが、階段の途中で止まりました。
「なんで」
「仕事をなさいましたので。今月、式次第の写しが十九枚。卓の数えが四組。花嫁付きの控えが六日」
「そういうこと聞いてない」
「はい」
「……そういうことじゃないんだって」
ニナは、そのまま二階へ上がっていきました。上がる足音が、途中で一度止まりました。止まってから、また上がりました。
卓の上に、銀貨が三枚残りました。
わたくしは、それを帳面のあいだに挟みました。挟んで日付を書きました。
——四度目。受け取られず。
書きましてから、その下に一行、足しました。
——受け取られぬ理由は、まだ伺えておりません。
記録というのは、あるかないかの話でございます。ただ、無いということも、書けば記録になります。四十年ぶり、と口が滑った方がおられましたので、それも一行、控えておきました。
次回、章の終わりでございます。ニナが五日、筒を降ろしません。あの筒の底に何が入っているのかを、そろそろ伺わねばなりません。




