第37話 商会の心得、第十九条
第十九条は、五日で街に行き渡りました。
条というものは、貼っただけでは効きません。効きますのは、誰かがそれを使って人を止めたときでございます。止められた話が三度うわさになりますと、あとは貼らずとも効きます。
最初に止められましたのは、機屋のお嬢さんの式でございました。
打ち合わせは、機屋の帳場で行われました。
卓の上座に家長の方。その隣に、番頭の方。花嫁になられるお嬢さんは、末の席でございます。わたくしは、卓には着きません。壁際に、覚書を持って立っております。花嫁付きの宴方が立つのは、そこでございます。
帳場には、織り上がった反物が壁沿いに立ててございました。数えますと、二十六本。上座から見えますのが十九本、末の席から見えますのが七本でございます。
「花は、白のみといたします」
「はい」
「膳は二十。鐘は式の初めに二つ」
「はい」
「以上」
お嬢さんが、口を開かれました。
「あの」
「なんだ」
「祖母を、上座の隣に」
「席次は決まっている」
お嬢さんは、それきり黙られました。
これまででしたら、わたくしはここで一言申し上げております。——お嬢様は、お祖母様を隣にとお望みでございます。そう申し上げますと、卓の上の話が一つ前へ進みます。進みませんと、末の席の声はそこで消えます。
番頭の方が、わたくしのほうをご覧になりました。
「宴方さん。何かありますか」
「ございません」
「……ございません?」
「はい。心得の十九条により、わたくしはお嬢様に代わって申し上げることができません」
帳場が、静かになりました。
番頭の方が、二度目にこちらをご覧になりました。二度目のときには、もう何も仰いませんでした。
沈黙というものは、卓の上で場所を取ります。
十を数えるあいだ、誰も何も仰いませんでした。二十を数えても同じでございます。番頭の方が二度、家長の方をご覧になりました。家長の方は、帳面をご覧になっておりました。帳面の同じ行を、たぶん三度お読みになっております。
三十を数えましたところで、家長の方が仰いました。
「……なんだ、言え」
末の席のほうへ、初めてお顔を向けられました。
「祖母を、上座の隣に」
「なぜだ」
「わたしが、祖母に育てられたので」
「そんなことは知っている」
「知っていて、なぜ席が末なのですか」
わたくしは、覚書に書き入れました。——席次。祖母。花嫁自身の申し出。日と刻を添えて。
席は、動きました。
帰りしなに、番頭の方が戸口までお送りくださいました。
「宴方さん。あんた、わざと黙ったね」
「心得を守っただけでございます」
「守ると、ああなるのか」
「守りますと、ああなります。誰かが黙りますと、誰かが喋りませんと話が進みませんので」
「あんた、それ、いつ覚えた」
「王都でございます。誰も代わりに喋ってくれませんでしたので、黙ってどうなるかを、七年見ておりました」
「どうなった」
「七年、誰も埋めませんでした」
番頭の方が、笑われました。笑ってよい話ではございませんでしたが、笑われましたので、こちらも構いません。
番頭の方は、しばらく顎を撫でておられました。
「……あれ、うちの旦那には言わんでおきますよ」
◇
三日のうちに、マイセ様が坂を下りてこられました。
今度は、泥を二度しか落とされませんでした。
「機屋の話、聞いた」
「はい」
「あんた、十九条を守ったんだって?」
「守りました」
「守って、花嫁に喋らせた」
「花嫁ご自身が仰いました。わたくしは何も申し上げておりません」
マイセ様は、椅子の背に腕をかけられました。
「……あたしが作った条で、あたしがやらせたかったことの逆が起きてる」
「さようでございますか」
「とぼけないで。あんた、条を読むのが速すぎる」
「読むだけでございます。書くのは、いつもどなたかでございます」
マイセ様は、水を一口お飲みになりました。
「あたしは、間違ったこと言ってないよ」
「はい」
「花嫁の代わりに宴方が喋る商いは、いつか宴方が花嫁を作り始める。あたしはそういう宴方を三人見た。三人とも、花嫁の望みを自分の望みだと思い込んで、勝手に式を変えた。片方は離縁になった」
「三人のうちのお一人は」
「あたしの姉」
マイセ様は、そこで一度、器の縁をご覧になりました。
「腕は、あんたよりよかったよ。花嫁の言いたいことが先に分かる人だった。分かりすぎて、聞かなくなった」
——この方は、見てきた方でございます。
「マイセ様。仰ることは正しゅうございます」
「じゃあなんで従わないの」
「従っております」
「看板を下ろせって言ってるの」
「そこだけが、従えません」
マイセ様は、立ち上がられました。
「あんた、いつか一人で潰れるよ」
「はい」
「はい、って」
「ありえます。ですので、書き残しております」
「何を」
「値と、受け取った相手と、日でございます。潰れましたときに、何が原因であったかが分かりますように」
マイセ様は、戸口で一度、こちらを振り返られました。
「……潰れる前提で帳面つけてる宴方、あたし初めて見た」
「先に書いておきませんと、潰れてからでは書けませんので」
「そういうとこだよ」
◇
機屋のお嬢さんの式は、五日後でございました。
祖母様は、上座の隣にお掛けでございました。耳が遠うございますので、誓いの言葉は聞こえておられません。聞こえておられませんが、お嬢さんが内陣にお立ちになりましたとき、袖で口元を押さえられました。
家長の方は、その様子を一度だけご覧になりました。ご覧になってから、何も仰いませんでした。何も仰らないというのは、この家では、たいへん長い返事でございます。
膳のあいだ、祖母様は一度も箸をお取りになりませんでした。お嬢さんが二度、皿を寄せられました。二度目に、ようやくお取りになりました。
その様子を、番頭の方が壁際からご覧になっておりました。ご覧になってから、こちらへ一度、目を向けられました。何か仰るのかと思いましたが、仰いませんでした。
式の翌日、銀貨五枚は、お嬢さんご本人の手から頂戴いたしました。家長の方が横で財布をお出しになりましたが、お嬢さんのほうが先でございました。
「これ、わたしが払うんですよね」
「花嫁ご本人の手から頂戴しております」
「……よかった」
その晩、クレムが食堂に来られました。宴の席ではございませんので、よく喋られます。
「機屋で黙ったらしいな」
「はい」
「警固の連中が笑ってた。宴方が石みたいに立ってたって」
「石でございました」
クレムは、椀を持ったまましばらく黙っておられました。
「あんた、代わりに喋られたことはあるか」
「ございません」
「一度も」
「一度もございません」
七年のあいだ、王都で、わたくしの言い分を誰かが代わりに申し上げたことはございません。申し上げる必要がなかったからでございます。わたくしの言い分は、いつも式次第に書いてございました。書いてございますものは、誰も読みませんでしたが、誰も反対もいたしませんでした。
「だろうな」
「なぜでございますか」
「代わりに喋られたことのねえ奴は、黙るのが上手い」
クレムは、椀を置かれました。
「上手いのは、いいことじゃねえぞ」
「なぜでございましょう」
「上手いと、誰も気づかん」
わたくしは、指を折ろうといたしまして、折るものが無いことに気づきました。数えるものが無いときは、何も出てまいりません。
◇
翌朝、港の鐘が鳴りました。
定期の船が入る鐘ではございません。三度続けて鳴るのは、船が入れない鐘でございます。
宿の戸口に、二十四におなりの方が立っておられました。式は明後日だそうでございます。
「花婿が、船の上なんです」
黙るというのは、何もしないことではございません。誰かが黙りますと、卓の上に穴が空きます。穴が空きますと、誰かが埋めなければなりません。埋めるのは、たいてい、いちばん埋めたい人でございます。
次回、花婿の来ない式でございます。海が凪ぐのを待つあいだ、待つということ自体を条にいたします。




