第36話 踏まれない一段
「二百七十四」
わたくしは、覚書を開いて読み上げました。
——輿は、上の門を出て、白き石を三十六段下るものとする。
ヴィオレッタ殿下は、窓のない部屋の椅子にお掛けでございます。膝の上に、印を十一つけた写しがございました。印は墨の濃いものと薄いものがございます。濃いほうが先に、薄いほうが後についたものでございましょう。迷いながらつけますと、墨が薄くなります。
「この条に、印がついておりました」
「はい」
「なぜ、この条でございましょう」
殿下は、しばらく黙っておられました。
「数が、合わないから」
——この方は、数えておられました。
「白い石の階段は、三十七段あります。子どものころ、庭から見ていて数えました。何度数えても三十七段でした。でも、この条には三十六と書いてあります」
「はい」
「間違いなんでしょうか」
「間違いではございません。数え直してまいりました。三十七段ございます」
「じゃあ、一段はどこへ行ったの」
わたくしは、覚書を閉じませんでした。閉じませんでしたのは、答えを持ち合わせていなかったからでございます。
その足で、式部方の間へ上がりました。
「二百七十四の条でございますが、三十六段と書いてございます。階段は三十七段でございます」
「いちばん下は、段ではございません」
「段では」
「地でございます。地面のことでございます。あれは、階段の下の縁でございまして、段には数えぬ習わしで」
「では、輿は三十六段目で止まりまして、そこから地へは」
「担ぎ手が、持ち上げたまま渡ります」
「渡る」
「はい。輿を傾けずに、そのまま。三代前の大公の御代からそうしております」
「三代のあいだ、その一段は」
「誰も踏んでおりません」
わたくしは、登ってまいりましたときのことを思い出しました。三十六段目までは、石の中央が浅く窪んでおります。人の足が三代ぶん通った跡でございます。最下段だけが、平らでございました。
わたくしは、書き入れました。——最下段、渡る。誰も踏まぬ。
「ハウザー様。その一段は、条のどこかに書いてございますか」
ハウザー様は、綴りを繰られました。かなり長く繰られました。繰りながら、指を三度、舐めておられます。三度目で、手が止まりました。
「……書いてございませんな」
「はい」
「書いてございません。段に数えぬものですから、書きようがございません」
「では、どなたもお決めになっていないのでございますね」
ハウザー様が、綴りから目を上げられました。この方は、頭のよい方でございます。頭のよい方は、こちらの言いたいことに先に着かれます。
「アデル殿」
「はい」
「あなたは、その一段のことを、公女殿下に申し上げるおつもりですな」
「もう、申し上げてございます」
◇
殿下は、その日のうちに階段へお出になりました。
女官の方が二人、慌てて外套をお持ちになりました。公女殿下が昼日中に外の階段へお出になるのは、条には無い行いだそうでございます。無い行いは、止める条もございません。
殿下は、上の門のところにお立ちになりました。
「ここから」
「はい」
「三十六」
殿下は、下りながら数えられました。声には出されません。唇だけが動いております。
女官のお二人は、三段うしろを付いてこられました。付いてこられながら、こちらを二度ご覧になりました。止めてよいかどうかを、こちらに伺っておられるのだと思います。止める条はございませんので、頭を下げるだけにいたしました。
三十六段目で、お止まりになりました。
足の下に、あと一段ございます。
「ここが、書いてない一段」
「はい」
「輿だと、ここで持ち上げられて、そのまま下まで運ばれるのですね」
「はい」
「……わたし、輿に乗っていたら、三十七段のどれも踏まないのですね」
殿下は、そこでお気づきになりました。気づかれた方の顔は、みなよく似ておられます。目が動かなくなり、少し下がります。
「一段も踏まないで、この階段を下りて、この国を出るのですね」
「はい」
風がございました。坂の下から上がってくる風でございます。港のにおいがいたします。殿下の外套の裾が、少し動きました。
「決めます」
「はい」
「三十六段目で輿を止めます。最後の一段は、自分の足で下ります」
わたくしは、覚書を開きました。
「条は、二百七十四のあとに置きます。二百七十四の次は二百七十五でございますので、番号は二百七十四の二といたします。書きようは、こうでございます。——輿は、上の門を出て、白き石を三十六段下るものとする。三十六段の後、花嫁は輿を降り、自らの足にて最下の一段を下るものとする」
「取り消されませんか」
殿下が、初めて、そういうことをお聞きになりました。
「二百七十四には触れておりません。輿は三十六段下ります。そのとおりでございます。触れておりませんものは、二百七十四を根拠に取り消せません」
「ほかの条を根拠にされたら」
「そのときは、根拠になった条の番号を控えます。控えましたら、次はそこを避けて書きます」
「避けて書ける条が、無くなったら」
「そのときは、無くなったと書きます」
殿下は、最下段をご覧になっておりました。白い石でございます。ほかの三十六段と、少し色が違います。踏まれておりませんので、擦れておりません。縁のところに、雨の垢だけが線になって残っております。
「アデル」
初めて、名でお呼びになりました。
「はい」
「二つ目です」
「二つ目でございます」
◇
書面は、その日のうちに式部方へ回しました。
三日後、綴りが戻ってまいりました。二百七十四の二は、消されておりませんでした。朱で、式部方の印が入っております。
ハウザー様が、書付を一枚くださいました。
「アデル殿。持ち場でございます」
「持ち場」
「花嫁付きの割り当てを、一つ作りました。——公女殿下御自ら定めたまう条の、書き取りと管理。以上」
「どなたが、お決めになりましたか」
「私でございます。割り当ての紙は式部方が書きます。式部方が書いたものは、式部方の朱で通ります」
「通らぬこともございましょう」
「ございます。通らぬときは、私の名で戻ってまいります」
書付は、たいへん短うございました。一行と、日付と、印。それだけでございます。
「条の数は、いくつまででございましょう」
「書いてございません」
ハウザー様は、そう仰ってから、初めて笑われました。笑われますと、目のあたりが、いつか誰かに似ておりました。どなたに似ているのかは、そのときは思い出せませんでした。
◇
坂を下りますと、聖堂の壁に紙が貼ってございました。
ニナが街の掲示から写してきた、あの条でございます。写しではございません。今度は、商会の朱印の入った正のほうでございます。
——宴方の心得、第十九条。宴方は、花嫁に代わりて語るべからず。
その下に、一行、足してございました。
——本条は、当商会に属さぬ宴方にも、これを求む。
ニナが、壁の前に立っておりました。筒を降ろして、足元に立てております。
「これ、あたしが写したやつと違う」
「一行、増えております」
「なんて」
「商会に入っていない宴方にも守らせる、という一行でございます」
「入ってない人に、守れって言えるの」
「言えます。求めておりますのは街だ、と書いてございますので」
ニナは、しばらく壁を見上げておりました。
「——で? 今日はいいことあった?」
「殿下が、二つ目をお決めになりました」
「ふうん」
ニナは筒を担ぎ直しました。
「じゃあ、勝ちのほうが多いじゃん。今日は」
書いていない一段の話でございました。誰も決めていない場所というのは、たいてい、数に入っていない場所にございます。数に入っておりませんので、誰も守ってもおりません。
次回、その第十九条が街で効きはじめます。宴方は花嫁に代わって語ってはならない——では、言い出せない花嫁の言い分は、どこへ行くのか、という話でございます。
ブックマークと評価をいただけましたなら、白い石の最下段——三代ぶり初めて踏まれる一段の、磨き代に充てさせていただきます。




