第35話 誓えない花嫁
インゲ様は、十九におなりでございます。
六つの年に熱を出されて、それから声が出なくなられたそうでございます。喉はご無事で、息も通っております。ただ、音になりません。
卓の向かいに、父上がお掛けでございました。手には、綴じていない紙の束をお持ちでございます。何度も持ち歩かれた束で、角がすべて丸うございました。
「わたしが、代わりに言います。それでいいはずなんです」
「はい」
「駄目だと言われまして」
父上は、書付をお出しになりました。婚礼の条の写しでございます。街の聖堂で使われるものでございます。
——花嫁は、問いに答えるものとする。答えは、花嫁自身のものとする。
「自身のもの、と書いてありますでしょう。だから代わりは駄目だと。じゃあどうすればいいのかと聞きましたら、聖堂の方が、それはお困りでしょうな、と」
インゲ様は、卓の下で指を組んでおられました。組んだ手の親指が、少しずつ動いております。数えておられるのだと思いました。何を数えておられるのかは、伺いませんでした。伺いますと、数が止まります。
ニナが、身を乗り出しました。
「じゃあ紙に書けばいいじゃん。書けるんでしょ」
インゲ様が頷かれました。
「書いたんだよね」
また頷かれました。父上が続けられます。
「書いて出しましたら、これは書面であって答えではない、と」
「なんでよ」
「答えは、その場で立つものだから、と仰るんです」
わたくしは、書付をお借りいたしました。借りますときに、インゲ様が卓の下から手をお出しになって、書付の端を一度、押さえられました。押さえてから、離されました。
条を、三度読みました。一度目は書いてあることを、二度目は書いていないことを、三度目は言葉の順を読みます。
——花嫁は、問いに答えるものとする。答えは、花嫁自身のものとする。
この条には、書いてございませんことが一つございます。
「インゲ様。この条には、声で答えよ、とは書いてございません」
インゲ様が、顔を上げられました。
「口から、とも、言葉で、とも書いてございません。書いてございますのは、花嫁自身のもの、ということだけでございます。ですので、他人が代わりに出したものは駄目でございます。紙を先に書いてお出しになるのも駄目でございます。書面は、その場で立ちませんので」
父上が、身を乗り出されました。
「では、どうすれば」
「その場で、インゲ様ご自身がお出しになるものであれば、よろしいのでございます」
わたくしは、聖堂の見取り図を広げました。ニナが筒から出しました写しでございまして、柱の位置と、鐘の紐の垂れる場所まで書き込んでございます。
「聖堂の鐘は、低いのが二つ、高いのが三つ。婚礼では、式の初めに低いのを二つ、式の終わりに高いのを三つ鳴らします。鳴らすのは鐘番でございます」
「はい」
「高いほうの鐘の紐は、内陣の柱の裏に垂れております。柱の裏でございますので、外からは見えません。手が届く高さでございます」
インゲ様が、まばたきをなさいました。
「問いは二つでございます。この方を夫といたしますか。生涯、共にありますか。お答えが『はい』でしたら、高い鐘を一つ。二度目の問いのお答えが『はい』でしたら、もう一つ」
「……鐘を、この子が」
「はい。ご自分の手で紐を引かれます。その場で立ちまして、インゲ様ご自身のものでございます」
父上が、口を開けたまま何も仰いませんでした。
インゲ様は、卓の下から手をお出しになりました。右の手のひらを、二度、卓の上で開かれました。二度でございます。二つの問いに、二つの鐘、という意味だと分かりました。
「はい。二つでございます」
◇
鐘番の方には、その日のうちにお話ししてまいりました。
聖堂の裏手の、鐘楼の下の小屋におられます。小屋の壁に、縄の切れ端が年ごとに掛けてございました。掛かっておりますのが四十本ほどでございます。
「高いほうを、花嫁が引く」
「はい」
「あれ、重いですよ」
「重うございますか」
「重い。慣れてないと、体ごと持っていかれる」
鐘番の方は、四十年、この聖堂の鐘をお引きになっておられます。
「一度、引いてみていただけますか。インゲ様に」
「引かせるんですか。式の前に」
「はい。当日、初めて引かれますと、鳴らない恐れがございます」
鐘番の方は、しばらく黙っておられました。壁の縄の切れ端を、端から端まで目でお追いになっております。
「……鳴らなかったら、どうなるんです」
「お答えが、無かったことになります」
「そりゃ、いかん」
その方は、翌朝、紐をお貸しくださいました。
三度、引かれました。一度目は鳴りませんでした。紐が下りきる前に手が離れております。二度目は小さく、屋根の内側で止まりました。三度目でようやく屋根まで抜けました。
鐘番の方は、三度目のあとで初めて口を開かれました。
「引くんじゃない。ぶら下がるんです。体の重さのぶんだけ鳴る」
インゲ様は、頷かれました。それから、四度目をお引きになりました。四度目は、三度目より長う鳴りました。
◇
式は、四日後でございました。
聖堂の中は、四十人ほどでございます。低い鐘が二つ鳴りまして、式が始まりました。
問いが読み上げられます。聖堂の方が、一度こちらをご覧になりました。わたくしは、内陣の外の壁際に立っております。花嫁付きの宴方が立ってよい場所は、そこまででございます。
インゲ様は、内陣の中でお立ちになりました。柱の裏へ二歩。手を伸ばされました。
高い鐘が、一つ鳴りました。
鐘の音は、思っておりましたより長うございました。低い鐘は建物に沈みますが、高い鐘は屋根の上へ抜けます。抜けますので、外の通りまで届きます。通りを歩いておりました方が、何人か足を止められたのが窓から見えました。
二つ目の問いが読み上げられました。
もう一つ、鳴りました。
インゲ様は、紐を離してから、両手で耳を押さえられました。ご自分の鳴らした音が大きかったのだと思います。ご自分の出した音を、初めてお聞きになったのでございましょう。
父上は、席で泣いておられました。声を上げて泣いておられましたので、鐘のほうがよく聞こえました。
◇
式の翌日、インゲ様が銀貨五枚をお持ちくださいました。ご自分の手からでございます。
その帰り道で、ニナが石を蹴りながら申しました。
「あんたさ、鐘鳴らしてって言っただけだよね」
「はい」
「代わりに喋ってないよね」
「喋っておりません」
「よかったね」
「なぜでございますか」
ニナが、懐から折り畳んだ紙を出しました。街の掲示から写してきたものでございます。字はきれいではございません。書き写した字でございます。
——宴方の心得、第十九条。宴方は、花嫁に代わりて語るべからず。
「昨日、商会の前に貼ってあった。あたし、字は読めないけど、形は写せるから。宿のおじさんに読んでもらった」
わたくしは、その紙を二度読みました。
語るべからず。代わりて。——よく書けた条でございます。短く、正しく、断りようがございません。花嫁の口を宴方が奪うな、という意味に読めます。誰も反対いたしません。
実際には、口の利けない花嫁から宴方を取り上げる条でございます。
「ねえ。これ、あんたのために作った条だよね」
「そう読めます」
「読めますって、あんたそればっかり」
ニナが石をもう一つ蹴りました。
「——で? どうすんの」
「守ります」
「は」
「守ります。破りますと、破った話になりますので」
「破った話って」
「明日から、街の噂が『心得を破った宴方』になります。花嫁の話ではなくなります。花嫁の話でなくなりますと、こちらの負けでございます」
ニナは、蹴った石を目で追っておりました。石は、坂の下まで転がっていきました。転がる音が、途中で二度、止まりました。石畳の目に挟まって、また出たのでございます。
「あんた、負けるの嫌いだね」
「勝ち負けの話ではございません」
「そう言うときが、いちばん嫌そうだよ」
宿の戸口に、公宮の使いの方が立っておられました。
「アデル殿。明日、お上がりください。公女殿下が、二つ目をお決めになりたいと」
条を読むときに気をつけておりますのは、書いてあることより、書いていないことでございます。この回の条には、声で答えよ、とは書いてございませんでした。
次回、公女殿下の二つ目でございます。白い石の階段は三十七段。輿が使いますのは三十六段。使われない一段が、どこかに一つございます。




