第33話 元締めが替わりました
その方は、坂を下りてこられました。
馬車ではございません。供もございません。歩いて下りてこられて、宿の戸口で草履の泥を三度落としてから入ってこられました。三度で落ちる泥ではございません。落としているのは泥ではなく、たぶん間でございます。
「アデルさんね」
「はい」
「マイセ。宴商会の元締め」
「先月替わられたと伺っておりましたが」
「その先月のが、先週で終わったの。あたしで二人目。座っていい」
お座りになりました。伺う前でございます。座られてから、卓の下の足の位置を一度直されました。すぐ立てる座り方でございます。
「あんたの値づけ、銀貨五枚だってね」
「一点につき、銀貨五枚でございます」
「安すぎる」
「はい」
「……はい?」
「安うございます。仰るとおりでございます」
マイセ様は、水の器に手をかけたまま止まられました。
「否定しないの」
「値の話は、数の話でございますので」
「じゃあ数で言う。うちの宴方は、婚礼ひと組で銀貨二十枚もらう。あんたは一点五枚。三点変えたって十五枚。おまけに」
マイセ様は、指を折られました。折り方が速うございます。
「宿の娘、ただ。喪中の家、菓子の箱。代理の式、なし。看板を出してからこっち、あんたが受けたのが三十四組。うち八組が銀貨ゼロ。三十四分の八」
「よくお調べでございます」
「調べるのが仕事だからね。——で、街の人はこう言い出す。あそこは安い、と。そのうちこう言い出す。あそこはただでやってくれる、と。最後にこう言い出す。宴方なんて、その程度の仕事だ、と」
マイセ様は、折った指を開いて、卓の上に置かれました。
「あんたが値切られてるんじゃないの。街の宴方が三十人、まとめて値切られてるの。あんたは自分の腹を痛めてるつもりでしょうけど、痛んでるのは他人の腹」
階段の途中で、ニナが足を止めました。筒を肩に担いだままでございます。
——この方は、正しいことを仰います。
わたくしは、帳面を開きました。
「三十四組のうち八組は、銀貨をいただいておりません。ただし、そのうち六組は、後の縁で銀貨をお持ちくださいました。残る二組は、まだでございます」
「後の縁」
「はい。婚礼は一度きりでございますが、家は続きます。姉が済めば妹がおられますし、娘が済めば孫がおられます。銀貨は、後からでも参ります」
マイセ様は、しばらく黙っておられました。黙っておられるあいだに、帳面の行を目で数えておられます。上から下まで、二度。
「……あんた、それも数えてんの」
「書いてございます」
マイセ様は、器の水を四半分ほどお飲みになりました。飲み方が速うございます。この方は、飲むことにも、用が済んだら止める癖がおありでございました。
「本題」
器が、卓に戻りました。
「公女さまの式。宴方は五名。うち三名がうちの推挙で、あんたは公宮の推挙。あたしはあんたを降ろす気はない」
「さようでございますか」
「降ろすより、入れたほうが早いから。商会にお入りなさい。値はうちの表に合わせてもらう。仕事の割り振りもうちを通してもらう。そのかわり、公宮での立場はうちが持つ」
「ありがたいお話でございます」
「条件は一つ。看板の『花嫁専門』を下ろすこと」
水の器が、卓の上で少しだけ動きました。ニナが階段を三段下りてきた音でございます。
「なぜでございましょう」
「花嫁の側にしかつかない、ってのは、片っぽの側につくってことでしょ。婚礼は二軒の話。うちは両方から金をもらう。片方だけの味方をする宴方を、うちの名前で出すわけにいかない」
「はい」
「分かった?」
「分かりましてございます。ただ、お断りいたします」
「理由は」
「わたくしの値は、式の翌日、花嫁ご本人の手からいただいております。ご家族からも、貸主からも、商会からも、いただきません。商会の表に合わせますと、いただく相手が変わります。相手が変わりますと、誰の側についているかが変わります」
「たかが金の出どころでしょ」
「金の出どころは、仕事の向きでございます」
マイセ様は、立ち上がられました。立ち上がるのも速うございます。足の位置を直しておかれたのは、このためでございました。
「じゃあ、心得を変える」
「心得」
「宴方の心得。商会の内規。十八条まである。十九条目を足すことにする」
マイセ様は、戸口で振り返られました。
「あんたを商会から追い出したりしないよ。そんな面倒なことしない。心得ってのは、商会に入ってない宴方にも街が求めるものだから。街が求めれば、それが決まりになる」
——この方は、決まりの作り方をご存じでございます。
戸口から出ていかれる背中を、ニナが階段の途中から見ておりました。泥は、外で落としてお帰りになりませんでした。
「あの人、あんたのこと嫌いなの」
「嫌いだから来られたのではないと存じます」
「じゃあなんで来たの」
「値を揃えにいらしたのでございます。揃えませんと、揃わない者が一人だけ残ります。残った一人は、そのうち標になります」
「標?」
「あそこは安い、と指をさされる先でございます」
ニナは、階段に腰を下ろしました。
「あんた、今日ちょっと分が悪かったよね」
「悪うございました」
「認めるんだ」
「数で来られましたので」
◇
その日の夕方、エミーリエ様という方が宿へこられました。二十六におなりでございます。
「三日後に式なんですけど、宴方さんが来なくなって」
「来なくなった」
「商会の割り振りが変わったって。うちより上の家の式に回ったって言われて」
エミーリエ様は、式次第の綴りをお持ちでございました。他所の宴方が組まれた綴りでございます。表紙の紐は、まだ新しゅうございました。
「三日でどうにかなりますか」
わたくしは、二十七枚を先に数えました。花の数。膳の数。客の数。鐘の順。どれも過不足がございません。組まれた方は、腕の悪い方ではございません。ただ、最後の三枚が白紙でございました。当日の段取りの三枚でございます。二十七枚まで来て、そこで手を離されたのでございます。
「よく組んでございます」
「でも、途中で放り出されました」
「途中まで組んだ方の名は、ここに残ります。放り出したことも、同じ紙に残ります」
「……残るんですか」
「残ります。式次第は、そういう紙でございます」
エミーリエ様は、綴りの最後の三枚をお開きになりました。三枚とも、罫だけが引いてございます。
「三枚でございます」
「三枚」
「はい。この綴りは、二十七枚が埋まっております。埋まっていないのは三枚。三日ございますので、一日一枚でございます」
エミーリエ様は、その言い方で少し笑われました。笑われましたので、こちらも仕事がしやすうございます。
一点は、鐘の前でお決めになりました。式の朝、母上に髪を結っていただく——それだけでございます。当日の段取りの三枚のうち、一枚目に書き入れました。
「これ、決まりに書いていいんですか」
「書きますと、決まりになります」
「母、たぶん泣きますけど」
「泣かれる条は、書いてございません」
エミーリエ様は、そこでもう一度笑われました。
「祝宴師さんって、そういう返しばっかりなんですね」
「そのようでございます」
残りの二枚は、翌日と翌々日に埋まりました。二枚目は膳の運びの順、三枚目は退場の刻でございます。どちらも、他所の宴方が組まれた二十七枚と噛み合いました。
噛み合いましたので、書き足したことの分からない綴りになりました。分からないほうが、よい仕事でございます。
◇
夜、ニナが筒を枕元に置いて寝ておりました。
筒は巻紙を入れるものでございます。中身を出しますと、軽うございます。この子は毎晩、中身を出してから筒だけを枕元に置きます。中身の無い筒でございますのに、置くときに一度、底を上に向けて振ります。振ってから置きます。
軽い筒でございます。ただ、振りますと、中で紙の擦れる音がいたします。
わたくしは、灯を消しました。
値の話をいたしました。値は、いくら受け取るかの話に見えて、誰から受け取るかの話でございます。誰から受け取るかは、誰の側につくかの話でございます。
次回、森の国から使節が到着いたします。ご挨拶のあとで、わが国の慣いを三十二ほど加えたい、と仰るそうでございます。
ブックマークと評価をいただけましたなら、値づけの銀貨——三十四分の八のほう——に充てさせていただきます。




