第29話 もう一度、作ってくれないか
その方は、朝の食堂に、客としていらっしゃいました。供の方は二人とも外でございます。旗はございません。外套は灰。坂を登ってこられたのに、息が上がっておられません。歩き慣れていらっしゃいます。七年、庭を歩き回っておられましたので。わたくしは、器に水を注いで、卓に置きました。
「おはようございます」
「……ああ」
セドリック殿下は、器に手をお触れになりませんでした。
「宿の看板を、見た」
「はい」
「花嫁専門と書いてあった」
「はい」
「あれは、断りの看板だな」
わたくしは、戸口の外の看板のほうを見ました。読めるお方でございます。読むのがお遅いだけで。
◇
「儀典長が、職を解かれた」
「伺っております」
「布告も剥がした。私が剥がさせた。後には、何も貼っていない」
「はい」
「……お前が、やったのか」
「いいえ」
「王城の書記が言っていた。あの控えは、読めば分かるように綴じてあったと。三日で読めたそうだ」
「わたくしが読むために綴じたものでございます」
「では、誰がやったのだ」
「帳面でございます」
殿下は、何か仰りかけて、おやめになりました。この方は七年、よくそうなさいました。
「アデライド」
「アデルでございます」
「……アデル」
殿下は、卓の上に紙を一枚置かれました。折り目が四つございます。四つに畳んで、懐で長く持ち歩かれたものでございましょう。角が丸くなっております。
「これは」
「式次第だ」
わたくしは、開きました。二行ございました。
一行目に、花、と。その下に、白、と。二行目に、客、と。その下は、空でございます。それきりでございました。あとは白紙が、下まで続いております。
「ミレーユが書いた」
「はい」
「三月かかって、二行だ」
殿下は、器のほうをご覧になりました。手はお触れになりません。
「王城の誰も、書かなかった。命じなかったわけではない。命じた。儀典に命じ、女官長に命じ、宰相にも申し送った。皆、承知いたしましたと言った」
「はい」
「誰も、書かなかった」
殿下は、指で卓の縁をなぞられました。
「あれは、白の間に一人で座って書いていた。三月のあいだ、毎日だ。私が入っていくと、紙を伏せる。見るなと言う。恥ずかしいのだと思っていた」
「はい」
「先週、伏せてある紙を見た。二行だった」
「はい」
「あれは、真実の愛があれば式などどうにでもなると言った。私も、そう思っていた。……どうにも、ならんな」
わたくしは、二行の紙を卓に戻しました。
「殿下」
「なんだ」
「命じますと、承知いたしますと返ってまいります。返ってまいりますが、書けと命じられたのが誰であるかは、命じたほうにしか分かりません」
「……お前は、七年、命じられていたのか」
「いいえ」
わたくしは、器の位置を少し直しました。指の先が、水に触れました。
「命じられたことは、一度もございません」
殿下が、こちらをご覧になりました。
「わたくしが最初に式次第を書きましたのは、十六の年でございます。婚約が調いました翌年、大聖堂の鐘の順が変わりまして、行列の半分が鐘の下を通りました。あのとき、誰かが書いておけばよかった、と皆が申しました。それから、書くようになりました」
「命じられずにか」
「はい」
「なぜだ」
「他に、書ける者がおりませんでしたので」
殿下は、しばらく黙っておられました。それから、器を一度だけ持ち上げて、卓に戻されました。飲まれませんでした。
「もう一度、作ってくれないか」
外で、鐘が鳴りました。低いのが二つ、高いのが三つ。この街の方は、鐘で足を止めません。殿下は、少しだけ首を動かされました。
「日取りは、こちらで合わせる。人も金も、好きに使ってよい。名は出さなくてもいい。お前がやったと知られないようにする。それが望みなら」
「殿下」
「王家として頼んでいるのではない。私が、頼んでいる」
「はい」
「……七年、すまなかった」
わたくしは、手を前で重ねました。この方は七年、一度も礼を仰いませんでした。仰らなかったことに気づいておられなかったのだと、いまも思います。気づいたのは、誰も動かなくなってからでございましょう。それでも、仰いました。
「お受けいたしかねます」
殿下の手が、器の縁で止まりました。
「……理由を聞かせてくれ」
「お代のことでございます」
「金か。いくらでも出す」
「一点につき、銀貨五枚でございます」
殿下が、こちらをご覧になりました。安いと思われたのでございましょう。皆さま、最初はそのお顔をなさいます。
「それだけか」
「いいえ。もう一つ、決めてございます」
わたくしは、盆を卓の端に寄せました。
「お代は式の翌日、花嫁ご本人の手からいただきます。ご家族からも、貸主からも、商会からもいただきません」
「……翌日」
「はい。前日でも当日でもございません」
殿下は、しばらく考えておられました。この方は、考えるのがお遅いのではございません。考え始めるのがお遅いだけでございます。
「では、ミレーユに払わせればよかろう」
「ミレーユ様がわたくしをお呼びになったのでしたら、そういたします」
殿下の指が、卓の縁で止まりました。
「先ほど、王家として頼んでいるのではない、と仰いました」
「言った」
「私が頼んでいる、と」
「……言った」
「では、お呼びになったのは花嫁ではございません」
わたくしは、卓から一歩、下がりました。立ち位置が変わりますと、声も変わります。
「殿下は、わたくしの客になれません。お断りしているのではございません。そのように決めましたのが、わたくしでございますので」
「ミレーユのためだと言えば、受けるのか」
「その紙は、ミレーユ様がお書きになったものでございます」
「そうだ」
「二行でお止まりになったのは、書けないからではございません」
わたくしは、二行の紙をもう一度、殿下のほうへ向けました。
「客の欄でございます。ミレーユ様は、どなたのお名前をお書きになればよろしいか、ご存じないのだと存じます」
「……男爵家の縁者は、王家の式には」
「入れません。決まりでございます」
「では、書けないではないか」
「はい。ですから、そこで止まっておられます」
殿下は、二行の紙をご覧になりました。ずいぶん長くご覧になりました。わたくしは、その間に、器の水を替えました。
◇
殿下は、二行の紙を四つに畳まれました。折り目のとおりに畳まれましたので、角が同じところで丸くなりました。
「……どうすればいい」
「存じません」
「お前が知らないのか」
「はい」
わたくしは、器を二つ、盆に載せました。
「ただ、この三月、ミレーユ様に何がしたいかをお尋ねになった方が、お一人もおられません。わたくしも、その一人でございます」
殿下が顔を上げられました。
「お前が尋ねる筋合いはなかろう」
「ございません。ですから、申し上げているだけでございます」
殿下は、畳んだ紙を懐へお戻しになりました。
「それだけか」
「はい」
「頼んでも、駄目か」
わたくしは、頭を下げました。
「真実の愛と結婚なさるのでしたら、王太子殿下の結婚式は、ご自分でどうぞ」
◇
殿下がお立ちになりました。戸口のところで、一度、振り返られました。
「アデル」
「はい」
「あの巻紙は、六十一枚目から読んだ」
「三案の図案でございます」
「……どれで通したのかが、書いていなかった」
「わたくしが通すものではございませんでしたので」
それきり、何も仰いませんでした。外へ出ていかれます。供の方が二人、坂を下りていかれました。灰の外套が石の道に紛れて、途中から見分けがつかなくなりました。
卓の上には、器が一つ残っております。飲まれませんでした。わたくしは、それを片づけました。鞄の底に、紙が一枚ございます。十五のわたくしが書いたものでございます。あちらは、二行では止まっておりません。最後まで書いて、それきり七年、開いておりません。
ニナが戸口から顔を出しました。
「あのさ。公宮の人、坂の下で待ってる」
「はい」
「ずっと待ってたよ。あの人が出てくるまで、入っちゃいけないんだって」
「さようでございましょうね」
「明日までに返事をくれって。——で? どうすんの」
断りの根拠は、値でございました。第二十二話で決めた、あの値のとおりでございます。恨まれるのは承知の上、とクレムにも申し上げてございます。
次回、最終話。公宮への返事を、明日までに出さなければなりません。アデルご自身の式の決まりは、まだ一つもございません。




