第30話 わたくしの一日は、まだ先です
返事は、朝のうちに書きました。三行でございます。お受けいたします、と一行。ただし、と一行。条件を、一行。ニナが横から覗き込みました。
「短くない」
「長く書きますと、読む方が途中で決めてしまわれますので」
「なんて書いたの」
「読んでさしあげます。——公女殿下の御婚礼、花嫁付きの宴方の任、お受けいたします。ただし、御支度の間に控えるだけの職としてはお受けいたしかねます。式次第のうち一点を、公女殿下御自身がお決めになること。それをお認めいただけますなら、お受けいたします」
ニナは、しばらく黙っておりました。
「……それ、断られない」
「断られましたら、断られたと書いて帳面に残します」
「あんた、ほんとに帳面が好きだね」
好きではございません。ただ、残っているものは強うございます。
◇
三日後、公宮へ上がりました。
通されましたのは、前と同じ窓のない小部屋でございました。ヴィオレッタ殿下は、前と同じ椅子にお掛けでございます。ただ、今日は、手元に覚書がございました。式部方のハウザー様が、書付を読み上げられました。
「本件、公女殿下の御裁可により、条件を容れることとなりました。式次第のうち一点、公女殿下の御定めとする。ただし、両国の使節の合意を要する条は除く。当日の刻限に触れる条も除く。列の順に触れる条も除く」
「承知いたしました」
「除くものが、まだ二百七十ございますが」
「では、百十残っております」
ハウザー様が、書付から目を上げられました。
「……そういう数え方をなさるか」
「はい」
ヴィオレッタ殿下が、覚書をお開きになりました。三百八十の条を書き写したものでございます。ご自分でお写しになったのでございましょう。字が、途中から小さくなっております。
「一点だけ、決めていいのですね」
「はい」
「決めたら、変わるのですか」
「変わります」
「誰が変えるの」
「殿下がお決めになったものを、わたくしが式次第に書きます。書きましたら、それが決まりになります」
殿下は、覚書の一枚目をご覧になりました。一枚目の書き出しは、両国の国名と、大公家の名でございます。殿下のお名前が出てまいりますのは、四枚目でございます。
「ここ」
殿下が、一枚目の上の余白をお指しになりました。
「一枚目の、いちばん上。ここには何も書いてありません」
「はい。余白でございます」
「誰の余白なの」
「どなたのものでもございません。決まりに、余白の条はございませんので」
殿下は、しばらく、その白いところをご覧になっておりました。
「……わたしの名前を、ここに書きます」
「はい」
「大公家の名の、上に」
「はい」
ハウザー様が咳払いをなさいました。それ以上は、何も仰いませんでした。仰りようがございません。決まりに、無い条でございますので。殿下は、筆をお取りになりました。
ヴィオレッタ、と六字。それだけでございます。家名はお書きになりませんでした。書き終えて、殿下は筆を置かれました。それから、ご自分の書いた六字を、しばらくご覧になっておりました。
「……字が、下手ね」
「はい」
「そこは、違うと言うところではないの」
「わたくしは、花嫁の側にしかつきませんので、嘘は申し上げません」
殿下は、口の端を少しお動かしになりました。笑われたのだと思います。三度お目にかかりまして、初めてでございました。
「わたし、自分の名前を紙に書いたのは、これが二度目です」
「一度目は」
「輿入れの同意書です。書けと言われて、書きました」
「今日は」
「……書きたかったから、書きました」
わたくしは、頭を下げました。式は、まだ半年先でございます。決まりは三百八十ございまして、そのうち三百七十九は、どなたかがお決めになったものでございます。受任の書面には、わたくしも名を書きました。アデル、と三字でございます。ハウザー様が家名の欄をお示しになりましたので、ございませんと申し上げました。
空欄のまま、印を押しました。そのとき、母のことを少し思い出しました。母は、この国の生まれの宴方でございました。輿入れの後は一度も口にいたしませんでしたが、亡くなりましてから、書き上がっていない式次第が一枚出てまいりました。この書面と、同じ書式でございます。同じ幅の欄に、同じ位置の印がございました。
わたくしは、それだけ確かめて、筆を置きました。廊下へ出ますと、クレムが壁際に立っておりました。警固の下見でございます。
「卓の図を見たぞ」
「はい」
「大広間、二百四十席。あんたの図には二百四十一ある」
「はい」
「端に一つ、余ってる」
「はい」
「……誰の席だ」
「クレム様が、いつもお置きになる椅子でございます」
クレムは、廊下の窓の外をご覧になりました。坂の下に、港が見えます。
「俺は、下見のときに置くだけだ。当日は下げる」
「下げないでくださいませ」
「……理由は」
「図に書いてございますので」
◇
公宮を出ますとき、女官の方に呼び止められました。白い石の階段の途中でございます。上でも下でもない、途中でございました。
「アデル殿。大公妃陛下より、お言伝がございます」
「はい」
女官の方は、書付をお持ちではございませんでした。口で伝えよと申しつかったのでございましょう。書付になりますと、残りますので。
「——花嫁に、選ばせるな」
女官の方は、そのまま階段をお上りになりました。わたくしは、階段を下りました。白い石が三十七段ございます。数えましたのは、これで三度目でございます。三度とも、三十七段でございました。坂の途中で、王都からの最後の手紙を受け取りました。姉の字でございます。
——大聖堂の式は、先月、行われたそうでございます。客は四十名。花は、庭のものを切って使ったと聞きました。——ヴェルスハイム様、と書かれた文は、もう一通も参りません。あなたの名で参るものが何も無いというのは、いいことなのだろうと思います。
——姉より。
わたくしは、手紙を畳んで、鞄に入れました。鞄の底に、紙が一枚ございます。上に重ねますと、底の紙が見えなくなります。
◇
その晩、銀の梯子亭の食堂で、卓を並べ替えました。梁が八本ございまして、その下に卓を並べますと、十六人が座れます。座りましたのは、六人でございました。マルタと、その父上。ニナ。厨房の手伝いの方が二人。それから、クレム。祝いの席ではございません。ただの夕餉でございます。ですから、クレムも喋りました。
「王都は、片づいたのか」
「片づいたかどうかは、王都がお決めになることでございます」
「手紙は」
「参りません」
七年、王都から手紙の来ない日は、ほとんどございませんでした。花の本数、衣装の期日、席次の照会、鐘の順。届かない日は、こちらから出しておりました。
いまは、一通も参りません。
マルタが、皿を回しながら申しました。
「あたし、この店で十二歩測ったの、まだ憶えてる」
「はい」
「あれから、この街で式やった人、何人来た」
「三十一組でございます」
「……数えてんの」
「書いてございます」
「公女の式は、いつだ」
「まだ、決まっておりません。両国の使節が、これから半年ほど揉めるそうでございます」
「半年」
「半年でございます」
ニナが、鶏の骨を皿の縁に置きました。
「ねえ。あんたの式は、いつやるの」
卓が、少し静かになりました。マルタが、父上の袖を引きました。父上は何のことか分かっておられないご様子で、皿を回しておられます。
「ニナさん」
「だってさ。あんた、人の一日ばっかり作ってるじゃない。マルタのも、あたしが手伝ったのも、公女様のも。——で? 自分のは」
わたくしは、指を折りました。一本目。花。二本目。衣装。三本目。席次。四本目。順序。五本目、客名簿。五本折ったところで、やめました。数えるほどのものが、まだございません。
「わたくしの一日は、まだ先です」
「先って、いつ」
「決めておりません」
「じゃあ、それも余白じゃん」
ニナは、そう申しまして、鶏をもう一つ取りました。余白でございます。誰も決めておりません。決まりも、ございません。
わたくしは、卓の端を見ました。椅子が一つ、余っております。誰も座っておりません。この宿では、それは数え間違いではございません。クレムが、器を置きました。
「アデル」
「はい」
「で、お前の宴は、誰が作るんだ」
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。第一部「祝宴師編」は、これで完結です。
七年ぶん抱えていたものは、アデルが何もしないまま、記録のほうから決着いたしました。返しそびれた一枚だけが、まだ鞄の底に残っております。
公女ヴィオレッタの婚礼と、「花嫁に、選ばせるな」と仰った方が誰なのか。その先の筋書きは、もう手元にございます。応援をいただけましたなら、そのときは必ず、続きをお届けします。
ブックマークと評価は、アデルご自身の式次第の、一枚目の紙代に充てさせていただきます。




