第27話 儀典長の帳尻
朝のうちに、食堂の卓を全部端へ寄せました。残しましたのは一つだけでございます。
二人で使う卓に、椅子を二脚。祝いの席ではございませんので、花は活けません。水も出しません。
「なんで水も出さないの」
ニナが不服そうに申しました。
「長くなりますので」
「水があると長くなるの」
「はい。器が空きますと、注ぐ間が生まれます。間が生まれますと、話が延びます」
「……あんた、たまに怖いこと言うね」
クレムは壁際に立って、腕を組んでおりました。この方は宴の席では一言も喋りませんが、これは宴ではございませんので、遠慮なく喋られます。
「同席するぞ」
「ご迷惑ではございませんか」
「公国の宿で、他国の貴族が一人の女に会う。警固の届けは出てる。出てる以上、俺が立つ」
「ありがとうございます」
「礼はいい。俺は、あんたが殴られたときに困るだけだ」
「殴られはいたしません」
「そういう手合いは、殴らずに済ませる。だから性質が悪い」
◇
ヘルヴィク侯爵は、供を戸口の外に置いて、お一人で入っていらっしゃいました。外套の裾に、坂の土がついております。馬車が上がれない道を、途中から歩いてこられたのでございましょう。
「久しいな、アデライド嬢」
「アデルでございます」
「……ああ、そうであったな」
閣下は椅子にお掛けになり、卓の上に何も出ないことを、一度だけ確かめられました。
「随分と、遠いところへ来たものだ」
「坂の中ほどでございます」
「そういう意味ではない」
「はい」
閣下は指を組まれました。
「単刀直入に申そう。王都へ戻る気はないか」
「ございません」
「儀典の職を用意する。女子にはこれまで無い扱いだが、私が通す。家名も、元のとおりに戻る」
「ありがとうございます」
「受けるということかね」
「お礼を申し上げただけでございます」
閣下の指が、一度ほどけて、また組まれました。
「では、こうしよう。公宮の婚礼の一件、私から公国へ口添えをする。他所の生まれの者が入る先例が無いのだろう。先例は、作る者がおれば作れる」
「閣下は、カルヴァン公国に口添えのできるお立場でいらっしゃいますか」
「……儀典長だ」
「はい」
「儀典長というのは、そういうものだ」
わたくしは、手を膝の上で重ねました。それ以上は申し上げておりません。申し上げますと、話が長くなりますので。
閣下は懐から袋をお出しになりました。卓に置かれる音で、中身の見当がつきます。
「支度金だ。名目は、七年ぶんの功に対する慰労とする」
「頂戴できません」
「遠慮ではないのだろうな」
「頂戴いたしますと、頂戴した日付が残りますので」
閣下の手が、袋の上で止まりました。
「……何の話だ」
「わたくしは、金銭の出入りも書いてまいりました」
「それも、あの帳面にか」
「別の帳面でございます。あれは二冊きりで、薄うございます。王家の式の金は、わたくしの手を通っておりませんので」
閣下は袋を懐へお戻しになりました。
◇
三つ目のお話が本題でございました。
「あの帳面のことだ」
「はい」
「あれは、私文書だな」
「わたくしが書きました」
「王家の職務について、個人が私に控えを取り、七年にわたって手元に置いた。これは越権だ。場合によっては、機密の持ち出しにあたる」
「持ち出しては、おりません」
「棚に置いてあった。屋敷はヴェルスハイム家のものだ。王城の外にあった」
閣下は、そこで少し身を乗り出されました。
「だが、私は事を荒立てたくない。書いてもらいたいものがある」
「はい」
「一筆だ。——あの控えは覚え書きに過ぎず、正確を期したものではない。日付や印の写しには誤りが含まれる可能性がある。以上を、貴女の名で」
わたくしは、閣下のお顔を見ました。五十二におなりでございます。七年、白の間で同じ椅子にお掛けになるのを見てまいりました。
あの椅子は背が高うございまして、掛けますと必ず顎が上がります。いまは、卓が低うございますので、顎が下がっておられます。
「閣下」
「なんだ」
「わたくしは、何もいたしません」
「何もしないとは」
「王都の帳面に、手を触れることができません。あれは王都にございます。わたくしはここにおります」
「一筆を書けばよいだけだ」
「書けません」
「なぜだ」
「書きますと、それも記録になりますので」
閣下が、口を閉じられました。卓の上には何もございません。器も、紙も、花も。組まれた手だけがございます。
「……記録などというものは、書き手の都合でどうにでも書けるものでしょう」
「はい」
わたくしは、うなずきました。
「ですから、日付を書いてまいりました」
◇
閣下がお立ちになったのは、それから間もなくでございます。椅子を戻され、外套の裾をお払いになりました。土は、あまり落ちませんでした。
「アデライド嬢」
「アデルでございます」
「……貴女は、七年、よく仕えた」
「はい」
「私は、貴女を悪く言うつもりはない。布告はな、あれは、儀典の体面の問題であってだな。誰かが名を負わねば、王家の式が誰の落ち度でもないことになる。誰の落ち度でもない破綻というものは、王家では成り立たん」
「さようでございますか」
「そういうものだ」
三度目でございます。閣下は今朝、そういうものだ、と三度仰いました。七年のあいだも、よくそう仰いました。そのたびに、わたくしは帳面に一行足しております。——足した行の数だけ、そういうものではなくなってまいります。
閣下は戸口まで歩かれて、そこで止まられました。背を向けたまま、お尋ねになりました。
「……あれには、何が書いてある」
わたくしは、答えました。
「日付と、印でございます」
「印など、七年もあれば何百とあろう」
「二千三百四十七ございます」
閣下は振り返られませんでした。外套の裾が、戸口の枠に一度当たって、それから、出ていかれました。
クレムが壁から背を離しました。
「あいつ」
「はい」
「自分が何に印を押したか、憶えてないな」
「七年でございますので」
「あんたは憶えてるのか」
「憶えてはおりません。書いてございます」
クレムは椅子を一脚、卓に戻しました。それから、二脚目も戻しました。
「あんた、一つも言い返さなかったな」
「言い返す用がございませんでした」
「布告は貼りっぱなしだぞ。あんたの名前で」
「はい」
「腹は立たんのか」
わたくしは、寄せた卓を一つずつ元の位置へ戻しはじめました。梁が八本ございまして、その下の卓を並べ替えますと、十六人が座れます。
「立ちましたら、一筆書いてしまいます」
「……そりゃそうだ」
ニナが階段を下りてまいりまして、空の卓を覗き込みました。
「——で? 結局、何が書いてあるの、あの帳面」
わたくしは窓のほうを見ました。坂を下りていく外套が、途中で一度、立ち止まっております。供の方が何か申し上げ、閣下が振り払うようにお歩きになりました。
あの十四冊を棚から下ろさせたのは、閣下でございます。わたくしは、置いてまいりましてから、一度も開いておりません。開いたところで、書いたとおりのことしか書いてございません。
揺さぶりにいらした方に、水をお出ししない。本日の一点は、それでございました。おもてなしとしては最低でございますが、宴方としては正確です。
次回、十四冊が読まれます。書いたとおりのことしか書いてございません。それが、いちばん困ることでございます。




