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「真実の愛と結婚する」と仰るので、王太子殿下の結婚式はご自分でどうぞ 〜式典をすべて整えていた元婚約者は、隣国で花嫁専門の祝宴師になります〜  作者: 晴海このみ


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第26話 王都から、控え帳が

 朝、ニナが階段を三段飛ばして下りてまいりました。


「いた。いたいた。あのさ、来週のやつ、来た。来週の。ゾルドさんが最後に寄越した二枚のうちの、来週のほう。それがさ、今、外にいるの。花嫁が。本人が。しかも歩いてきた。坂の下から。荷車も馬車もなし。付き添いもなし。一人。あたし三回聞いたよ、お付きの人はって。三回とも、いませんって。——で? どうすんの」


 わたくしは、器を拭いておりました手を止めました。


「お通ししてくださいませ」


「もう入ってる」


 入っておられました。戸口の内側に、灰色の外套の方が立っておられます。二十歳ほど。裾に坂の土がついております。手には紙が一枚。ゾルド様の商会の請け書でございました。


「ヒルダと申します」


「アデルでございます。おかけくださいませ」


 ヒルダ様は、椅子の背に手を置いて、それからお座りになりました。座る前に背に手を置く方は、その椅子が自分のものかどうかを一度確かめる癖のある方でございます。


「あの、これ」


 請け書を卓に置かれました。——婚礼一式、銀貨四枚。三日より。


 署名の欄に、ゾルド様の印がございます。日付は先々月。式は来週。


「四枚、払いました。父が」


「はい」


「けど、商会に行ったら、箱に片づけてる最中で。担当の人が、もういないって」


「さようでございますね」


「花も、卓も、楽師も、何も頼んでないそうです。紙だけ書いて、置いてあったって」


 ニナが、卓の向こうで指を折りはじめました。


「花なし、卓なし、楽師なし、料理も聞いてないでしょ。招く人の名簿は。ない? ないよね。式場は。聖堂は取ってある? 取ってない。ねえ、じゃあ来週何があるの。日にちだけ? 日にちだけあって、あとは全部ないの。それってさ、婚礼っていうか、ただの来週じゃない?」


「ニナ」


「だってそうじゃん」


「そうでございます」


 ヒルダ様が、少し笑われました。笑われてから、ご自分でも意外そうなお顔をなさいました。


    ◇


 こういうことは、ときどきございます。決まりが多すぎて動かせない式が大半でございますが、まれに、逆がございます。何も決まっていない。誰も何も用意していない。仕来りすら、どなたも仰らない。そういう式は、一点を選ぶのがいちばん難しゅうございます。どこも変えられるからでございます。


「ヒルダ様」


「はい」


「来週、何が一つあればよろしゅうございますか」


 ヒルダ様は、口を開けて、それから閉じられました。


「……一つ」


「はい。一つでございます」


「全部ないのに、一つ、ですか」


「全部そろえますと、銀貨四枚では足りません。それに、そろえたところで、それは商会の式でございます。ヒルダ様の式ではございません」


 ニナが、口を挟みかけて、やめました。この子は、やめるときに一度だけ肩が上がります。ヒルダ様は、長いこと黙っておられました。わたくしは、その間に湯を沸かしました。この街では冬に湯を出します。


「椅子を、一つ」


 顔を上げて、そう仰いました。


「母が、去年」


「はい」


「来られないんです。歩けないので。宿の二階なんです、うち。式は上でやるって父が言って、それで、母は下にいるって」


「はい」


「下に、椅子を一つ置いてもらえませんか。母のぶんの。……上には来られないから、せめて、下に」


 わたくしは、覚書を開いて、椅子、と一つだけ書きました。書いてから、ヒルダ様のほうへ向けました。


「承ります」


「それだけで、いいんですか」


「それが一点でございます。ほかは、なさらなくてよろしゅうございます」


 ヒルダ様が、請け書を見下ろされました。


「四枚、無駄になりました」


「四枚は、もうお戻りになりません。ですが、椅子は一脚でございます」


 わたくしは、宿の間取りを伺いました。二階へ上がる階段は、食堂の右奥。踊り場で一度折れて、上がりきったところが広間でございます。椅子は、階段の下ではございません。踊り場の下でもございません。


 広間の戸を開けたときに、階段の下から見上げて、いちばんよく見える位置がございます。そこに一脚。背をこちらへ向けず、上を向けて置きます。


「お母様には、上がお見えになりません。ですが、上からは、お母様がお見えになります」


 ヒルダ様が、口元を押さえられました。


「……こっちが見えるんですか」


「はい。ですから、ヒルダ様は一度だけ、階段の上でお止まりくださいませ。一度で結構でございます」


 ニナが、卓の向こうで小さく申しました。


「それ、一点じゃなくない? 二つ言ったよ、今」


「椅子でございます。止まるのは、椅子があるからでございますので」


「屁理屈」


「はい」


    ◇


 姉から、二通目の手紙が届きましたのは、その晩でございます。


 ——町の噂でございますが。王城で、あの帳面を読める方が、お一人もいらっしゃらないそうでございます。


 わたくしは、その行を二度読みました。控え帳は、日付順に綴じてはございません。件名順でございます。花の条、席次の条、鐘の条、門の条。件ごとに七年ぶんを縦に重ね、変更のあった行にだけ日付と印を書き足してまいりました。


 そのように綴じますと、一つの件が七年でどう動いたかが、一度に見えます。見えるように綴じたのは、わたくしが見るためでございます。同じ晩に、もう一通ございました。王都の、南街道の花市の商人からでございます。


 ——ヴェルスハイム様。本年の分は、もうお出しいたしません。大聖堂の日取りが四度動きまして、四度目にお伺いを立てましたところ、まだ決まっておらぬ、追って沙汰する、とのお返事でございました。花は追って沙汰するというわけにまいりません。温室の九百は、先月、切って市へ回しました。長いこと、お世話になりました。


 白薔薇一二〇〇本。温室から九百、南街道の花市から三百。市の入荷は例年の七掛け。——最初から足りていなかったものが、いまは、一本もございません。ニナが階段の途中から覗いておりました。


「なんて書いてあったの」


「花が、もう来ないそうでございます」


「王都の? あんたのじゃないじゃん」


「はい。わたくしのではございません」


「じゃあなんでそんな顔してんの」


 わたくしは、天井の梁を見ました。八本ございます。


「七年、数えておりましたので」


    ◇


 翌朝、公宮から書付が届きました。ヴィオレッタ殿下の御手でございます。女官の方をお通しになったのではなく、坂の下の水汲みの子に持たせておられました。公宮の紙ではなく、ちぎった紙でございます。


 ——三百八十のうち、わたしが決めたものはいくつありましたか。


 わたくしは、その裏に書いて返しました。——ございません。


 嘘を書きますと、次に何を申しても信じていただけなくなります。夕刻、クレム様が食堂の戸を開けて、そのまま入ってまいりました。この方は宴の席では一言も喋りませんが、宴でない場所ではよく喋ります。


「船が一隻、増えた」


「はい」


「王都の船だ。旗が二本。一本は王家。もう一本は見たことがない。麻の葉を三つ組んだやつだ」


 ヘルヴィク侯爵家の紋でございます。


「宴じゃないぞ。式もない。祝いの荷も積んでない」


「はい」


「あんたに用だ」


 わたくしは、卓の上の手紙を二通、揃えて重ねました。姉の手紙と、花の商人の手紙。その下に、ヒルダ様の請け書を置きました。七年、誰も開かなかった帳面が、いま、王都の卓の上に十四冊積んでございます。積ませたのは、わたくしではございません。


「クレム様」


「なんだ」


「明日の朝、この食堂の卓を端へ寄せます。手伝っていただけますか」


「……来ると分かってるのか」


「坂を登るご用のある方が、坂の下にお泊まりでございますので」


 クレム様は戸口のほうを見ました。それから、短く申しました。


「俺も立つ」

王都の卓に帳面を積ませたのは、アデルではございません。棚から下ろさせたのは、いちばん困る方でございます。置いてきたものが、自分で歩き出した回でした。


次回、儀典長閣下が坂を上っていらっしゃいます。食堂の卓は、すでに端へ寄せてございます。

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