第25話 公女の婚礼
銀の梯子亭の前に、馬車が三台停まりました。坂の道は幅がございませんので、三台停まりますと荷車が通れません。上の八百屋のご主人が舌打ちをなさいました。——舌打ちのほうが、正しゅうございます。
馬車の扉には紋がついておりました。白い石に、麦の穂が二つ。公宮の紋でございます。ニナが式次第の筒を肩に担いだまま、戸口で止まりました。
「……あのさ」
「はい」
「これ、うちに来たの」
「看板を出しておりますので」
「うちの看板、花嫁専門って書いてあるんだけど」
「はい」
「公宮に、花嫁いるの」
おいでになります。十九におなりの公女さまが、お一人。
馬車から降りてこられたのは三人でございました。書付を抱えた方が一人と、その後ろに二人。二人のほうは戸口を入らず、外に立って坂の上と下を見ておられます。ニナが小声で申しました。
「あの人たち、うちの店の中に入んないんだけど」
「入ってはいけないことになっているのでございましょう」
「なんで」
「宿は、公宮の建物ではございませんので」
「……ふうん。めんどくさいね」
めんどうでございます。ただ、めんどうな決まりが多い家ほど、決まっていない場所も多く残ります。
◇
式部方のハウザー様は、食堂の梁を三度数えてから腰を下ろされました。八本ございます。数えたくなるお気持ちは分かります。
「カルヴァン公女ヴィオレッタ殿下の御婚礼にあたり、花嫁付きの宴方を一名、置くことになりました」
「さようでございますか」
「宴商会の推挙が三名、公宮の推挙が二名。合わせて五名のうちの一名として、貴女のお名前が挙がっております」
宴商会は、先月、元締めが替わったばかりでございます。替わったばかりの寄合が三名を推すというのは、三名で分けるという意味でございましょう。
「五名でございますか」
「五名です。念のため申し添えますが、貴女は公国のお生まれではございません。公宮の記録に他所の生まれの者が入りますのは、これで四十年ぶりになります」
「さようでございますか」
「ええ。ですから、こう申しては失礼だが——先例が無いというのは、有難がる話ではなく、厄介な話でしてな」
ハウザー様は書付を開いて、指で行を追われました。
「職掌を申し上げます。御婚礼の当日、公女殿下の御支度の間に控え、お召し替えの順を見届け、御気分を損ねぬよう取り計らう。式次第そのものは、公宮の式部方と、先方の使節と、宴商会の三者で既に組んでございます」
「では、わたくしは何を変えるのでございますか」
ハウザー様が顔を上げられました。
「……変える」
「はい」
「変えるものは、ございませんな。何一つ」
わたくしは頭を下げました。これは、名前だけを貸してほしいという話でございます。宴方を一人置いたと書き残しておけば、後日どなたかに問われたときに、公宮も宴商会も困りません。
「ありがたいお話でございます。一つだけ、伺わせてくださいませ」
「なんなりと」
「公女殿下に、お目にかかれますか」
「……御支度の間になら」
「本日でございます」
「本日」
「はい。式の日ではなく、本日」
ハウザー様は書付をお閉じになりました。閉じるまでに、少し間がございました。馬車が坂を下りていきますと、通りの幅が戻りました。上の八百屋のご主人が荷車を押して、こちらを一度ご覧になってから通り過ぎられます。ニナが筒を肩に担ぎ直しました。
「行くんでしょ」
「まだ、決めておりません」
「決めてないのに、本日会わせろって言ったよね。あたし、そこの柱のとこで聞いてたもん。名前だけ貸せって話だって分かってて、それでも本日って言ったんでしょ。だったら、もう行くって決めてるじゃん。決めてないのは坂を登る足のほうだよ。——で?」
「ニナ」
「はい」
「公宮でございます。他所の生まれの者が記録に入りますのは四十年ぶりで、式次第は既に三者で組んでございます。わたくしは、五名のうちの一名でございます」
「五分の一じゃん。看板出す前は、ゼロ分のゼロだったんだけど」
ニナは指を二本立てて、それから五本に開きました。
「あとさ。マルタさんとこ、ただ。喪中のとこ、菓子の箱。代理のとこ、なし。十七組で銀貨三枚と少し。あたし、全部数えてるからね。それでいて、あたしの給金の話は、まだ一回も終わってないの。公女さまのとこは、いくら出すの」
「伺っておりません」
「聞きなよ。数えるのはただでしょ。あんた、ただで数えるの得意すぎるんだよ」
わたくしは、覚書の束を鞄へ入れました。
「ニナ。筒を、お願いいたします」
ニナは巻紙の筒を肩へ担いで、担いでから位置を二度直しました。
「公宮に花嫁いるの、って、あたし今朝聞いたよね」
「伺いました」
「いるんでしょ」
「おいでになります」
「じゃあ、うちの客じゃん」
ニナは先に戸口を出て、坂の上を見上げました。
「格とか、あたし知らないから」
◇
公宮は坂を登り切ったところにございます。白い石の道が尽きると白い石の階段になり、その先が白い石の壁でございました。石を切った職人は、途中で飽きなかったのでございましょうか。通されましたのは、窓のない小部屋でございました。
ヴィオレッタ殿下は、壁のほうを向いて座っておいででした。手元には何もお持ちでございません。針も、本も、茶の器も。何も持たずに座っていられる方は、そう多くございません。
「花嫁専門の祝宴師、と聞きました」
「はい」
「わざわざ坂を登って、何を見にいらしたの」
「決まりを、数えにまいりました」
殿下が、初めてこちらをご覧になりました。わたくしは式部方からお借りした覚書を開いて、声に出して数えはじめました。輿の出る刻。門を出る順。旗の数。両国の使節の並び。誓いの言葉の言語。指輪の受け渡しに立つ者の位。衣装の生地。生地の産地。刺繍の目数。
百を越えたあたりで、殿下が椅子を少しこちらへ向けられました。二百のところで、日が傾きました。
「三百二十」
「まだ終わりませんか」
「終わりが見えてまいりました。あと少しでございます」
殿下は笑われませんでした。
「数えて、どうなさるの」
「数え終わりますと、決まりの外側が見えます」
「外側」
「誰も決めていない場所でございます。どれほど決まりの多い式にも、必ずどこかに残ります」
殿下は、膝の上の手をご覧になっておりました。
「……わたしの式も、誰かが勝手に決めるのでしょう」
窓がございませんので、部屋が暗くなったことは、覚書の字が読みにくくなったことで分かりました。
「先方のお名前を知ったのは、二月前です。お顔は絵で一度。日取りは、わたしの誕生日の三日後に決まりました。三日ずらせば支度が楽だと、誰かが言ったそうです」
「はい」
「わたしが決めたことは、一つもありません。着るものも、乗る馬車も、笑う場所も」
殿下は、そこで少しだけ息を吸われました。
「あなたは、何を変えるつもりなの」
「まだ、分かりません」
「分からないのに、坂を登ったの」
「はい」
「……変な人ね」
殿下は、そこで初めて手をお動かしになりました。覚書のほうへ、指を一本だけ伸ばされたのでございます。
「いま数えたなかに、わたしの名前は何度出てくるの」
わたくしは頁を戻しました。輿を出す条の書き出しに一度。誓いの条に一度。
「二度でございます」
「二度」
「はい」
「……大公家の名は」
「四十一度でございます」
わたくしは覚書の続きを読みました。三百二十一。三百二十二。灯を持ってこられた女官が、二度、部屋を覗いて帰られました。日が落ちるまでに、三百八十まで数えました。殿下は、最後まで席をお立ちになりませんでした。
◇
坂を下りますと、公宮の門の外にクレムが立っておりました。警固の下見でございましょう。
「受けるのか」
「まだ、決めておりません」
「名前だけ貸せって話だろ」
「はい」
「断るなら早いほうがいい。ああいう話は、断ったあとで恨まれる」
「存じております」
クレムは坂の下をご覧になっておりました。港に、船が三隻。
「……あんた、公女の決まりを何まで数えた」
「三百八十でございます」
「自分の式の決まりは、いくつある」
わたくしは、答えませんでした。鞄の底に、紙が一枚ございます。決まりは、一つもございません。誰も決めておりませんので。宿へ戻りますと、卓の上に手紙が置いてございました。王都の、姉の字でございます。
——屋敷に王城の方が三人みえて、棚を検めていかれました。東向きに並んでおりました帳面を、十四冊とも荷にお積みになりました。何のことか、わたくしには分かりません。あなたの帳面でしょうか。
ニナが背伸びをして、手紙を覗き込みました。
「なんて書いてあるの」
「王都で、十四冊、見つかったそうでございます」
「——で? それ、まずいの」
まずくはございません。あれは、置いてきたものでございます。ただ、七年のあいだ、あの十四冊を開いた方は、お一人もおられませんでした。
公女の婚礼の、変えられない決まりは三百八十ございました。アデルご自身の式の決まりは、いまのところ零でございます。どなたも決めていないからでございます。
次回、王都で十四冊が見つかります。七年、誰も開かなかった帳面でございます。




