第24話 兄の分の席
朝の広場に、椅子が一つ残っておりました。卓は昨夜のうちに引き上げられ、灯の台も片付いております。石の上に、一脚だけでございます。クレムが、その脇に立っておられました。
「片付けに来た」
「はい」
「毎年、俺が片付ける」
わたくしは、少し離れて立っておりました。クレムは椅子に手をかけて、それから、かけたまま動かれませんでした。
「ヘニングが喋ったんだろう」
「お名前だけ伺いました」
「そうかい」
港のほうで、荷を降ろす音がいたします。朝は、この街でいちばん静かな刻でございます。
「十年前だ」
クレムは椅子の背を見たまま仰いました。
「兄貴が宴警固頭だった。ヨルグ・ドラゴー。俺は十八で、下についてた」
「はい」
「あの夜、卓の端で二人が揉めた。金の話だったらしい。らしい、ってのは、俺は見てないからだ」
クレムは椅子の脚を、爪先で少し押されました。
「兄貴は座ってた。自分の席にな。笑ってた。祝勝の宴だ、警固頭が壁に立ってちゃ格好がつかんと言われて、その年から座るようになった」
「はい」
「座って、喋ってて、止めに入るのが一拍遅れた」
それだけでございました。わたくしは、伺っておりました。
「めでたい席ってのは、一番人が死ぬ席だ」
「以前にも、伺いました」
「そうか」
クレムは、ようやく椅子から手を離されました。
「よく聞かれるんだ。なんで宴で喋らないんだって。無愛想だとか、宴が嫌いなんだろうとか」
「宴は、お嫌いでいらっしゃいますね」
「嫌いだ」
クレムは、卓のあった場所のあたりを見渡されました。何もございません。石だけでございます。
「だが、そうじゃない。喋ると、見えないんだよ」
わたくしは、そこで一度、目を伏せました。この方は宴の席で、笑った者の手元をご覧になります。人が笑うたびに、少しだけ首を動かして。初めてこの街に着いた夜から、ずっとそうしておいででした。
喋っておりますと、手元が見えません。
「一脚だけ、余分に出しておられます」
「……」
「関の下見でも、婚礼の下見でも、いつも一つ多うございます」
「数えたのか」
「数えます。仕事でございますので」
クレムは、椅子を持ち上げて、脇に抱えられました。
「毎年、名簿は四十六だ。椅子は四十七出す。誰も何も言わん。言われたら、数え間違いだと答える」
「十年、でございますか」
「十年だ」
◇
昼前に、ニナが坂を駆け上がってまいりました。
「あんた、聞いた? 聞いてないでしょ。聞いてないよね」
「まだ何も伺っておりません」
「商会。ゾルドんとこ。登録、取り上げられたって」
ニナは息を整えもせず、卓に手をついて続けました。
「先月の三組売り、あれの一つが、港の船主んちだったの。娘さんの婚礼。卓も楽師も来なくて、客が門で二刻待たされて。船主が怒って寄合に出した」
「請け書は」
「それ。あんたの言ったやつ。同じ頁に三組、並べて書いてあったんだって。寄合の前で頁めくったら、日にちが三つ同じで。言い逃れできなかったって」
ニナは椅子に座り込みました。
「元締めが登録取られたら、取次の七軒も止まる。看板、全部下ろすんだって。——で? あんた、何かした?」
「いいえ」
「ほんとに?」
「一枚も出しておりません」
ニナは、しばらくこちらを見ておりました。それから、指を折り始めました。
「取次が七軒でしょ。看板が七枚。あの板、この前も削って書き直してたよね」
「三度目でございました」
「じゃあ今度は下ろすんだ。……ねえ、板って、何回削れるの」
「四度目からは、薄うございます」
「薄いのは、どうなんの」
「薪でございます」
「あんた、今の、笑うとこ?」
「いいえ」
◇
夕方、商会の帳場へまいりました。棚の請け書が、木箱に移されている最中でございました。帳付けは二人に減っております。ゾルド様は、空になりかけた棚の前に立っておられました。
「看板の文句の分でございます。銀貨九枚」
わたくしは、卓の上に置きました。ゾルド様は、それを数えられました。九枚、指で寄せて、二度数えられます。
「もう判が押せません」
「私印で結構でございます。日付と、通算の枚数を」
ゾルド様は紙を引き寄せて、書かれました。字は、きれいでございました。
「アデル様。四百組のうち、三つ四つでございましたよ」
「一組でございます」
「……そうでございましたな」
ゾルド様は、書き上げた紙をこちらへ滑らせました。それから、木箱の中から請け書を二枚抜いて、その上に置かれました。
「先月の残り二組でございます。片方は来月、片方は来週」
「はい」
「拾われますか」
「花嫁がおいででしたら」
「花嫁は、おりますよ。どちらにも」
ゾルド様は、木箱の蓋を閉じられました。
「値は五枚でございましたな。あれは、高すぎるとは思いません。——ただ、あの値では、うちの帳では回りませんでした」
「はい」
「そこだけは、間違っておりません」
わたくしは、頭を下げて、階段を下りました。下りながら、請け書の日付を二度数えました。来週。来月。
◇
公宮に出す宴の控えは、警固頭が三日以内に納める決まりだそうでございます。クレムは書き物が嫌いでいらっしゃいます。去年は十一日遅れたと、ヘニング様が仰っておりました。
ですので、書きました。卓の図。灯の数。樽の数。兵の交代。それから、席次の写し。公宮の帳付けの方は、受け取って、数を確かめられました。
「四十七名でございますな」
「はい」
それだけでございました。その夜、クレムが宿へ来られました。手に、写しの控えを一枚持っておられます。
「これは何だ」
「宴の控えでございます」
「四十七になってる」
「椅子が四十七脚ございましたので、数を合わせました」
「……名前が、入ってる」
わたくしは、卓布の端を直しておりました。
「空の椅子は、みっとものうございます。その席の主が来なかったように見えますので」
「……」
「名がございますと、来なかった方の席ではなく、その方の席になります」
クレムは、その紙をしばらく見ておられました。四十七番目の欄でございます。
——ヨルグ・ドラゴー。
「勝手なことを」
「はい」
「誰も気づかんぞ、こんなもん」
「気づかれないほうが、よろしゅうございます」
クレムは紙を折って、胴着の内に入れられました。それから、卓の椅子を引いて、座られました。宴の席ではございませんので、この方はよく喋られます。
「来年の祝勝の宴、あんたが卓を組め」
「商会をお通しになりませんと」
「商会は今、元締めがいない」
「では、どなたにお伺いを立てれば」
「知るか。俺が決める」
クレムは指で卓を叩かれました。
「値はいくらだ」
「一点で、銀貨五枚でございます」
「卓を組むのは一点じゃないだろう」
「四十七脚のうち、一脚ぶんでございます」
クレムは、そこで初めて、少し笑われました。声は出しておられません。
「……高いな」
「高うございます」
戸を叩く音がいたしましたのは、それからすぐでございます。マルタが戸を開けました。外に、公宮の紋の入った外套の方が立っておられます。
「銀の梯子亭の、アデル殿。……ここで、よろしいのか」
「はい」
「宴方の登録は、今は止まっておるが」
「止まっております」
その方は、懐から書状を出されました。封に、公宮の判が二つ押してございます。二つ押すのは、公家の内々の書状でございます。
「公宮より、お運びを願いたい。婚礼の相談でございます」
「どなたの婚礼でございますか」
使いの方は、書状の封をもう一度確かめてから、仰いました。
「ヴィオレッタ公女殿下でございます」
一脚ぶんで銀貨五枚。「高いな」とクレムは仰いました。高うございます。
第四章「同業」は、ここまで。次回、公宮から書状がまいります。封の判が二つ。ヴィオレッタ公女殿下の婚礼でございます。
ブックマークは、席をもう一つ足すための口実にさせていただいております。




