第21話 母も、宴方でした
港の楽師宿は、朝がいちばん静かでございます。テオ様は窓辺で弦を張り替えておられました。指の腹が固うございます。四十年、同じ場所が擦れているのでございましょう。
「昨日の女の話でございますが」
「ああ」
「お名前を、憶えておいでですか」
テオ様は、糸巻きを二度回してから仰いました。
「エルナ」
わたくしは、伺っておりました。
「家の名は知らん。この街じゃ、宴方に家の名は要らん。エルナと言えばエルナだ」
「どのような仕事をなさる方でしたか」
「断らん人だった」
弦が一本、鳴りました。
「金にならんのも受ける。夜逃げの前の日に挙げる式まで受けた。だから、いつも何かが残ってた。……あの人は、残すのが下手だったな」
「お代は」
「取らんかったよ。取れんかったんだろう」
テオ様は、糸巻きをもう一度回されました。
「宴方ってのはな、頼まれると断れん。断れんやつは、値もつけられん。値がつかんと、次の年も同じだけ働く。……で、いつのまにか、二十年経つ」
窓の外で、船の綱が軋んでおります。
「そうだ。祝いの席で、あんたと同じことを言ってた」
「なんと」
「式は変えられん、と」
テオ様は張り終えた弦を、指の背で弾かれました。
「そのあとに何て続けたかは、憶えとらん」
◇
宴商会の帳場は、朝から人が出入りしておりました。ゾルド様は、昨日と同じ卓におられます。わたくしを見て、帳面から顔を上げられました。
「請求書は、お届けしたはずでございますが」
「本日は、別の用でございます。古い登録簿を拝見できますか」
「何年ぶん」
「二十年より前でございます」
ゾルド様は、指で卓を二度叩かれました。
「閲覧は銅貨十枚でございます」
わたくしは、十枚置きました。
ゾルド様は帳付けに顎で合図をなさいました。棚の奥から、革の背が割れた帳面が三冊まいります。埃の匂いがいたしました。
宴方の登録は、名と、年と、受けた仕事の数だけが並んでおります。名の横に「取消」と入っているものが半分ほど。理由の欄はございません。二十三年前の頁に、ございました。
——エルナ。登録十一年。仕事、二百四十一。
その下の行に、細い字で書き足してございます。
——よそへ嫁す。以後、当街に登録なし。
二百四十一。わたくしは、その数字を三度見ました。年に二十二組。この街の宴方としては、多いほうではございません。断らない者は、一組にかける手が長うございますので。
「その方が」
ゾルド様が、帳面を覗き込まれました。
「お身内でいらっしゃいますか」
わたくしは、頁を閉じました。
「登録は、これで全部でございますか」
「二十三年前で切れております。以後は一行もございません」
「さようでございますか」
「アデル様。この街では、帳に載っていない仕事は、無かった仕事でございますよ」
わたくしは、頭を下げました。階段を下りながら、数えておりました。二百四十一。二百四十二枚目は、この帳のどこにも載っておりません。
◇
宿の部屋に戻りまして、鞄の底を開けました。紙が二枚、入っております。
一枚は、わたくしが十五のときに書いたものでございます。客が十二名。花は野の花。卓は一つきり。楽師は入れず、姉の弾く古い弦だけ。丸を十二、そのうち一つに線を引いて消してございます。
もう一枚は、母のものでございます。
母が亡くなりましたのは、わたくしが十五の年の春でございました。荷を片付けておりましたとき、衣の下から出てまいりました。式次第でございます。書きかけで、途中で止まっております。七年、持っておりました。開いたのは、二度でございます。
卓に並べました。
母の紙は、卓が一つきりでございました。花は野の花。楽師は入れず、弦が一つ。
客の丸が、十一。
わたくしは、そこで手を止めました。自分の紙を、隣に引き寄せます。
丸が、十二。うち一つに、線。
十五のわたくしは、母の紙を写したのでございます。写して、丸を一つ足しました。足した丸には、名前を書いておりません。書かずに、線を引いて消しました。誰の丸だったかは憶えておりません、と、ずっとそう思ってまいりました。
——憶えていないのではない。書けなかったのだ。
母の紙の、右上を見ました。注文主の名を書く欄でございます。宴方は、必ずそこから書き始めます。誰の一日かを決めてから、卓の数を決めますので。
そこに、字が三つございました。
——アデ
そこで、止まっております。筆が滑ったのではございません。墨は乾いてから間が空いております。続きは、後で書くつもりだったのでございましょう。
わたくしは、しばらく座っておりました。母は、輿入れしてから一度も宴方の話をいたしませんでした。侯爵夫人が卓の向きを直す家ではございませんでしたので。
一度だけ、憶えていることがございます。十の年の、家の晩餐でございました。母が広間の入口で足を止めて、卓のほうを見ておりました。上座に西日が入っておりました。母はしばらく見て、それから何も申さずに席へ着かれました。
あとで父が、何か気になったのかとお尋ねになりました。母は、いいえ、と申しました。
それだけでございます。わたくしはその晩、自分の部屋で卓を九度回す図を書いて、誰にも見せずに捨てました。
それでも、最後に一つだけ、仕事を受けておられました。注文主も、卓の数も、花も、自分で決めて。誰にも登録せずに。
卓が一つきりの式次第でございます。客は十一名。王家に嫁ぐ娘の式ではございません。この紙のとおりに挙げれば、大聖堂も、白薔薇一二〇〇本も、千二百四十名の名簿も要りません。
母は、それを知って書いておられました。わたくしがどこへ嫁ぐかは、その春にはもう決まっておりました。
——この人は、娘が一生、誰の一日でもない日を作り続けることを、知っていた。
窓の下で、鐘が鳴りました。低いのが二つ、高いのが三つ。
わたくしは十六の年から、控え帳を書き始めました。誰が、いつ、何を通したか。年に二冊。七年で十四冊。義務でございましたか、と問われましたら、これまではそうだと申し上げてまいりました。
七年、わたくしは、続きを書いておりました。
二百四十二枚目のことでございます。
◇
日が暮れてから、階下へ下りました。マルタが食堂の卓を拭いております。ニナは椅子の上で膝を抱えて、昨日の絵を眺めておりました。
「あ。おかえり」
「はい」
「上、静かだったね。寝てた?」
「紙を、二枚見ておりました」
「ふうん」
ニナは絵から目を離しませんでした。それから、卓の端を指で示しました。
「そこ、書付。昼に商会の人が置いてった」
卓の上に、一枚ございました。宴商会の判でございます。
——看板の文句の儀。一枚につき銅貨十枚。開業よりの通算、九十枚。今月末までにお納めください。
九十枚。銀貨にいたしますと、九枚でございます。ドリス様が二度目の婚礼に払われた額より、三枚多うございました。
わたくしは、その書付を灯にかざして、二度読みました。
うちの一点に、いくらの値をつけるかを、わたくしはまだ決めておりませんでした。
母も、宴方でした。七年、アデルが人の一日を作りつづけた理由が、ここで一枚だけ出てまいります。残りは、まだ書いてございません。
次回、看板の文句に値がつきます。一枚につき銅貨十枚、通算九十枚。請求してまいりましたのは、宴商会のほうでございます。
評価の☆は、書き上がらなかった式次第の、続きの紙代に充てさせていただきます。




