第19話 宴商会の元締め
ニナが、戸を蹴って入ってまいりました。両手が塞がっておりましたので、蹴るよりほかになかったのでございましょう。肩には式次第の巻紙を、筒ごと担いでおります。
「あんたの看板、増えてる」
「増えません。一つきりでございます」
「増えてるって言ってんの。あたし、字は読めないけどさ、あの形なら分かるの。花嫁って字。丸っこいのが二つ並んでるやつ」
ニナは巻紙を卓に置いて、指を立てました。
「三本目の通りに二つ。港のほうに四つ。それから、石橋の脇にもう一つ。——で? 見に行く?」
◇
坂を下りながら、数えてまいりました。「花嫁のこと、承ります」。「花嫁専門・婚礼一式」。「花嫁のためのお式、三日より」。それから、港に近い一枚には、こう書いてございました。
「一点だけ、お変えします」。
八つございました。うち一つは、坂の中ほど、銀の梯子亭の軒下に出してあるものでございます。わたくしが墨で書いて、マルタが釘を打ってくださいました。残りの七つは、先月まで、一つもございませんでした。
「腹立たないの」
「板を七枚も削ったのでございますから、それなりに手間でございましょう」
「そこじゃないでしょ」
ニナは看板の一つを爪で弾きました。塗りがまだ乾ききっておりません。
「値段、見た? 一式で銀貨六枚だって。うちの半分」
「うちは一式を承っておりません」
「だから、みんなそっち行くんだよ。——で? どうすんの」
わたくしは、看板の下の文字を読んでおりました。小さく、「宴商会 取次」と入っております。八つのうち七つに、同じ判が押してございました。
三本目の通りの、乾物屋の二階へ上がりました。ニナの知り合いだそうでございます。ザビーネという娘が、窓際の卓で縫い物をしておりました。十九だそうでございます。先週、婚礼を挙げたばかりだと伺いました。
「先週の、卓のことでございますが」
「……ああ」
ザビーネは針を置きませんでした。
「卓は、来ませんでした。三つ頼んだのが、一つも」
「楽師は」
「一人だけ来て、途中で帰りました。よそに入ってるからって」
「聖堂は」
「二組いっぺんに入っていて、うちのは後ろに回されました。……お客が半分帰ってから、始まりました」
わたくしは、伺っておりました。伺うよりほかに、いたしようがございません。
「あのさ」
ザビーネが顔を上げました。
「あんたでしょ。一点の人」
「はい」
「じゃあ、あたしの式は、どこを変えれば良かったの」
わたくしは、少し考えました。考えましても、ございませんでした。
「ございません」
「え」
「終わってしまった式は、拾えません。わたくしにできますのは、これからのぶんだけでございます」
ザビーネは、しばらく針の先を見ておりました。
「そう」
それから、また縫い始めました。
「じゃあ、あんたに聞いても、しょうがないね」
階段を下りるあいだ、ニナが一言も申しませんでした。珍しいことでございます。外へ出てから、ようやく口を開きました。
「……あの人、六枚払ったんだよ」
◇
宴商会の帳場は、港の手前の、石造りの二階にございました。階段を上がりますと、卓が四つ。帳付けが三人。壁一面が棚で、婚礼の請け書が背を揃えて並んでおります。並べ方は悪くございませんでした。日付順ではなく、家の名の順でございます。取り出しやすいほうを選んでおられます。
いちばん奥の卓に、その方がおいででした。五十に近いくらいでしょうか。髪に白いものが混じっております。指が太く、爪が短く切ってございました。帳面をめくる手つきが早うございます。
「ゾルドと申します。この商会の元締めでございますよ」
その方は立ち上がりもせず、帳面をこちらへ向けました。新しい頁の、屋号の欄に、字がございました。
——ヴェルスハイム。
「ずいぶん探しました。宿では、アデル様としか名乗っておられんそうで」
「アデルでございます」
「書き付けには、家の名がないと通りません。うちの都合でございます」
ゾルド様は帳面を閉じて、指で表紙を叩かれました。
「王都の侯爵家のご令嬢が、うちの街で花嫁専門をお始めになった。それを、七軒が真似した。——順番は、そういうことでございましょうな」
「値は、七軒とも同じでございますね」
「うちが決めております」
「卓が来ないのも、うちが決めておいでですか」
帳付けの手が、三つとも止まりました。ゾルド様だけが、顔色を変えずにおられます。
「手違いは、どこの商会にもございます」
「先週、三本目の通りで一組」
「ございましょうな」
「その手違いの分は、どなたがお払いになりましたか」
ゾルド様は、少し笑われました。
「アデル様。この街では、婚礼が年に四百組ございます。四百のうち三つ四つが崩れたところで、来年もまた四百でございますよ」
「花嫁のほうは、一組でございます」
「一組の話をしておりましては、商売になりません」
わたくしは、そこで黙りました。この方は、間違ったことを仰っておりません。四百組を回す帳面としては、正しゅうございます。棚の並べ方が正しいのと、同じでございます。
「ときに」
ゾルド様が、別の帳面を引き出されました。
「看板の文句のことでございますが。『一点だけ、変えられます』。あれは、先週こちらで登録いたしました」
「登録」
「宴方の看板に出す文句は、商会が握っております。ご存じありませんでしたか」
「存じませんでした」
「これからお使いになるたび、うちへ一枚いただきます。銅貨十枚。安いものでございましょう」
階段のほうで、床が鳴りました。
「……一枚いくらだって」
クレムが戸口に肩を預けておりました。いつからおられたのかは存じません。
「宴警固頭殿。こちらは商いの話でして」
「一枚いくらだと聞いてる」
「銅貨十枚でございます」
「安いな」
クレムは壁の請け書の棚を、顎で示しました。
「あんたの売った式が一つ崩れるたび、俺が兵を三人出す。三人ぶんの日当のほうが高い。——請求書、そっちに回していいか」
「宴警固は公国のお務めでございましょう」
「そうだ。だからあんたの取り分から出ない。うまくできてるな」
ゾルド様は、初めてわずかに口の端を下げられました。それから、こちらへ向き直られます。
「アデル様。悪いようにはいたしません。うちの取次に入っていただければ、仕事は回します。三日に一組」
「花嫁は、お選びになれますか」
「選ぶ?」
「どの花嫁の側につくかを、こちらで選べますか」
ゾルド様は、少しのあいだ、わたくしを見ておられました。
「……妙なことをお尋ねになる」
◇
宿へ戻りましたのは、日が落ちてからでございます。軒下の看板を、外そうかと思いました。外しませんでした。釘が固うございましたので。
戸口に、女の方が立っておられました。三十を少し過ぎたくらいでしょうか。厚い外套の裾が濡れております。手に、紙を一枚握っておいででした。
受け取って、灯にかざしました。宴商会の判でございます。卓が三つ、楽師が二人、花は白と黄。日付の欄を見ました。
昼間、帳場でめくられた頁を思い出します。同じ日付が、三つ並んでおりました。三組の婚礼が、同じ日の同じ刻に売れております。こちらの紙は、三つ目でございました。
「……三日後なんです」
その方は、紙の端を見ながら仰いました。
「二度目なので。……簡単でいいですって、言ったんです。自分で」
坂の下で、鐘が鳴りました。低いのが二つ、高いのが三つ。
ゾルド様は、悪人らしい台詞を一つも仰いません。仕事は回す、値も出す、ただし花嫁は選べない。この街でいちばん厄介なのは、そういう申し出でございます。
次回、その真似の式が一つ崩れます。壊れた式を拾いますのは、たいてい近くにいる者でございます。




