第17話 ミレーユの一日
坂の曲がり角に、ミレーユ様が立っておられました。外套は召しておられます。ただ、留め金が上から二つめまでしか掛かっておりませんでした。人に着せてもらう外套を、一人で着られた形でございます。
「あの」
「はい」
「宿は、こちらでよろしいでしょうか」
銀の梯子亭の看板は、その方の頭の上に出ておりました。梯子の絵は、塗り直したばかりで青うございます。
「こちらでございます。中は暖こうございますので、どうぞ」
◇
食堂の卓を一つ拭いて、湯を一杯お出しいたしました。この街では冬に湯を出します。茶葉は入れません。坂を上ってきた方の指が戻るまで、ただ湯を持たせておくためのものでございます。ミレーユ様は、両手で杯を持たれました。
「あたたかい」
「はい」
「……あの、わたし、何を頼みに来たわけでもないんです」
「はい」
「ただ、お会いしたくて」
ミレーユ様は、杯の縁を指でなぞられました。
「あなたが七年、何をしていたのか。わたし、今も分かっていないんです」
わたくしは、向かいには掛けずに、卓の脇に立っておりました。
「殿下が仰るには、式のことは全部あなたがやっていたと。でも、全部って、どのくらいなんでしょう」
「巻紙で、厚みが指四本ぶんございます」
「……それ、読むと分かりますか」
「読めば分かります」
「わたし、見せていただいたんです。白の間で。開いてみたんですけど」
ミレーユ様は、少し笑われました。
「どこから読めばいいのか、分からなくて」
◇
その方は、それから、たいへん朗らかにお話しになりました。王都へ移られたのが四か月前。王家の離れに部屋をいただいて、侍女が二人ついたそうでございます。ただし借りもので、三日ごとに人が替わるとのことでございました。
「みなさん、よくしてくださるんです。ただ、三日で替わるので、前の方に言ったことをもう一度言うことになって。それが少し」
「はい」
わたくしは、数えておりました。昨日この方に付き添って坂を上ってきた者は、一人もおりません。今日も一人でいらっしゃいます。二十一人のうち、この方のために動く役を割り当てられた者が、一人もおりません。
割り当てというものは、書き落とせば必ず穴が開きます。穴が開いているということは、書いた者がいないということでございます。
「衣装は、まだ採寸に来ていただけていなくて。冬になる前には来るって伺っていたんですけど」
「今は冬でございます」
「そうですよね」
ミレーユ様は湯を一口飲まれました。
「お名簿は、自分で書きなさいと言われました。招く方のお名前を書くんだそうです。千二百四十名ぶん」
「はい」
「その中に、鉢合わせてはいけない組が十一組ある、と伺いました」
わたくしは、そのとき初めて、卓の上に手を置きました。
「どなたとどなたか、お聞きになりましたか」
「いいえ。ご自分でお調べくださいと」
名簿の頁の端は、折ってございます。十一組ぶん、端を折って、七年かけて増やしてまいりました。折ってあることの意味を知る者は、今のところわたくしだけでございます。もっとも、頁を繰りさえすれば、折り目は目に見えます。誰も、繰っておられないのだと思います。
「王妃陛下の女官長様には、男爵家の作法は存じませんので、と仰っていただきました。それはそうですよね。存じないものは、存じないですし」
「はい」
「大聖堂の日取りは、三度動きました。三度目は、まだ」
「はい」
「花は、温室のぶんが枯れてしまったそうです。冬ですし」
「はい」
ミレーユ様は、そこまで仰って、それから小首をかしげられました。
「あの。式次第って、何でしょう」
わたくしは、その言葉を、この街に来て二度目に聞きました。一度目は、坂の中ほどの宿の帳場で、白の絹を着せられたまま座っていた十七の娘からでございます。——同じ言葉が、同じ調子で出た。
「本日の段取りを書いたものでございます」
「段取り」
「何時に鐘が鳴り、どの戸が開き、どなたが先に立ち、どなたが後に座るか。それを書いたものでございます」
「そんなもの、いるんですか」
「無くても、式は挙がります」
「じゃあ」
「無いと、誰も動きません」
「命じれば、動くのではないでしょうか」
「命じられた方は、何をなさるかをご存じないと、動けません」
「……そういうもの、ですか」
「そういうものでございます」
ミレーユ様は、しばらく杯を持ったままでおられました。
「……そう、なんですね」
「はい」
「わたし、真実の愛があれば、そういうのは、なんとかなると思っていたんです」
「はい」
「みなさん、当日になれば、動いてくださると思っていて」
わたくしは、卓の脇から半歩、前へ出ました。
「ミレーユ様」
「はい」
「ご依頼でございましたら、伺います」
その方は、目を丸くされました。それから、たいへん明るく笑われました。
「ありがとうございます。でも、大丈夫です」
「さようでございますか」
「当日になれば、みなさん動いてくださいますから」
わたくしは、それ以上は申しませんでした。ここで申し上げますと、それは押し売りになります。押し売りをした式は、花嫁のものになりません。花嫁のものにならない式は、わたくしの仕事ではございません。——けれど、あと三度は言えたと思う。
「あの、ひとつだけ伺ってもいいですか」
「はい」
「七年って、長いですよね」
「七年でございます」
「よく、続きましたね」
その方は、悪気なくそう仰いました。悪気があれば、こういう言い方にはなりません。
「湯、ごちそうさまでした」
ミレーユ様は立ち上がって、外套の留め金を上から二つ掛けられました。三つめは掛かりませんでした。わたくしは、それを掛けました。
「あ……ありがとうございます」
この方は、二度お目にかかって、二度とも礼を仰いました。戸口のところで、その方は一度振り返られました。
「あの、もし——」
そこで止まって、少し考えて、それから首を振られました。
「いえ。なんでもないです」
◇
夕方、クレム様が食堂に来られました。掛けずに、卓の端に手を置いて立っておられます。
「宴方。ゾルドという男を知っているか」
「宴商会の元締めの方でございますね。お目にかかったことはございません」
「四十五だ。あんたの登録を渋った側の親玉でもある」
「はい」
「そいつが、あんたの看板を書き写していた」
「看板を」
「花嫁専門、というのと、祝宴師、というのを。帳面に貼り付けて、南の宿場のほうへ持っていった。安く請けるらしい」
「請けるのは、構いません」
「作れる腕があればな」
クレム様は、そう仰って、卓を指の背で一度叩かれました。
「壊れた式は、誰かが拾う。拾うのは、たいてい近くにいる奴だ」
入れ替わりに、ニナが表から駆け込んでまいりました。外套も着ずに走ってきたようで、耳が赤うございます。
「あのさ、あのさ。客館の話、聞いた」
「まだでございます」
「王都の人たち、明後日ここで式やるって。二人だけで」
ニナは肩の筒を下ろして、卓に立てました。
「聖堂も卓も、公国のほうで用意するんだって。招く人はリンデンから来た二十一人だけ。それで、あの人たち、それで十分だって言ってるって」
わたくしは、指を折りました。明後日。
——二日で組める式は、無い。
憎むつもりで書きはじめた人物が、いちばん書きやすくなることがございます。ミレーユ様もまた、式を作れません。どなたも教えてくださらなかったからでございます。
次回、二人だけの式が挙がります。招かれているのは、王都から来た二十一人だけ。アデルは、頼まれておりませんので、何もいたしません。




