第16話 お断りいたします
客館の三階は、十日ぶん押さえてあると伺っておりました。三階の廊下には、侍従の方が七人おられました。七人とも壁際の長椅子に掛けて、何もしておられません。荷は八つ。積んだままで、紐も解けておりません。四か月ぶん動いていない荷の積み方でございます。
廊下の突き当りに、水差しと杯が一つずつ置いてございました。杯は伏せたままでございます。お一人だけ、膝に巻紙の写しを載せておられる方がありました。開いてはおられません。載せたまま、廊下の端をご覧になっておりました。
通されましたのは、いちばん奥の部屋でございます。窓が二つ。卓が一つ。椅子は四脚ございましたが、掛けている方は一人でございました。ミレーユ様は、おいでになりません。
「掛けろ」
「立っております」
「掛けろと言った」
「掛けますと、話が長くなります」
殿下は指で卓を一度叩かれて、それきり、その話はなさいませんでした。
「アデル。式をここで挙げる」
「ここ、と仰いますと」
「カルヴァンだ。この街には各国の婚礼が集まると聞いた。作法の分かる者がおり、聖堂があり、卓を組む職がある。王都で三度動いた日取りが、ここでなら動かん」
「さようでございますか」
「お前が作れ」
わたくしは、窓の外を見ておりました。坂の下で、婚礼の鐘が鳴っております。低いのが二つ、高いのが三つ。今日もどこかで、どなたかの婚礼が始まったのでございます。
「アデル。聞いておるのか」
「はい。おめでとうございます」
「……その返事は、前にも聞いた」
「はい」
殿下は椅子の背に寄りかかられました。
「儀典長の布告のことだが。前婚約者の引き継ぎに不備があった、というあれだ」
「はい」
「あれは、取り下げさせてもよい」
「さようでございますか」
「お前の家名にも関わることだ。ヴェルスハイム侯爵家は、今も王都にある。父君も、姉君も」
「儀典長は、ほかに何と仰っておられますか」
「引き継ぎの控えを出せと言っておる。お前が持ち去ったのだろうと」
「持ち去ってはおりません」
「では、どこにある」
「置いてまいりました」
「どこにだ」
「置いてまいりました、と申し上げております」
殿下は、それ以上はお尋ねになりませんでした。控えの帳面がどこにあるかは、七年のあいだ、一度もお尋ねにならなかったことでございます。尋ねたことのないものの在り処は、思い出しようがございません。
——ここで折れる方が、七年のあいだに何人かいらっしゃった。
わたくしは、その方たちが折れたときの顔を憶えております。折れる直前に、みな一度だけ、卓の上の何かを見るのでございます。杯でも、皿でも、書付でもよろしいのですが、必ず一度、目を落とされます。わたくしは、卓の上を見ませんでした。
「殿下。お断りいたします」
部屋が静かになりました。殿下は、聞き違えたお顔をなさいました。断られたことのない方のお顔でございます。
「……何と言った」
「お断りいたします」
「もう一度言ってみろ」
「お断りいたします。何度でも同じ言葉になりますので、数はお任せいたします」
「理由を言え」
「わたくしは、花嫁の側にしかつきません」
わたくしは、卓の脇に立ったまま申し上げました。
「カルヴァンでは、花嫁専門の祝宴師と看板に書いております。受けるのは花嫁のご依頼だけでございます。席次も、卓も、灯も、花嫁の一日のために組みます。それ以外の目的では組みません」
「私の式には花嫁がおる」
「はい。殿下の結婚式には、花嫁がいらっしゃいます」
「ならば」
「わたくしは、その方から一度も呼ばれておりません」
◇
殿下は、しばらく黙っておられました。それから、たいへん短く笑われました。
「ミレーユが頼めばやるのか」
「花嫁からのご依頼でしたら、伺います」
「あれは頼まん」
「なぜでございますか」
「そういうことを気にせん女だ。式がどうの、席次がどうのと、一度も言ったことがない」
殿下は、そう仰いました。その言い方を、わたくしは知っております。七年のうちに、幾度も聞きました。気にしない方だから頼まれない、というのは、頼み方を教わっていない方への言い方でございます。わたくしは、袖の丈が二分あまっていたことを思い出しました。
「殿下」
「なんだ」
「昨日、宿でお召し上がりになりましたのは鴨でございます」
「それがどうした」
「鶏の二割を鴨に振り替えましたのは、四年前の冬が初めてでございます。此度で三度目でございました。二割と申しますのは、八十羽でございます。八十羽ぶんの献立の並びを、前の晩に書き直しました。厨房頭には、いずれのときも申しておりません。申しますと、その者が困りますので」
「……何の話だ」
「わたくしがしておりましたのは、そういう仕事でございます」
殿下は答えられませんでした。それから、椅子を引いて立ち上がられました。
「アデル。お前は、いくつになった」
「二十二でございます」
「そうか」
殿下は、窓のほうへ歩いていかれました。
「他人の式ばかり作って、お前は、自分の式はどうする」
わたくしは、指を折りかけました。花、衣装、席次。七年のあいだ、この三本から数えはじめる癖がついております。
けれど、折る先がございませんでした。親指だけが、途中まで曲がったところで止まっております。わたくしは、その手を袖の中へ戻しました。
「……答えられんのか」
「はい」
殿下は、こちらをお向きになりませんでした。
「明日まで待つ」
「お答えは変わりません」
「明日まで待つと言った」
わたくしは頭を下げて、部屋を出ました。
◇
階段を下りますと、下の踊り場でニナが座っておりました。巻紙の筒を膝に立てて、床の石を数えているようでございました。
「終わった?」
「終わりました」
「何て言われたの」
「作れと仰いました」
「——で?」
「お断りいたしました」
ニナは筒を担いで立ち上がりました。
「あんた、王太子に断ったの」
「はい」
「首とか飛ばないの」
「国が違いますので」
「便利だね、国」
「はい」
「あたし、今の見たかったな。断るとこ」
「面白いものではございません」
「面白いって。ぜったい面白いよ、それ」
外へ出ますと、クレム様が石段の下に立っておられました。外套の肩に、また霜がついております。
「アデル。断ったな」
「なぜお分かりになりますか」
「上の窓が開いた。人が窓を開けるのは、部屋の中が思いどおりにならんときだ」
クレム様は坂の上を見上げて、鼻から息を出されました。
「王太子ってのは、断られたことがないんだな」
「そのようでございます」
「明日また呼ぶぞ」
「明日まで待つと仰いました」
「待つと言う奴は待たん」
「クレム様」
「なんだ」
「明日、あの方々は何をなさると思われますか」
「知らん。俺は卓が出たときだけ考える」
「卓は、出ますでしょうか」
「出るだろうな。二十一人だ。飯は食う」
クレム様はそう仰って、坂を下りていかれました。わたくしとニナも、その後を歩きました。石の道は霜で白く、下るほうが上るより気を遣います。半ばまで来たところで、ニナが立ち止まりました。
「ねえ」
「はい」
ニナは、坂の下の曲がり角のほうを指しました。
「あの人、さっきからずっとあそこにいるよ」
「どなたが」
「昨日の、女の人のほう。……一人だよ。誰もついてない」
断る理由は、意地でも仕返しでもございません。「花嫁の側にしかつかない」と看板に書いてしまったからでございます。八文字は、思ったより重うございました。
次回、その婚約者のほうが、一人で坂を上ってまいります。供は、どなたもついておりません。




