第15話 殿下が、いらっしゃいました
旗は二本でございました。港から丘へ上がる白い石の道を、馬車が三台。先頭の旗は濃い青に銀の縁。リンデン王家のものでございます。街の人は足を止めておりました。婚礼の鐘には足を止めない街でございますが、旗には止まるようでございます。
わたくしは坂の中ほどの宿の窓から、それを見ておりました。馬車が三台。従者が十七。騎馬が四。合わせて二十一。クレム様が関で数えた数と合っております。
——ひとつだけ、合わないものがある。
二十一のうち、女の従者が一人もおりませんでした。
◇
「お客さん」
女将が階段を駆け上がってまいりました。手に前掛けを握ったままでございます。
「うちに来るって。使いが来た。今日の午後」
「どなたが」
「殿下だよ。リンデンの、王太子殿下」
女将は前掛けを絞るように握って、それからわたくしを見ました。
「あんた、逃げなくていいのかい」
「宿を空けますと、女将がお困りになります」
「そういう話をしてんじゃないよ」
「卓を出します。梁が八本ございますので、並べ替えれば十六人まで入ります。何名様でしょうか」
女将は口を開けて、それから閉じました。
◇
卓は五人ぶん組みました。殿下と、お連れの方が一人。侍従が三人。残りの十六人は外に立つ形でございます。カルヴァンの客館ではなく坂の宿に来るというのは、外交ではございません。ニナが皿を並べながら申しました。
「ねえ。王太子ってさ、何食べんの」
「人と同じものを食べます」
「つまんな。——で? あんた、逃げないの」
「逃げますと、卓が組めません」
「そういうとこだよ、あんたの変なとこ」
クレム様は戸口の内側に立たれました。警固でございます。宴の席ではないはずでございますが、卓が出ている以上、この方の仕事の内でございます。一言も仰いません。
昼を過ぎて、外の石畳に馬の音がいたしました。セドリック殿下は、四か月前と同じお顔でいらっしゃいました。外套の留め金の位置が二分ほど下がっておりましたので、旅のあいだに掛け直しをなさったのだと思います。以前でしたら、わたくしが直しておりました。
「アデライド」
「アデルでございます」
「……なんだと」
「家名は置いてまいりましたので、アデルでございます」
殿下は少しのあいだ黙って、それから椅子のほうへ歩いてこられました。もうお一方が、そのうしろから入っていらっしゃいました。ミレーユ・オルセン様でございます。二十におなりだと伺っております。三月の園遊会で、殿下が席をお移しになった相手の方でございます。
「はじめまして。ミレーユです」
その方は、両手を前で重ねて、ちゃんと頭を下げられました。わたくしは、三つ数えました。
ひとつ。指に環がございません。婚約の環は、王家では申し入れの日に渡すものでございます。
ふたつ。お召し物に濃い青が一色もございません。袖にも、帯にも、髪の飾りにも。男爵家の色だけでお作りになった衣装でございます。
みっつ。袖の丈が二分あまっております。王都の仕立て屋のバルクが入っておれば、この丈で外へは出しません。
——四か月。この方のために、王都で誰も動いていない。
殿下が椅子に掛けられました。侍従が三人、順に掛けます。ミレーユ様は、椅子のうしろに立っておられました。誰も引きません。侍従の三人は自分の椅子に掛けており、殿下は卓の上をご覧になっており、扉の外の十六人は外におります。
わたくしは卓を回って、その椅子を引きました。
「どうぞ」
「あ……ありがとうございます」
ミレーユ様は少し驚いたお顔で、腰を下ろされました。この二日で、この一行のどなたかがこの方に礼を言われたかどうかは存じません。ただ、この方がわたくしに礼を仰ったのは、お会いして三十数えるうちのことでございました。殿下は、一度も仰っておられません。七年のあいだ、一度も。
「アデ……アデル」
「はい」
「大聖堂は、空のままだ」
殿下は卓の上で指を組まれました。
「日取りが三度動いた。三度目はまだ決まっておらん。花は温室のぶんが枯れた。北廊の意匠は白のまま塗られておらん。客名簿は、儀典部が二度作り直して、二度とも鉢合わせが出た」
「さようでございますか」
「儀典長は、引き継ぎに不備があったと申しておる」
「布告は拝見いたしました」
「反論せんのか」
「いたしません」
「なぜだ」
「わたくしが反論いたしますと、王都の式次第を知る者が、もう一度王都のものになります」
殿下は、指を組み直されました。
「巻紙は、白の間の卓に置いてまいりました。厚みは指四本ぶんございます。お読みになりましたか」
「儀典部の者が読んでおる」
「どこからお読みになりましたか」
殿下は答えられませんでした。
「六十一枚目から六十三枚目に、北廊の意匠が三案ございます。花市の商人が、どれで通りましたかと二度尋ねてまいりました」
「……知らん」
「はい」
わたくしは、それ以上は申しませんでした。申せば、教えたことになります。教えれば、引き継ぎの続きになります。引き継ぎは、四か月前に終わっております。殿下がわたくしをご覧になりました。
「……お前は、変わらんな」
変わっておりますが、変わったところは殿下からは見えない場所にございます。
「殿下」
「なんだ」
「お食事になさいますか。宿の飯でよろしければ、鴨がございます」
「鶏ではないのか」
「この街では、冬は鴨でございます」
殿下は皿をご覧になり、それから、たいへん短く息を吐かれました。二割を鴨へ振り替えたのは、七年のうちの何度目かの冬のことでございます。厨房頭には最後まで申しませんでした。ミレーユ様が、そのやりとりを見ておられました。それから小さな声で仰いました。
「……あの、お仕事、すごく大変だったんですね」
「いいえ」
「でも、鶏と鴨って、そんな」
「大変ではございません。数えるだけでございます」
ミレーユ様は、うなずくべきかどうか分からないお顔をなさいました。それから、思い切ったように仰いました。
「あの。わたし、殿下と、その、真実の愛で結ばれましたので」
「はい」
「だから、式のことも、なんとかなると思っていたんです」
「さようでございますか」
「……なんとか、なりますよね」
わたくしは、空の皿を下げました。
◇
食事は半刻ほどで終わりました。侍従の三人が先に立ち、外の十六人が馬車を回します。ミレーユ様は椅子を戻そうとなさって、うまく持ち上がらず、ニナが横から持っていきました。
「いいよ。あたしの仕事だから」
「あ、ごめんなさい」
「謝んなくていいよ。——で? あんた、宴の日取り、いつなの」
ミレーユ様が、口を開けたまま止まられました。ニナは椅子を担いで行ってしまいました。答えは返ってまいりませんでした。殿下は最後に立たれて、戸口のところでわたくしのほうを向かれました。
「アデル」
「はい」
「明日の朝、客館へ来い」
「ご用向きは」
「頼みたいことがある」
殿下はそれだけ仰って、外へ出られました。馬の音が坂を下りていきます。宿の食堂には、卓が五人ぶん残りました。皿が九枚。杯が五つ。引いた椅子が一脚。
わたくしは、椅子を戻しませんでした。
クレム様が戸口の内側から動かずに、それをご覧になっておりました。
四か月ぶりの再会で、アデルは眉一つ動かしませんでした。動いたのは椅子だけでございます。戻さなかったのも、椅子だけでございます。
次回、殿下のご用向きを伺います。お返事は、たぶんお察しのとおりでございます。
評価の☆は、卓に足す椅子の数として受け取っております。




