第14話 花のない婚礼
ろうそく屋は坂の下から数えて四軒目にございました。戸を開けますと、蝋の匂いがいたします。甘くはございません。獣の脂を煮た匂いに、少しだけ煙が混ざったような匂いでございます。
「宴方の人?」
奥から出てきたのが、ハンナでございました。十八におなりだそうでございます。腕まくりをして、手首まで蝋の白い粉をつけておられました。
「婚礼が七日後と伺いました」
「うん。ハインって人。北の炭焼き。悪くない人だよ」
「聖堂は、坂の上でございますか」
「そう。司祭様の」
わたくしは巻紙を出して、二十二の決まりを繰りました。以前、あの司祭様から一つずつ伺ったものでございます。白の絹。白の花のみ。灯は蝋の白。花は摘んだその日のもの。
「花は、どちらから」
ハンナが、手の粉を前掛けで払いました。
「無いよ」
「無い」
「霜が降りたもの。市も畳んだし。冬の婚礼はみんなそう。花無し」
「聖堂の決まりでは、花は白のみとございます」
「うん。だから、白い花が無いなら、無しでいいって。司祭様も、冬はいつもそうだって」
ハンナは笑いました。
「別に、いいよ。花くらい」
◇
その日の夕方、わたくしは物置を見せていただきました。蝋を煮る釜が三つ。芯の束。型枠。それから、天井から吊るした網の袋が一つ。
「それは」
「ああ、それ。母さんの」
ハンナが竿で下ろしてくださいました。袋の中は、乾いた橙の皮でございました。乾ききって、指で押すと軽く音がいたします。
「母さん、橙の木を植えててさ。庭の隅に。この街だと実は生るけど、花はほとんど咲かないんだ。寒いから」
「お母上は」
「三年前。……あのね、母さんの生まれた国だと、花嫁が橙の花を髪に挿すんだって。だからあたしのときは挿してやるって、ずっと言ってた」
ハンナは袋の口を縛り直しました。
「でも冬だし。花は無いし。しょうがないよね」
「はい」
「わたし、そういうの、いいから」
——この言い方を、わたくしは七年で何度も聞いております。いいから、と仰る方は、いいと思っておられません。ただ、頼んでよいものかどうかが分からないだけでございます。
「ハンナ様。灯は、何本お作りになりますか」
「聖堂の分? 四十本くらい。うちで作るよ。だってうち、ろうそく屋だもん」
「色は」
「白。決まりだから」
「白のままで結構でございます」
わたくしは、袋の橙の皮を一つ、指でつまみました。
「中を、変えます」
◇
蝋を煮ましたのは、婚礼の三日前の夜でございます。釜に蝋を落として、溶けたところへ、橙の皮を煮出した油を少しずつ入れます。入れすぎますと色が濁ります。濁れば「白」ではなくなりますので、決まりを破ってしまいます。三度目でようやく、色を変えずに匂いだけを残す量が取れました。杯に十六滴でございます。
「ねえ、これ何の意味があるの」
ニナが芯を切りながら申しました。巻紙の筒は肩から下ろして、床に転がしております。
「火を点けると、匂いがいたします」
「へえ。——で? 匂いがしたらどうなんの」
「存じません」
「知らないのにやってんの」
「はい」
ニナは芯を切る手を止めて、わたくしを見ました。
「あんた、たまに変だよね」
ニナは切った芯を束ねて、それから思い出したように申しました。
「ねえ。花が無いと、そんなに困るの」
「困りません。式は成立いたします」
「じゃあ、いいじゃん」
「はい」
「……じゃあ、なんで夜中に蝋煮てんの」
わたくしは杓子で釜の面を掬いました。白く固まりかけたところを、また溶かします。
「本日も成立いたします。十年後も成立いたします。ただ、ハンナ様は十年後に、この日のことを思い出されます」
「思い出すと、なんかあるの」
「思い出すものが、要ります」
ニナは芯の束を膝に置いたまま、しばらく黙っておりました。それから急に立ち上がって、釜のほうへ来ました。
「……あたし、油を入れる係やる」
「十六滴でございます」
「そのくらい数えられるって」
四十本の型に流し終えましたのは、明け方でございました。ハンナは釜の前で眠っておられました。腕まくりをしたままでございます。
◇
婚礼の朝は、よく晴れて、よく冷えました。聖堂の石は冷たく、息が白うございます。花は一輪もございません。壁も卓も、白い布のほかは何もない、冬の婚礼でございました。司祭様は白髪の、痩せたお方でございます。以前と同じように、決まりを一つずつ守っておいででした。
「灯は」
「蝋の白でございます」
「うむ。それでよい」
人が入りました。三十人ほどでございます。炭焼きの一族が多く、みな指の先が黒うございました。ハンナが白の絹で入ってこられました。髪には何も挿しておられません。挿すものが無いからでございます。誰かが小さな声で、花が無くて気の毒に、と申しました。
司祭様が灯を点けられました。四十本でございます。順に、端から。
十本目のあたりで、前の列の老婆が顔を上げられました。
二十本目で、後ろのほうがざわつきはじめました。
三十本目で、聖堂の中がすっかり橙の匂いになりました。冷えた石の匂いの上に、乾いた、少し苦い、日向のような匂いが乗ってまいります。老婆が、隣の方の袖を引いて仰いました。
「……橙だよ、これ」
「え」
「橙の匂いだ。ねえ、あんた覚えてないかい。マレンの庭の」
マレンというのが、ハンナのお母上の名でございました。わたくしはその名を、そのとき初めて聞きました。列のあちこちで、その名が出はじめました。マレンの庭。マレンが煮ていた皮。マレンが婚礼のたびに配っていた蝋燭。誰も花の話をしなくなりました。
ハンナは通路の途中で立ち止まっておられました。決まりでは、立ち止まってはならないとは書かれておりません。書かれていないので、司祭様も何も仰いません。ハンナは顔を上げて、天井のほうを見て、それから息を吸われました。深く、長く、吸われました。
式は決まりどおりに進みました。誓いの言葉は新郎から。指輪は新郎の家のもの。新婦は三歩下がる。二十二の決まりは一つも破られておりません。花は、最後まで一輪もございませんでした。
宴が終わりまして、外へ出ますと、坂の途中でハンナが待っておられました。白の絹のまま、外套も羽織らずに立っておられます。
「お客さん」
「はい」
「あれ、白かったよね」
「はい。白でございます」
「決まり、破ってないよね」
「一つも」
ハンナは自分の袖の匂いを嗅いで、それから鼻をこすられました。
「……あのさ。母さんの匂いって、こんなだったんだ」
わたくしは、袖の中で指を一本折りました。ハンナは何かもう一言仰るつもりのようでしたが、結局、聖堂のほうを振り返って、そのまま戻っていかれました。壁の内側から、まだ橙の匂いが出てまいります。四十本ぜんぶ燃え尽きるまでは、出続けるはずでございます。
坂の下でクレム様に会いました。外套の肩に霜がついておられます。夜どおし立っておられたような形でございました。
「宴方」
「はい」
「明日、王都の一行が着く」
わたくしは足を止めました。
「二十人でございますね」
「二十一人だ。関で数えた。旗が二本、馬車が三台」
クレム様は、坂の下の港のほうへ顎を向けられました。
「先頭に立ってるのは使者じゃない。リンデンの王太子だ」
決まりを一つも破らずに、式の匂いだけを変える回でした。白い蝋は白いまま、中に橙の皮を仕込みます。四十本燃え尽きるまで、聖堂は誰かの台所の匂いがいたします。
次回、王都から二十一人が着きます。旗が二本、馬車が三台。先頭に立っているのは、使者ではございません。




