第11話 わたくしは、控えを置いてまいりました
布告が貼られてから、二日でございます。その二日で、話が二つ流れました。一つは坂の上の菓子屋の娘さんの婚礼。もう一つは港の船具屋のご次男の婚礼。菓子屋のお内儀は、わざわざ宿までお見えになりました。
「あのね、うちが疑ってるんじゃないの。ほんとよ」
「はい」
「でも、来る客がねえ。掲示の紙を毎日見てるでしょう。当日、あれこれ言う人が一人でも出ると、うちの子が」
「承知いたしました。手付は、お返しいたします」
「……そういうところが、余計にね」
お内儀は、それだけ仰ってお帰りになりました。丁寧でございました。丁寧なほど、早うございます。——二日で、二つ。三日目の朝、宴商会からヤン様がお見えになりました。
「登録の話ですけどね」
「はい」
「無かったことに、ということで。商会の帳は公のものなので」
「承知いたしました」
「ゾルドさんも、気の毒だと仰ってました。よその国の揉め事に、こっちが巻き込まれる筋合いはないって」
ヤン様は帰り際に、看板を一度ご覧になりました。
「その看板、下ろしたほうがいいですよ。字が大きいんで、遠くからでも読めるんです」
ヤン様が坂を下りていかれたあと、ニナが看板の前に立ちました。
「下ろす」
「いいえ」
「あいつ、また来るよ」
「来ていただいたほうがよろしゅうございます。あの方は、こちらの話を持って帰ってくださいますので」
「……あんた、味方いないと思ってない」
「はい」
「腹立つなあ」
ニナは、看板の下の埃を袖で払いました。それから、払ったところをもう一度払いました。
◇
昼過ぎ、港の広場を通りました。掲示の前に、まだ人が立っております。字の読める者が読み上げますので、同じ紙が何度も声になります。掲示の脇に、見慣れない方が立っておられました。
外套が薄うございます。この街の冬をご存じない厚さでございました。脇に帳面を抱えて、腰から矢立を提げておいでです。
「もし。リンデン王国儀典局の書記で、フェルトと申します。閣下のお指図で、こちらへ参りました」
フェルト様は帳面をお開きになりました。頁の端が、まだ新しゅうございます。
「その紙にございます前婚約者について、この街でお困りのことがございましたら、伺います。些細なことで構いません。銀の勘定でも、口の利き方でも」
「困った、ってほどのことはなあ」
「一言で結構でございます。書き留めます」
樽の脇にいた男が、腰を上げました。
「そういや、あの女、荷を三日も関で止められてたぞ」
「三日」
フェルト様が、筆を執られました。
「王都で不始末をした女だとよ」
「引き継ぎってのは、書き置いていくもんだろう」
「書けなかったんじゃないのか。女だし」
「花嫁専門だなんて看板出しやがって。よくやるよ」
フェルト様は、そのたびに頭を下げて、そのたびに筆を動かされます。通り過ぎるつもりでございました。声がいたしました。
「関で、俺がその荷を全部開けた」
クレム様でございます。この方が宴の席で口をきかれるのを、わたくしは一度も見たことがございません。人が笑うたびに首を少し動かして、笑った者の手元をご覧になる。それだけの方でございます。その方が、広場のまんなかで喋っておられました。
「三日ぶん足止めして、全部読んだ。客に番号が千二百四十まで振ってあった。南門の交代表に、雨の日の人数まで書いてあった。返礼の品が届いてない家に赤い印がついてて、その家を上座に置く理由まで書いてあった」
「……そりゃ」
「不備ってのは、どの頁のことだ」
フェルト様は、筆を筒へお戻しになりました。
「わたくしは、書く役でございます。中身は存じません」
「そうだな。書いた奴の名前は、その紙に書いてある」
「閣下のお名前でございます」
掲示のほうは、ご覧になりません。
「前婚約者の引き継ぎに不備があった証しを探せ、と閣下は仰っています。ですから、探しております」
「出なかったらどうする」
「探せば、出ます」
クレム様は、その帳面をしばらくご覧になって、背を向けられました。人垣が、少し薄くなりました。——この国でただ一人、あれを読んだ人だ。フェルト様が、そこで初めてこちらへ向き直られました。
「ヴェルスハイム様」
その名で呼ばれましたのは、この街では初めてでございます。
「アデルでございます」
フェルト様は、帳面に何かをお書きになりました。
「一つ伺います。七年ぶんの控えは、どちらに」
「王都の、屋敷の棚でございます」
「棚」
「背を東に向けて置いてまいりました」
フェルト様は、それも書き留められました。
「ご丁寧に、ありがとうございます。三日ほど、この街におります」
わたくしは、頭を下げました。——この方は、わたくしを憎んでおられない。
◇
その晩、食堂の卓に三人でおりました。ニナが巻紙の筒を横に倒して、その上に肘を置いております。
「あのさ。証拠、無いの」
「ございます」
ニナが顔を上げました。クレム様も、杯を置かれました。
「十四冊ございます。年に二冊、七年ぶん。式次第の写しと、どの変更が誰の印で通ったかを、日付とともに書いてまいりました」
「印」
「決裁の印でございます。式のことは、わたくしが一人で決めているように見えますが、変えるときには必ずどなたかの印が要ります。誰の印で通ったかを、その日のうちに書いておきます」
「なんでそんなもん書き始めたんだよ」
「十六の年に、鐘の順を一つ変えたことがございました。わたくしが言い出したことではございません。ですが当日、行列が半分ほど鐘の下を通ることになりまして」
「で」
「あとで、誰の指図でこうなったと訊かれました」
ニナが、口の端を下げました。
「……うわ」
「それから、書くようになりました」
「一冊、何枚くらい」
「二百枚ほどでございます。式次第の写しが表、決裁の控えが裏。表と裏で日が合わないところには、印を打ってございます」
「合わないことあるの」
「ございます。決めた日より前の日付で通っている変更が、七年で十一ございました」
クレム様が、こちらをご覧になりました。
「……それは、どういう意味だ」
「意味は書いてございません。日と、印と、どちらが先だったかを書いただけでございます」
「意味は」
「読んだ方が、お決めになることでございます」
クレム様は、それきりお尋ねになりませんでした。
「どこにあんの」
「王都の、屋敷の棚でございます。背を東に向けて置いてまいりました」
「持ってこなかったのか」
クレム様が仰いました。
「はい。わたくしは、控えを置いてまいりました」
「なんでだ」
「持ってまいりますと、いつか誰かが『あの女が持ち出した』と申します。そう申されますと、そこから先は持ち出しの話になります。中身の話が、終わってしまいます」
わたくしは、卓の上で指を折りました。
「置いてまいりますと、あれは王家の記録でございます。王家の記録は、王家の方にしか読めません。読めば、書いてあるとおりのことが書いてございます」
「……読むかね、あいつら」
「いつかは」
ニナが、両手で頭を抱えました。
「気が長すぎない?」
「七年ぶんでございますので」
「じゃあさ。あの布告の話、誰の印なの」
ニナが、身を乗り出しました。
「あんた、知ってるんでしょ。全部書いたんだから」
「憶えております」
「言いなよ」
「申しますと、わたくしが申したことになります」
「なんないよ。ほんとのことじゃん」
「わたくしが申しますと、次に誰かが『あの女がそう言っている』と申します。帳面が申しますと、帳面がそう書いてあることになります」
わたくしは、卓の上のこぼれた酒を指で寄せました。
「わたくしの口は、七年ぶんの重さがございません。帳面のほうが重うございます」
ニナが、椅子の背にもたれました。
「……あんた、ほんとに面倒くさい人だね」
「はい」
クレム様が、めずらしく笑われました。笑い方がお下手でいらっしゃいました。
「あんた、ほんとに何と戦ってきたんだ」
「結婚式でございます」
しばらく黙っておりましたが、わたくしは一つだけ申し上げました。
「母が、この街で宴を作っておりました」
クレム様の手が止まりました。
「初耳だな」
「申しませんでしたので」
「今も、いるのか」
「いいえ」
それきりにいたしました。母の話は、まだ長うございます。クレム様は、杯を置いて立ち上がられました。
「一つ言っとく。関に、リンデンの通行札が三枚出た」
「婚礼のお客様でございましょうか」
「荷が無い。婚礼の客は、荷が要る」
「一枚は、昼のあれだ。残りの二枚は、まだ顔を見ていない」
三枚。わたくしは、指を三本折りました。一本は、帳面を提げておいででした。あとの二本が、どなたかは存じません。
「明日から、あんたの宿の前を通る」
「警固でございますか」
「散歩だ」
戸を叩く音がいたしました。外套の肩に、北の道の土をつけた男でございました。
「ハーゲン家の使いだ。……嫁ぐのが、書付の娘と違うんだが、受けてもらえるか」
クレムが初めてアデルの側に立った回でした。理由は正義感ではございません。「あの紙は、うちの公の掲示に貼ってある」から、だそうです。この男は、その順序でしか人を助けません。
次回、書付とは違う娘が嫁ぎます。ヴェールを直す者を、一人。下にどなたの顔があるのかは、直す者にしか分かりません。




