父と母と、変わらない食卓
リビングの窓から差し込む午後の日差しが、テーブルクロスをうっすらと照らしていた。
そこに並んだ湯気の立つ茶碗や皿の輪郭が、どこか温かい影を落としている。
父は新聞を小脇に置き、母は台所から急ぎ足で戻ってきた。
その姿を目にするたびに、家族で囲む食卓の匂いが鼻先をくすぐるような気がした。
「はい、味噌汁できたわよ。」
母が笑みを浮かべながら、湯気の立つ味噌汁をテーブルにそっと置く。
父は「お、うまそうだな。」と新聞を横に置いて、お椀に手を伸ばした。
その光景がまるで昨日も一昨日も変わらず続いているようで、安心感と懐かしさが絡み合う。
箸を握った父が魚の切り身をつつき、母が「お醤油足りる?」と問いかける。
僕は「うん、大丈夫。」と首を振りながら、ご飯を口に運ぶ。
父は決まって「これからテレビのニュース見るか。」と呟き、母は「あとでゆっくりね。」と受け答える。
そのやり取りが聞こえると、まるで食卓全体がほっと落ち着くようだった。
しばらくして、おかずを取るタイミングや味噌汁をすする音までもが、少し前に経験したのと同じ順番で進んでいくような気がしてくる。
母が「今日は大根が安かったから、たっぷり煮たの。」と笑顔で話す。
父が「大根は体にいいからな。」と返し、僕は心の中でそれを微笑ましく聞いている。
けれど、その言葉が一字一句同じように耳に届くとき、この場面が繰り返されているのではないかと妙な感覚を覚えた。
もう一度、母の「はい、味噌汁できたわよ。」という声が響く。
父は相変わらず新聞を脇に置いて「お、うまそうだな。」と言う。
同じ湯気が上がり、同じ魚の切り身が皿にのっている。
箸でほどよくほぐれた身のかたちまでもが、さっきと変わっていないように思える。
それでも目の前にある食卓は不自然には見えず、むしろ自然に感じられるのが不思議だった。
食事を終えたあと、父がテレビのリモコンを探しながら立ち上がろうとする。
母は「食後にお茶でも飲んでから見ればいいわよ。」と止める。
その声に従って、父は小さくうなずき、椅子に腰を下ろした。
卓上ポットから湯飲みに注がれるお茶が、かすかに立ち上る香りとともに心を和ませる。
何度繰り返しても、この一連の動作は違和感なく進むから、まるで時が止まった中にいるかのようだった。
次の瞬間、母の声がまた聞こえる。
「はい、味噌汁できたわよ。」
まるで始めからやり直しをするように、父が新聞を脇に置き「お、うまそうだな。」と微笑む。
僕の記憶の中では、すでに食事を終えたはずなのに、同じ食卓が再び始まろうとしている。
同じ皿、同じ湯気、同じ父と母の表情が、一枚の絵のようにそこにある。
父はまた魚の切り身を箸でほぐし、母は「お醤油足りる?」と尋ねる。
まったく同じ声色、同じタイミングで。
僕は先ほどと同じように「うん、大丈夫。」と応じながら、何かが巡り続けている感覚を抱きしめる。
繰り返される夕餉の香りは淡く穏やかで、終わることを知らない夢を見ているようでもあった。
時計の針が進んでいるのかどうか確かめようと目をやっても、針が動いているのか止まっているのかわからない。
あるいは、自分だけが別の時空に囚われているのかもしれないとも思う。
それでも父と母の姿がそこにあれば、何度同じ食事を繰り返しても構わないような気持ちになった。
声に出さずとも、一緒に囲むこの食卓があれば十分だと思えてくる。
「食後にお茶でも飲んでから見ればいいわよ。」
再び聞こえてくる母の声に、父は「そうだな。」と頷いて腰を下ろす。
湯飲みに注がれたお茶の湯気が立ち上る。
少し曇った窓の外には、同じ穏やかな日差しが射しているように見える。
心地よい繰り返しのなかで、家族の時間が永遠のように続いていった。




