川沿いに響く足音とコーヒーの湯気
風の向きで季節の移ろいを知るようになったのは、彼女と犬を連れて河原を歩くようになってからだ。
高い空を渡る雲が太陽の光をさえぎり、川面に白く反射した瞬間、彼女が軽くまぶしそうに目を細める。
その横で、小型犬の尻尾が忙しなく揺れているのを見るたびに、些細な幸せが胸に灯った。
「今日も散歩しよっか。」
彼女の声は穏やかで、犬の首輪を手に持ったしなやかな指先がわずかに震えているように見える。
きっと気のせいだろうと思い、僕は何も言わずに笑みを返した。
河原へ向かう小道は舗装されていないので、靴底には小石が入り込む。
それでも彼女の足取りは軽かった。
土の匂いに混じって、川からの湿った風がそっと頬を撫でる。
手入れの行き届いた歩道の脇には、背の低い草とタンポポがちらほら揺れていた。
犬が好奇心をくすぐられたのか、鼻をくんくんと鳴らして立ち止まる。
それを待つ彼女の姿に、どこか優しさがにじんで見えた。
やがて歩き疲れると、川沿いに並んだベンチに腰を下ろす。
僕が持ってきた小さな魔法瓶を取り出すと、まだ少し熱が残るコーヒーの香りがゆっくりと広がった。
「コーヒー飲む?」 彼女に紙コップを差し出すと、ほのかに湯気が立ちのぼる液面を覗き込んで「いい香り。」とつぶやいた。
彼女と犬と僕の三人で佇む時間は、切り取られたフィルムのように静かだ。
同じように川辺を散歩している人々の足音が遠くで響き、ときどきジョギングをする人影が通り過ぎる。
犬は彼女の足もとで落ち着かない様子だったが、少しすると丸まってひと休みを始める。
ベンチの端で肩を寄せ合うように座っていると、いつかこのひとときを繰り返し思い出すだろうと漠然と考えた。
しばらくして、また歩き出そうと立ち上がる。
すると、なぜか同じ情景に戻ってきたような感覚に襲われる。
あの小道、あの川面、そして彼女の「今日も散歩しよっか。」という声が、ついさっきと全く同じ角度で胸に入り込んでくる。
犬の尻尾の振り方までもが先ほどと寸分違わないように思えて、足元がふわりと浮くような心地がした。
「今日も散歩しよっか。」
彼女の表情も、首輪を握る指先も変わらない。
同じ土の上を踏みしめているはずなのに、そこに違和感はなく、むしろ懐かしいような安心感が広がる。
わずかに日が陰っている気がして空を見上げると、やはり白い雲が川面を淡く照らしていた。
犬が草むらへ鼻を突っ込む場面も、ベンチに腰掛けてコーヒーを飲む光景も繰り返される。
魔法瓶を開けるたびに立ち上る湯気は同じ香りを運び、彼女は変わらず「いい香り。」とつぶやく。
僕は何度も小石を払う仕草を繰り返しながら、同じ午後を延々と歩いているような気持ちになった。
それでも奇妙に心地いいのだから、不思議なものだ。
川の流れは一定のリズムで耳に届き、遠くの橋を渡る車の音がかすかに混じる。
彼女が僕の肩に軽く寄りかかる瞬間も、犬があくびをする動作も、まるで映画のワンシーンを繰り返し再生しているかのようだ。
それはただの思い出なのか、それとも現実なのか。
どちらでもいいとさえ思えてくる。
同じ道を歩いて、同じベンチに座って、同じコーヒーを飲む。
彼女との会話も同じフレーズが繰り返されているようだが、それでも退屈しない。
時折笑い合うと、その笑い声だけが鮮やかに色づいて、まるでこのループの中で唯一の変化を与えてくれているように感じられる。
足もとで微睡む犬を見つめながら、僕はもう少しだけこの場所にいたいと考える。




