第1話
「アステル、そろそろ出ないと遅れますよ」
美しく伸びた銀髪を揺らし、セレンが声をかけた。既に支度を終えた彼女は、青い目を鏡の前の少年へ向けている。
鏡に映るのは、黒髪に紅い目をした小柄な少年だった。アステルは制服の襟元を整え、胸元に透明なペンダントがあることを確かめる。
「今行くよ」
「今日は入学式と手続きだけだろ? 書類とかは大丈夫なのか?」
「もちろんです、全て準備済みですから。それでは、参りましょう」
セレンが玄関の扉を開ける。アステルも荷物を手に取り、彼女と並んで街へ踏み出した。
大陸中央に位置する、独立学園都市アークヴェル。
龍族が治めるこの都市は、世界最大の教育機関――アークヴェル学院を中心に成り立っている。
学問や技術を修めるため。将来を見据え、人脈を築くため。あるいは、自らの力を試すため。
各国の王族や貴族から平民まで、種族も身分も異なる若者たちが、それぞれの目的を胸に世界中から集まってくる。
今日は、その学院が新たな生徒を迎える日だった。
街を歩けば、見慣れない種族や、異なる建築様式の建物が次々と目に入った。
尖った耳を持つ者。獣の耳や尾を持つ者。通りには石造りの建物だけでなく、木を組み上げたものや、色鮮やかな屋根を持つものも並んでいる。
借りた家から学院までは、それほど遠くない。その短い道のりでこれほど多様な光景が見られるのも、世界中から人が集まる都市ならではなのだろう。
「アステル。色々と気になるのは分かりますが、前を見ないと危ないですよ」
隣を歩くセレンが声をかけた。長い銀髪が揺れるたび、すれ違う通行人が彼女を振り返る。
「気配で分かるから、心配するな。それより、ここはヴァルガルドでは見なかったものばかりだな。少し面白い」
アステルは紅い目を、通りのあちこちへ向けていた。
「だからといって、よそ見ばかりしていてはいけません。学院に通っている間に、見る機会はいくらでもありますから」
セレンが手を差し出した。
アステルは不思議そうにその手を見たが、迷わず握った。周囲の目を気にする様子もなく、そのまま彼女と歩き出す。
「学院か……。師匠に言われたから来たが、本当に通うだけでいいのか?」
「何か気になるのですか?」
「あの人のことだから、何か裏があると思ってるんだがな」
任務の内容も、達成すべき目標も告げられていない。ただ学院へ通えと言われただけだ。それが、どうにも落ち着かなかった。
それに、こちらへ来てからセレンの機嫌がいい。普段は表情の変化が少ない彼女も、今はどこか楽しそうに見える。
やはり、何かあるのだろうか。
考え込むアステルの手を、セレンが少し強く握った。口元に小さな笑みが浮かぶ。
「普段のイグニア様を考えると、そう思うのも分かります。ですが、今回は何もないと思いますよ。私も、青春を楽しんでこいと言われただけですから」
「青春ね……。今更、学院で何を学べばいいのやら」
「まずは、行ってみましょう」
セレンが少し前へ出て、彼の手を引いた。
学院が近づくにつれ、周囲には同じ制服を着た生徒が増えていった。
十分も歩かないうちに、二人はアークヴェル学院の正門へ到着した。
「なあ、セレン。毎回、歩いて通うのか?」
「そのつもりですが」
「屋根の上を走った方が早くないか?」
セレンが足を止め、アステルを見た。
「何を言っているんですか……。街中でそんなことをしてはいけません」
「そういうものなのか」
「そんなことを言うなら、毎日一緒に登校しないといけませんね。初めから、そのつもりでしたけれど」
呆れたような口調とは裏腹に、セレンの表情はどこか嬉しそうだった。
アステルは門の向こうへ目を向ける。
「それにしても、人が多いな。さすが世界最大の学院だ」
入学式まで余裕を持って来たはずだったが、門の内側に設けられた複数の受付には、既に長い列ができていた。
生徒だけでなく、見送りに来た家族や付き添いの者もいる。あちこちで言葉が交わされ、朝の学院は賑わっていた。
「早めに出て正解だったな。走ればすぐだと思ってたんだけど」
「そうだろうと思って、早めに準備していただいたんです。これからも、きちんと道を歩いてくださいね」
セレンがそう答えている間にも、二人へ視線が向けられていた。
銀髪に青い目を持つ、すらりとした少女。その隣には、彼女と手を繋ぐ小柄な少年がいる。目を留めた者の中には、友人へ何か囁く者もいた。
セレンはそれに気づいていたが、繋いだ手を離すことはなかった。
「まずは受付を済ませて、式典会場へ向かいましょう」
アステルは頷き、彼女と列に並んだ。
見た目の混雑とは違い、受付は滞りなく進んだ。
順番が来て書類を渡すと、係の職員が手早く確認し、会場への案内を渡してくれる。
世界中から学生を迎えてきた学院だけあって、大人数への対応にも慣れているようだった。
手続きを済ませた二人は、式典会場へ向かった。
会場は、学院の全学生を収容できるという巨大な闘技場だった。新入生には観客席が割り当てられ、出席する在校生や来賓の席は、闘技場の中央に設けられている。
まだ席には余裕があった。二人は空いている場所を選び、並んで腰を下ろした。
開始時刻の五分前になると、周囲の席も急に埋まり始めた。
「隣、座っても大丈夫か?」
声をかけてきたのは、茶髪に緑の目をした、がっしりした体格の少年だった。
「ああ、大丈夫だ」
「助かる。ありがとう」
少年はアステルの隣へ座ると、親しみやすい笑顔で手を差し出した。
「俺はアルディナ王国から来た、ラウル・ベルグだ。よろしくな」
「アステル。ヴァルガルドから来た」
「アステルだな。これからよろしく」
「こちらこそ、よろしく頼む」
初対面とは思えない気安さに少し戸惑ったが、悪意は感じられなかった。アステルも肩の力を抜き、握手に応じた。
一方、セレンの隣は空いたままだった。席を探す生徒が何人か目を向けたものの、声をかけずに通り過ぎていく。
「そちらの方は?」
ラウルがアステル越しに、少し遠慮がちに尋ねた。
セレンは姿勢を正したまま、静かに目を向ける。
「セレンです。お願いいたします」
「セレンか。どこかで聞いたことがあるような……。まあ、よろしくな!」
短い挨拶にも気を悪くした様子はなく、ラウルは笑顔を返した。
「それにしても、アステルは何歳なんだ? ここの試験、結構大変だっただろ」
少し身を乗り出して尋ねられ、アステルは顔を向けた。
「十四歳だ。試験は……まあ、ツテもあったし、大したことはなかったな」
「十四!?」
ラウルの声に、周囲の何人かが振り返った。
彼は慌てて声を落とし、アステルへ顔を寄せる。
「ここって普通16歳からとかだろ…お前、どこかの王子様だったりするのか? この学院、そういう特別扱いをあまりしないことで有名なはずなんだけどな」
「ただの平民だ」
「ほんとかよ…」
ラウルは首を傾げ、アステルをまじまじと見た。
その視線を追うように、セレンがこちらへ顔を向ける。澄んだ青い目を受けたラウルは、苦笑して身を引いた。
「悪い。会ったばかりなのに、色々聞きすぎたな」
それからも、ラウルは学院へ来るまでの道のりや、街で見かけたものについて話し続けた。
アステルは時折相槌を打ちながら、開始を待った。何気ない話題ばかりだったが、こういう会話をしたことないアステルにとっては新鮮で、ラウル自身も話すことが好きなのか楽しそうだった。
やがて、来賓席も埋まり始めた。
見渡すと、何人か見知った顔がある。
「さすがアークヴェルの入学式だよな。来賓の顔ぶれが豪華すぎると思わないか?」
アステルの来賓席への視線に気づいたラウルが、同じ方を見ながら言った。
「そうかもな。帝国の人たちは知っているが、それ以外はあまり分からない」
「本当かよ。あそこなんて、滅多に国外へ出てこないことで有名な亜人族国家の王族が揃ってるぞ」
ラウルは声を潜め、来賓席の一角を示した。
「それに、あの服装……極東の島国の皇族も来てるみたいだな。学院出身のSランク冒険者も何人か呼ばれてるし。とんでもない戦力が集まってるな。あの人たちが戦ったら、この辺りが更地になるんじゃないか?」
アステルはその言葉に耳を傾けながら、来賓席を見渡した。
そのとき、会場に声が響いた。
「定刻となりましたので、これよりアークヴェル学院の入学式を執り行います」
周囲の話し声が静まっていく。
壇上には、青みがかった黒髪で暗青の目をした青年が立っていた。背筋を伸ばし、会場を見渡している。
「本日の進行は、生徒会長のヴィクトル・グレイブが務めます」
魔導拡声器を通して、凛とした声が闘技場に響いた。
「グレイブ家の跡取りか……」
隣でラウルが小さく呟く。
グレイブ家。
ヴァルガルド帝国の三大貴族の一つであり、「帝国の剣」とも称される名門だ。代々優れた剣士を輩出し、帝国軍総司令官を務めた当主も一人ではない。
現当主には、アステルも何度となく世話になっていた。しかし、その子どもたちとは顔を合わせる機会がなかった。
あの人の息子なのか。
アステルは少し興味を覚え、壇上の青年へ目を向けた。
「初めに、学院長からの挨拶です」
ヴィクトルの紹介を受け、一人の女性が壇上へ進み出た。
緑の髪に、同じ色の瞳。美しい顔立ちに加え、頭に生えた角、背の翼、そして尾が、彼女が龍族であることを示していた。
女性が会場を見渡すと、残っていた話し声も途絶えた。
「新入生諸君。ようこそ、我が学院へ。私が学院長のエルフリーデだ」
声を張り上げているわけではなかった。それでも、その言葉は会場の隅々まで明瞭に響いた。
「この学院には、世界中から様々な種族、身分、立場の学生が集まる。自分とは異なる考えに触れ、戸惑うこともあるだろう。楽しいことばかりではなく、時には苦しい思いをすることもある」
緑の瞳が、観客席に並ぶ新入生たちをゆっくりと見渡した。
「学び、考え、互いを知りたまえ。ここで得た経験は、君たちが生きていく上での糧となる。この学院で学ぶ四年間が、何にも代えがたい、貴重な時間となることを祈っている」
挨拶は短かった。
しかし、言葉が終わっても、すぐに声を上げる者はいなかった。一拍置いて拍手が起こり、やがて会場全体へ広がっていく。
席へ戻ろうとしたエルフリーデが、ふと観客席へ目を向けた。
アステルは、彼女と目が合った気がした。緑の瞳が、わずかに細められる。
何か用があるのだろうか。
そう思ったときには、既に彼女は視線を外していた。
アステルは周囲に倣い、拍手を送った。




