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文字くずの山  作者: あさもっど


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5/22

青い星の血管

 地球が文字通り『青い星』になった時代。

 海は、どこまでも青かった。

 空もまた、どこまでも青かった。


 かつて陸地と呼ばれていたものが沈みきってから、どれほどの時間が流れたのか、正確に知る者はすでにいない。今や人々は、海上で当たり前に巨大な浮体構造物を築いて生活していた。家や工場、学校から役所に至るまで、生活に必要なすべての施設が海にゆらゆらと浮かんでいる。そして、それらは頑丈な透明のチューブによって、まるで蜘蛛の巣のように互いに繋ぎ止め合っていた。みんなこのチューブを利用して隣家を訪ね、職場に通い、集会へ向かう。潮っぽい風に触れず、海に落ちる心配もない。


 とある男は、そのコミュニティの一角で家具職人として暮らしていた。寡黙だが手先が器用で、彼の作る曲線を生かした木の家具は、近隣の住人たちから高く評価されていた。彼の仕事場兼住居もまた、周囲の家々と太いチューブで結ばれている。

 近所付き合いは、極めて良好。良すぎるくらいだ。朝になれば、チューブを通って隣人が焼き立てのパンを持ってやってくる。昼には別の隣人が椅子の修理を頼みに来る。夕方になれば、自治会の役員が次回の集会の打ち合わせにと顔を出す。誰かが病気になれば力を合わせて看病し、誰かの誕生日は皆で祝う。透明のチューブは移動経路であると同時に、人々の視線や声、そして善意を絶え間なく運んでくる血管のような役割を担っていた。


 男はいつも穏やかに微笑み、差し入れを受け取り、修理を引き受け、集会には毎回参加する。周囲からも「静かで温厚な、頼りになる職人」と慕われていた。

 けれど、男は落ち着かなかった。誰かの視線から逃れられる場所がない。誰かの声が聞こえない時間がない。壁一枚、チューブ一本隔てた向こう側に、常に他者の気配がする。善意と親切で繋がれた網目は、寡黙な男にとって、真綿で首を絞められるような息苦しさがあった。


 彼は、孤独になりたかった。


 ゆえに計画を立てる。この繋がりっぱなしの生活から逃げ出すため。チューブを伝って隣町へ行くのではない。チューブの外、つまり、あの果てしない海へ単身出ていくのだ。

 仕事場の地下、居住区のメンテナンス用の小さな空間で、男は秘密裏に作業を始めた。材料は家具作りのために仕入れた木材の端くれや、廃材を利用する。作るのは、一艘の手漕ぎボートだ。


 日中は普段通りに家具を作り、隣人たちと笑顔で接する。今の生活からおさらばできると思うと、自然に笑うことができた。夜になると地下にこもり、カンナをかけ、木を曲げ、隙間を樹脂で埋めた。船のシルエットが少しずつ浮かび上がるにつれ、男の胸に久しく感じていなかった喜びが広がっていく。

 同時に、チクリと罪悪感も覚えた。パンを焼いてくれる隣人も、気さくな役員も、決して悪い人間ではない。むしろ善人ばかりだ。彼らを欺き、心配をかけるであろうことは心苦しかった。しかし、それ以上に、この密室のような繋がりから抜け出したいという欲求が勝った。


 半年かけ、ようやく小さなボートが完成。大人一人が乗り込み、数日分の食料と水を積めば身動きが取れなくなる程度の大きさだった。

 決行の日は、新月で風のない夜を選んだ。男は地下の床板を外し、かつて海洋調査に使われていたという古いハッチを解除した。そこからロープを使ってボートを海面へ下ろす。続けて別のロープで荷物をゆっくり積み込み、最後に彼自身もハッチをくぐり抜けた。

 冷たい夜の空気が頬を撫でる。数年ぶりに嗅ぐ、フィルターを通していない風の匂い、潮の混じった自由の匂いだ。

 彼はオールを握り、音を立てないよう、黒い海へ慎重に漕ぎ出した。海上施設の明かりが少しずつ遠ざかっていく。心の中で、別れと謝罪の言葉を紡いだ。それもたちまち、これからの希望に塗り替わってしまう。今や気付けば、星の灯りだけが頼りだ。男は振り返らず、背後にある巨大な蜘蛛の巣から、自分という一本の糸がちぎれ放たれていくのを感じた。


 夜が明けると孤独があった。上を見れば、雲一つない青い空。下を見れば、底知れぬ青い海。その間に挟まれているのは、小さな木のボートと自分だけ。透明なチューブも、お節介な隣人の足音も、自治会の回覧板も存在しない。

 圧倒的な解放感。男はオールを置き、狭い船底で無理やり仰向けになった。太陽の光を浴びながら、波に揺られる。どこへ向かうというあてもない。ただ、あの密室から遠ざかればよかった。

 それでも時折、罪悪感が頭をもたげる。自分の不在に気付いた隣人たちが今頃、大騒ぎしているかもしれない。さっそく捜索隊が結成されているかもしれない。確か、似たような失踪が昔もあったはずだ。その人は、結局見つからなかったと、男は記憶している。この広大な海で小さなボート一艘を見つけ出すことなど不可能なのだ。


 三日間、男は自由を満喫した。持参した乾パンをかじり、水筒の水をちびちびとすすりながら、果てしない海と空を眺め続ける。寡黙な彼にとって、誰とも話さなくていい状況は至福であった。

 しかし、四日目の夕方、天候が急変した。黒雲が空を覆い、風が唸り、たちまち突風となって、激しい雨とともに叫ぶ。一層高くなった波の力で、小さなボートは木の葉のように翻弄された。

 男はオールを握り、船のバランスを取ろうとしたが、自然の猛威の前では無力。波が船べりを越え、男はずぶ濡れになった。死の恐怖と終わりの見えない疲労の中、それでも抵抗を続ける。

 せっかく自由になったのだ、死にたくない。内心でそう叫び続けるうち、彼はいつしか意識を失った。



 次に目を覚ましたとき、彼はベッドの上にいた。視界がゆっくり焦点を結ぶ。見覚えのある清潔な白い天井。耳にかすかに届く、規則的な機械の駆動音。

「あ、気がついた」

 馴染みのある声。パンを焼いてくれる隣人のものだった。

 次いで、自治会の役員の顔が視界に入り込む。

「よかった、本当に無事でよかった。死んでしまったかと思ったよ」

 当の本人は目覚めたばかりで状況が分からず、無理やり体を起こした。ここはどうやら、何度か通ったことのある診療所のようだ。

 役員が興奮気味に経緯を説明する。

「君のボートが、居住区の東側にあるチューブの結合部に引っかかっていたんだよ。嵐の翌朝に見回りをしていた者が発見してね。チューブの外に出るなんて、一体どうしたんだい。家具に使う珍しい材料でも探しに行こうとしたのか。それにしても、あんな小さな手作りの船で」

 悲しそうな眼差しを前にして、男は何も答えられなかった。呆然として、彼らの顔を眺める。寡黙な性格が幸いし、周りはそれ以上の追求はしなかった。

「とにかく、無事で何よりだ」

 別の隣人が涙ぐみながら言った。

「君がいなくなって、みんな本当に心配したんだ。君は私たちの誇りだし、このコミュニティには欠かせない大切な人だからね」

「そうとも」と役員が頷いた。

「君の作ったあの頑丈なボートは、みんなで引き上げて広場に飾ることにしたよ。私たちの絆の強さと、奇跡の生還を記念するモニュメントとしてね。君が戻ってきてくれて、我々の結束は以前にも増して強くなった」

 男は窓の外を見た。透明なチューブが幾重にも交差し、その中を住人が笑顔で歩いている。遠い広場には、自分がすべてを投げ打って作ったボートが、立派な台座の上に祀られているのが微かに見えた。

「さあ、生還祝いの準備をしなくちゃな。今夜は大宴会になるぞ」

 隣人たちが口々に祝いの言葉を述べながら、病室を出ていく。

 一人残された男は、自分の両手を見た。死ぬ思いでオールを握りしめていたためだろう、手の平は白い包帯でぐるぐる巻きにされている。動かそうとすると、皮膚に走るヒリヒリとした痛み。これは、自由を求め、海へ出た証だ。しかし、この手は再び、隣人たちの家具を作るためだけに使われることになるだろう。

 男はゆっくりとベッドから降り、窓ガラスに額を押し当てた。冷たい仕切りの向こうには、彼の憧れた青い海が広がっている。だが今ではそれも、チューブという檻越しに見る、美しい風景画でしかなかった。


「いい景色だ」


 男はぽつりと言った。

 その声は、チューブを通る空調の音にかき消され、誰の耳にも届くことはなかった。

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