河原ない場所
昔ながらの改札を抜けると、アスファルトから昇る熱気が足元を伝ってきた。
すり切れた革靴は都会の舗装路を歩くためのものであり、この町の荒い起伏にはどうにも馴染まない。
ネクタイを緩め、スーツのポケットに手を突っ込んだまま、記憶を頼りに歩を進めた。
目指すは、夕陽を反射する水面と、大小様々な石が無造作に転がる、あの思い出の場所。ビル風の代わりに涼風を浴び、通知音の代わりにせせらぎを聞く。それだけのために、数日分の着替えを鞄に詰め込んで電車に乗ったのだ。
土手へ続く坂を、少し息を切らせて登り切る。
しかし、そこで待っていたのは、見渡す限りの灰色だった。
幾何学的な目地を刻んだコンクリートが、かつて土と草で覆われていた斜面をきれいに封じ込めている。
水流は、中央に穿たれた真っ直ぐな溝の中を、ただ従うように滑り落ちていた。それ以外は、石一つ、雑草一本たりとも周囲に見当たらない。
立ち尽くす足元に、蛍光色の反射ベストを着た恰幅のよい男が近付いてきた。手にはタブレット端末を持っている。
「美しいでしょう」
彼はコンクリートの広場を顎で示した。
ポロシャツの胸元には役場のエンブレムがある。
「数年前の再開発事業です。治水工事を兼ねて、ここら一帯を整地しました。もう増水で足場が崩れる心配はありません。誰でも安全に散策できます」
「元々あった河原は、どこへ行ったんですか」
絞り出した声は風に流れた。答えなど分かっているくせに、我ながら鈍いことを言ったと思う。
案の定、職員は不思議そうな視線を送ってきた。
「ここがそうです。以前のように土や石を残しておくと、豪雨に流されて下流に被害を出しますし、雑草の管理にもお金がかかりますからね。景観保護の観点からも、この直線的なデザインが高く評価されまして、県から表彰も受けたんですよ。もう、自然の脅威に怯える必要はありません」
すっかりこなれた説明のように感じた。職員は満足そうに頷き、タブレットの画面をそれらしく触りながら、まっすぐな道を歩いていく。
空では太陽が傾き、灰色のキャンバスに薄い影が落ち始める。
コンクリートの照り返しから目を逸らし、来た道へ戻ろうとしたとき、背後から別の声がかかった。
「嘆くことはありませんよ」
振り返ると、ハンチング帽を被った初老の男が立っていた。首から提げているカメラのレンズがきらりと光る。
「上の連中は分かっていません。表面を無理やり塗り固めて、都合の悪いものを排除しただけで、地域を守った気でいる。だからですね、本当の河原は、別できちんと保管してあるんです」
「保管、ですか」
「ええ。興味がおありなら、私についてきなさい」
男の背を追い、川沿いの道を下る。
かつては一面に田んぼが広がっていたはずの土地に、窓一つない半球体の建物が鎮座していた。鈍く光る金属の壁面は、夕日を映して異様な存在感を放っている。ここだけ時代を間違えているみたいだ。
ドームの入り口には、重厚そうな気密扉が構えている。男が傍らのパネルへ軽快に番号を打ち込むと、空気の抜ける音とともに、扉がゆっくりと左右に開いた。なんとも未来感がある。
「さあ、お入りなさい」
促されるまま、薄暗い通路をくぐり抜ける。
開けた空間に出ると、足元に広がる光景に心がざわついた。
丸みを帯びた無数の石が、地面いっぱいに敷き詰められている。その石たちの隙間からは背の高い葦が伸び、風でふらふらと揺れていた。さらに奥には穏やかに流れる水があり、オレンジ色の光を反射して煌めく。耳を澄ませば、水が石を打つ音が聞こえた。
一歩踏み出す。靴の裏で石がカチャリと擦れ合う感触があった。
踏んだ石を一つ拾い上げる。不思議なことに、表面にはうっすらと埃が積もっていた。砂ではない。指でさっと撫でてやると、そこだけツヤが出る。
おかしい。顔を上げ、周囲を注意深く見渡す。
風に揺れているように見えた葦は、どれも決まった角度のまま固定されていた。
川に見えたものは、波の形に成型された樹脂の層のようだ。
水音の出どころを辿れば、天井に並んだスピーカーに行き当たる。
煌めくオレンジ色の光は、ドーム内の壁に取り付けられた照明パネルから照射されたものだった。
熱のない日光は、石の影を焼き付けたように一定に保ったまま微動だにしない。
「美しいでしょう」
聞き覚えのある声に振り向くと、先ほどの役場職員が入り口に立っていた。初老の男と並んで、ドーム内の光景を誇らしげに見渡している。
「彼のような郷土史家の方々から強い要望を受けまして。町の特別予算を使って建設しました」
職員は、樹脂の川を指さした。
「川の形から石の配置まで、開発前の河原を細部までスキャンして再現しています。雑草にはきっちり防腐処理を施しました。空調システムで自然の微風をシミュレートし、照明は常に黄昏時の色温度と照度を維持するよう設定されています」
「これこそが、私たちの町の財産です」
初老の男は恍惚とした表情で呟いた。
「雨風によって削られることもなく、増水で景観が損なわれることもない。美しかった河原が、こうして今も守られているのです」
「ええ。ここはまさに、未来永劫、変わらない場所です」
職員は胸を張った。
手にしていた石を、元の場所へと落とす。
カツン、という作り物の音が、広さを錯覚させる狭いドームに響き渡った。
揺れない植物。どこへも行かない川。終わりのない夕陽。
黄昏を演じ続けるこのドームの中で、自然は剥製として美しく陳列されている。
ここには、本当に思い出の風景が揃っていた。
ただ、生命だけがきれいに剥ぎ取られている。
自分もまた、その変わらない場所を求めてここまでやって来た。
記憶の中の美しい瞬間だけを切り取り、それが都合よく、当たり前に、そこにあることを要求していたのだ。
匂いのない風を頬に受けながら、オレンジの光を見上げる。
口の端から、短く息が漏れた。それは、人工の水音に容易くかき消される程度の、小さな声だった。




