気に強いる
現代社会における対人コミュニケーションは、過去十年で不可逆的な変容を遂げた。
その象徴が、他者の失敗や悲哀に対する『慰め』のタブー化である。
「気にするな、ドンマイ」
「そんなの忘れちゃえ」
「明日は明日の風が吹く」
といった、かつては善意の発露とされた定型句が、現在では、相手の感情を否定し、前進を強制する暴力として定義されている。
通称『気に強しいるハラスメント』
略称『気にハラ』と呼ばれ、社会的に厳しく糾弾される行為となった。
発端は、ある大手チェーンカフェの店舗で起きた、些細な事象だった。
入社三日目の新人従業員が、洗浄中のグラスを床に落として破損させてしまった。
その際、店長が
「怪我はしていないか。誰にでもミスはある。気にするな」
と気遣いの言葉をかけた。
その寛容な指導に対し、新人従業員はあろうことか、労働基準監督署および人権擁護委員会に提訴をおこなったのだ。
主張は「私は自身の過失に対して深く反省し、罪悪感を抱く権利を有していた。店長の発言は、その感情の自己決定権を奪う精神的侵害である」というものであった。
当初、この訴えはクレーマー事案として処理されると予測された。
しかし、SNS上において、
「自分も、過去に友達から『気にするな』と気安く言われ、価値観を否定されたと感じた」
「人から反省する機会を奪うな」
という共感の声が拡がったのだ。
識者たちはこの現象を分析し、慰めは、ポジティブ思考の無意識的な暴力として定義付けた。
結果、新人従業員の訴えは部分的に認められ、店長は店舗運営の第一線から退くことになる。
この事件を境に、社会は他者を励ます加害性に恐怖を抱き始めた。
企業では『励まし禁止』がマニュアル化。
教育現場でもテストで赤点を取った生徒に対し、
「次は頑張ろう」と激励の声をかけた教員が、次々と懲戒処分を受ける事態に発展。
加害者となる危険を回避するため、人々はコミュニケーションにおける防衛策として『客観主義と突き放し』を選択した。
相手の感情には一切踏み込まず、生じた事実のみを伝達する手法である。
例えば、あるIT企業のプロジェクトチームにおける事例をひとつ。
取引先との最終プレゼンテーションの直前、担当の部下が、保存したはずの機密データを誤って消失させてしまった。
以前なら、上司が「気にするな、今はとにかくバックアップを探そう」と声をかけるところである。
しかし、気にハラを恐れた上司は、一切の感情と励ましを捨て、「君の過失により、本プロジェクトのデータは消失した。よってバックアップが見つからなければ、我が社は数千万円規模の損害を被る。以上だ」とだけ告げると、背を向けた。
私的な人間関係においても、同様の現象が観察された。
長年交際した恋人から突然の別れを告げられ、カフェの席で泣き崩れる女性に対し、対面に座る友人は何の言葉も発しなかった。
ただ無心の表情で、所持していたポケットティッシュを一定の間隔で机上に供給する動作のみを繰り返したらしい。
しかし、この極端な対応は、すぐさま新たな火種を生むこととなる。
データ消失を告げられた部下は、極度のストレスにより適応障害を発症し、親族が会社を相手取り提訴。
女性の友人は、「共感性のないロボット的対応により、精神的苦痛を増大させた」とネット上で騒ぎになり、実名を出され、社会的に抹殺された。
これらの事象は、『無関心ハラスメント』として新たな社会問題に認定された。
慰めれば「気に強いる」として罰せられ、
距離を取れば「無関心」と断罪される。
あらゆるコミュニケーション手段が封じられ、人間関係は常に息の詰まる地雷原と化した。
人々は自然と交流を避けるようになり、社会全体の会話量は統計的に約四割も減少した。
この八方塞がりの状況を打破すべく、ある著名な心理学者がひとつの理論を提唱した。
同調と寄り添い、である。
相手の絶望を否定せず、客観視もせず、当事者と同じ温度の悲哀と絶望を共有すること。
これこそが、現代における唯一の正当なコミュニケーションであると定義されたのだ。
ハラスメントリスクに怯えていた人々は、この目に見える正解にたちまち飛びついた。
しかし、それは社会に未曾有の喜劇的悲劇を引き起こすこととなる。
ある中堅商社での出来事。
事務員一人が資料作成中に、
「ホッチキスの芯を切らしてしまった。昨日の内に在庫の確認をしておけばよかった。私は無能だ」とため息をついた。
かつてなら無視されるか、軽く慰められる程度の事象である。
しかし、同調をマニュアル化された周囲の同僚七名は、即座に事務員のデスクを囲んだ。
「なんて悲劇。ホッチキスの芯の在庫を誰も把握していなかったなんて、私たちは全員、組織の歯車として無能だ」
と一斉に嘆き始めたのだ。
騒ぎを聞きつけた部長も駆け込み、
「この部署は基本的な備品管理もできない。組織として終わりだ。私のマネジメントの敗北である」と叫んで、床に突っ伏して号泣。
しまいに、この総務部は終日機能停止へ陥り、決裁業務がストップした。
この現象は企業のみに留まらない。
週末の繁華街で、ソフトクリームを落として泣き出した幼児がいた。
周囲を歩いていた通行人約二十名は、即座に足を止め、アスファルトに這いつくばった。
そして「重力という逃れられない物理法則の前で、我々はなんと無力なのか。おいしいソフトクリームが泥に塗れるこの不条理な世界に、生きる意味などあるのだろうか」と、幼児に負けぬ泣き声を放つ。
これにより交差点の交通は麻痺し、出動した警察官たちもまた、その絶望の輪に加わってしまい、交通整理までもが放棄された。
些細な負の感情は、周囲の同調によって際限なく増幅され、厄介な連鎖を生み出した。至る所で集団的な機能麻痺が発生し、都市の生産性は地を這う。
小さなミスが集団での号泣を引き起こし、社会インフラを停止させる泥沼状態。
これを危惧した人々は、最低限の社会生活を維持するため、また一つの自己防衛術を編み出した。
それは、ミスを犯した者、あるいは悲劇に見舞われた当事者自身が、周囲に寄り添われる前に、自ら過剰な道化を演じ、負の感情そのものを隠滅するという手法である。
例えば、レストランでクライアントとの接待中、給仕のミスにより赤ワインをスーツにこぼされたビジネスマンがいた。
周囲が同調の涙を流す準備に入った刹那、彼は即座に立ち上がり、満面の笑みで高らかに宣言する。
「おおっと、最高級のワインを全身で味わう機会に恵まれました。私は今、フランスのブドウ畑と完全に一体化しています。ノーダメージ。むしろ清々しい気分です。さあ、芳醇な香りに乾杯」
彼は怒りや悲しみを無理やり抑え込み、タップダンスを披露しながら、クライアントに笑いかける。
もし、少しでも悲哀の表情を見せれば、周囲は容赦なく同調し、商談は集団号泣の場に成り果てていただろう。
他者に気を遣わせ、社会崩壊を招く加害者にならないため、当事者は自らの感情を強引に塗り替える必要に迫られた。
かつて、社会は「気にするな」という慰めを、感情の決定権を奪うハラスメントとして排斥した。
その行き着いた先は、社会を維持するため、誰よりも深く、自分自身に対して「気にするな」と強いる世界であった。
今日も街角では、自転車で転倒した学生が即座にブレイクダンスを始め、財布を落とした老人がポップミュージックを大声で歌い上げている。
それがまた、誰かの善意の出口を塞いでいるとも知らずに。




