くるっていってました
猛吹雪の雪山。
クレバス(割れ目)の底に滑落し、身動きが取れなくなった私と先輩を包んでいたのは、絶対的な死の気配だった。
「先輩、私たち、どうなるんでしょうか……」
「悲観するな、冷静になれ。俺たちが戻らなければ、心配した家族や同僚が、必ず助けをよこしてくれるはずだ」
しかし、待てども待てども山の吹雪は一向におさまらず、救助が来る様子もなかった。
三日目の朝。
不意に、無線の電波が一瞬だけ繋がった。
ひどいノイズの中から声らしきものを拾った私は、凍えた手でマイクを握りしめ、隣でうずくまる先輩に叫んだ。
「先輩、救助は来るって言ってました! 希望はあります。持ちこたえましょう!」
「……本当に、そう言ってたのか?」
先輩からの疑いの視線が刺さる。
言われて考えてみれば、私から相手に話をしていない。それなのに、いきなり相手から救助に行くという言葉が出てくるだろうか。
心身の疲労のせいで、ノイズの一部を都合よく聞き間違えてしまったのかもしれない。
だが、ここで前言を撤回してしまえば、先輩から生きる希望を奪ってしまうことになる。
「はい、確かに、来るって言ってました!」
私が明るい声で告げた瞬間、先輩の虚ろな目に微かな光が宿った。
私の選択は、間違いではなかったのだ。
「そうか、来るんだな。よし、助けが来るまでカロリーを温存するぞ」
当初、先輩は極めて理性的だった。
残された僅かなチョコレートを正確に割り、雪を溶かして水を作り、生き延びるための計算を怠らなかった。
何度も意識を手放しそうになる私に「助けが来るまで、絶対に寝るなよ。二人で生きて帰ろう」と力強い励ましをくれた。
だが、五日が経過しても、救助隊は現れなかった。
外はホワイトアウト。聞こえてくるのは、終わりのない風の咆哮ばかり。
最初に先輩の精神に綻びが見え始めたのは、六日目の夜だった。
「お前、本当に、来るって聞いたんだよな?」
「は、はい。確かに、そう言ってました」
「誰が? どんな声で? 何時何分に?」
先輩は苛立ちをあらわに、血走った目で私に詰め寄り、無線のやり取りを一言一句違わず復唱するように求めた。
「中年くらいの男性の声で……」
私がたどたどしく答えると、先輩は「来るって言ってました、来るって言ってました、来るって言ってました」と、呪文のように同じ言葉を反芻した。
七日目。
先輩の脳が、絶望を拒絶するために幻聴を作り始めた。
「おい、聞こえるか。ヘリの音だ。おーい、ここだ!」
雪の壁に向かって、力なく手を振る先輩。
私が「ただの風の音ですよ」と宥めると、先輩は激昂し、私の胸ぐらを掴んだ。
「お前、そうやって人を絶望させて、俺の食料を奪う気だな! 騙されないぞ! 救助は来るんだ!」
猜疑心に歪んだその顔は、もはや私の知っている頼もしい先輩のものではなかった。
私はただ、謝ることしかできない。
八日目。
寒さと飢えが、先輩の理性を破壊した。
極寒の雪穴の中で、先輩は突然「あはは」と甲高い声で笑い出した。
「なんだ、そういうことか。俺は馬鹿だったな」
先輩の瞳孔は開ききり、焦点はどこにも合っていなかった。
そしてついに、極度の低体温症による錯乱『矛盾脱衣』という恐ろしい行動に出始めた。
「あー、暑い。なんでこんなに暑いんだ。ストーブの真ん前じゃないか」
先輩は凍傷のためにどす黒く変色した指で、無理やり防寒着のジッパーを下ろし、フリースを脱ぎ、手袋を雪の上に放り投げた。
私が止める間もなく、薄着になった先輩は、雪穴の出口へとフラフラと歩き出した。
「先輩、やめて……死にますよ……」
「迎えに行くんだよ。ほら、あそこで救助隊の連中が、温かいシチューを作って待ってる。早く行かないと俺の分がなくなっちまう」
吹雪く空の彼方を指差し、先輩は、狂気と至福の入り混じった、この世のものとは思えないほど無邪気な笑顔を浮かべていた。
そして、先輩は死の風が吹き荒れる闇の中へと楽しげに歩み去っていく。
もはや追いかける力がない私には、見送ることしかできない。
それが、最後に私が見た先輩の姿だった。
十日目。
ようやく天候が回復し、本物の救助隊がクレバスにロープを下ろしてきた。
私は瀕死の状態だったが、なんとか命を繋ぎ止めていた。
毛布に幾重にも包まれ、温かいテントの下へと運び込まれた私に、レスキュー隊員が深刻な顔で言った。
「君のご家族が心配になって捜索を依頼してきたんだ。助かって本当によかった。それで、君と一緒に登山していた、もう一人の遭難者はどうしたんだ。まさか、助けを呼びに行ったのか」
私の網膜には、吹雪の中で笑いながら服を脱ぎ捨てていった、先輩の異常な後ろ姿がハッキリと焼き付いている。
私は、凍りついた唇をゆっくりと動かした。
「いいえ、ただ……」
先輩が繰り返し呟いていた呪文が頭をよぎる。
「狂っていってました」
先輩も、そして、救助が来ると言ってしまった私も。
どこへも繋がらなかった無線機は、今も雪の中に埋まっている。




